ひとなつの恋 ⑦

 明野町ハロウィン祭は盛況のまま終了した。昼間とそれ以外とでの寒暖差は大きくなり、道端に生えた木々は黄色や赤に色を変えている。定山渓や登別では紅葉が見ごろを迎え、宿泊客が殺到していると、朝のニュースキャスターが声を弾ませていた。学校から帰宅する道中、住宅街で見る紅葉は街灯に照らされており、人工物のように見え風情は感じられない。

 今日は両親とも家にはおらず、寝るまでの時間をただ一人自由に使う事ができる。夜道を歩く中、明日の授業や課題と同様に、あの夜見た蝶の姿がちらついていた。ひっそりとマリーゴールドに隠れていた、薄黒い蝶の姿が。


 自宅へ行く道から逸れ、松原塾の門を目指す。途中まで一緒に歩いていた数人のサラリーマンとは、僕が大通りを右折したところで別れてしまった。寒空、月も星も見えない寂しい夜を一人で進む。寒く、風は冷たいけれど、夏よりも澄んだ空気が肺を満たす。ほんの短い期間の秋を飲み込むように、冬は少しずつ存在を主張していた。

 もう少しで冬が来る。黒い夜道に白い息がほうと浮かぶ。冬の蝶はどこで過ごすのだろうか。数メートルほどの積雪を見て、蝶は何を思うのだろう。冷たくて重たくて暗い中、春を待つ蝶がどこで過ごしているのか僕は知らない。

 街灯が照らす街路樹の傍ら、彩りを失いかけた花々が変わらずいた。花としての自信を失くし、少しずつ冬に飲まれていく準備をしている。花の横に座り、その裏を覗くが蝶の姿はない。蝶は寒い季節には蛹に成って冬を越す、とインターネットの記事を見つけた。縁石に座り、曇り空を見上げる。あの蝶はここでは無いところで冬を越すのだろう。

 先生の蝶になりたい。先生が大切にしている蝶の標本のように、大切にされる対象となりたい。その気持ちが叶おうとしている。メッセージアプリにピンを付けた先生のアイコンを見るたび、しみじみとその事実を実感する。寒さなど忘れてしまうほど胸は熱い。二〇時を越えた松原塾からは、まだ温かな光が零れていた。


「あら、坊や」


 立ち上がったところで、暗闇から一つ声がする。びくついた肩を見てか、その声の主はうふふと朗らかに笑った。恐る恐る声のした方を見れば、いつかの日に知り合ったおばあちゃんがシルバーカーを押して立っていた。柔らかな笑みを浮かべて、整っていないアスファルトに手元をがたがたと揺らし、僕の方へと歩いてくる。手袋とマフラー、ファーが付いたダウンコートを着た姿で。

 近くにやって来たおばあちゃんは、僕を見てまたにっこりと笑む。


「こんな遅い時間に出歩いちゃ危ないわよ」

「あ、はい」


 強くはねた心臓がどうにか落ち着こうとするが、落ち着こうとするほど拍動を強く感じてしまう。僕の返答におばあちゃんは満足そうに頷いて、横を通り過ぎて歩いて行く。薄暗い夜道を反射材も付けずに歩いて行く姿を目で追った後、その隣に着く。おばあちゃんが一度僕を見上げたようだったけれど、気恥ずかしさもあり、表情までを伺う事はできなかった。

 普段よりも半分の歩幅で、二人並んで夜道を行く。おばあちゃんは夜の散歩を日課にしているらしく、家から駅前通りに進み、橋を左に曲がって、突き当りを左折し松原塾の前を通って大通りを左折し北上。そうして家へ帰っているのだと話す。雪が無い期間は朝と夕の二回、一人であったり友達とであったりしながら散歩をするらしい。


「まさか坊やとまた会うなんてね」


 嬉しそうなその言葉にどう反応したら良いのかが難しく、曖昧に笑って誤魔化す。焼き芋の縁ではあるけれど、あの一件以降会うことは無く、僕の中で他人以上知り合い未満の関係性となっていた。ほんのわずかに緊張を感じる。


「寒くなりましたね」

「そうねぇ。もうおばあちゃんだから、こんなに厚着しないと寒くてね」

「あったかそう」

「うふふ、あったかいのよ、このダウン。坊やは寒くないの?」

「一応シャツの上にパーカーも着てるし、あと家に帰るだけだから大丈夫です」

「若いねぇ」


 鼻水を啜らないよう気を付け、長い長い夜道を行く。僕たち以外に歩行者はおらず、車が通ることもない。等間隔に置かれた街灯と街路樹の明かりを頼りに、静まり返った夜の町を進む。何度も通ったことのある地元の風景は、夜になるとその雰囲気を変える。僕たちの息遣いだけがうるさく聞こえ、二人だけが取り残されているような感覚がした。


「もう冬ね」


 路側帯に溜まった落ち葉を見て、おばあちゃんは足を止める。秋は短い。瞬きをするほどの短い期間に、ここの秋は過ぎていく。過ぎていくというよりも、追ってきた冬に侵食されていく。せっかく秋が生み出した暖色の世界はすぐに生気を奪われ、葉がそのまま枝から離れていく。そうして一つの季節が終わっていく。長く苦しい冬が来てしまう。

 冬は嫌いだ。白と茶色と青色だけがずっと残る季節が迫ってきている事実に、ため息のような呼気が漏れる。


「あっという間に根雪になっちゃいますね」

「嫌な季節ねぇ」

「そうですね」

「雪かきね」

「雪かき嫌なのすげーわかります」


 目の前の風景からは落ち葉は消え、深い雪の風景があった。たった半日で膝上まで積もる雪と、赤鼻で必死に作業する冬の肉体労働。二人そろって笑い合い、また歩き出す。吐く息が白いこと、冬がもう少しでやってきてしまうこと。同じ土地に住む者同士、小さな絆が芽生えた気がする。

 冬の嫌な所、秋の好きな所を話しつつ、綺麗な一軒家におばあちゃんを送り届けた。そのまま大通りを南下し、家へ向かう。何度も鼻水を啜って帰宅する頃には、時刻は二十二時を越えようとしていた。

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