ひとなつの恋 ⑥

 先生の蝶になれなかった悔しさは不思議とない。家に入る前だけ要らぬ考えで緊張していたけれど、あの日見ることができなかった先生の顔をしっかりと見ることができる。この空間で会っていなければ、僕はまだ先生を想っていたかもしれない。


「僕、先生の事が知りたいんです」


 僕が話せば苦しそうに、先生は苦しそうに顔を歪ませた。違うんです、苦しませたいわけじゃないんです。でも少し、辛くなってほしいなんて思う気持ちがあるのは確かです。うまく笑う事ができないけれど、黙る先生に向けて淡々と色を見せずに話を始める。


「おばあちゃんと話したんです。初物は笑って食べると寿命が延びるって。親にそのことを話したら、知らない人とむやみに仲良くならない方がいいって言われました。何をされるかわからないからって」


 先生は何も言わない。


「でも僕、不思議なんです。少し話しをしただけのおばあちゃんは、僕にとっては他人じゃない。だから、何をされるか分からないと言われても、何もされないだろって思ったんです。だって僕は、僕のことをたくさん知っている先生に、親にも言えないことをされてたんですから」


 先生は目を伏せる。噛んでいる唇が痛そうで、可哀想だ。


「ただ元々の関係性を考えたら、僕とおばあちゃんも、僕と先生も、何も知らない同士じゃないですか」


 先生のつむじが見える。絞り出すような声が小さく聞こえた。


「でも、僕は松原先生の声も温度も、……当時の感情だって思い出せてしまうくらいに、先生のことを知ってます。それが嫌な経験じゃなかったことも」


 先生は動かない。


「先生と離れて、僕はすごく不安になりました。僕を認めてくれた相手は松原先生だったのに、その人から別れを告げられたんです。僕は、先生の蝶になりたいと思っていたのに」


 先生、ねえ、こっちを見て。


「許せなかった。だって、僕の初めてを全部奪っていったんですよ、先生が。嬉しくて、幸せで」


 本当に好きなんです、先生。


「責任、取ってください」


 先生は俯いたまま、ただ黙る。静かな空間に僕らの呼吸音だけが響いていた。

 湯気の立つお茶に触れると、湯呑に触れた面がぴりと痺れた感覚がする。言いたいことは伝えられたけれど、反応を示さない先生の態度に不安を覚える。先生が作った逃げ道に沿って身を引いた僕との関係など、もう、何も考えられないのだろうか。


「――私は」


 先生の小さな声を聴き逃すまいと、自分の動きを止める。顔を上げた先生と目が合う。眉間にしわを寄せ、唇を噛む先生の姿が目に入った。


「私はずるくて愚かな大人だよ」

「当時の先生を今の先生が愚かだっていうなら、僕だってそうです」

「君はずるい私に弄ばれたんだ。だから、いや……そのせいで、君と私の間に恋愛に至る何かがあるって勘違いしてしまってるんだ」

「そうかもしれないけど、僕は先生を知りたいって思ったんです。勘違いなんかじゃない」

「……私を知って、どうするんだい」


 吐き捨てるような口振りで、先生は僕を見る。


「君にあんなことをした私が言える義理じゃないけど、もう君を傷つけたくないから、これだけは言わせてほしい。――もう私みたいな大人と関わったらだめだ。君はまだ未来を夢見られる年齢なんだ。過去に拘って、ばかな事をするもんじゃない」

「ばかな事って……」


 鋭い視線が僕を刺す。見たことのない表情だった。僕を歓迎していなかったのは、この空間だけではなかった。僕を僕では無くした先生ですら。


「私はもう遥樹くんを傷つけたくないんだ」


 それが精一杯の、先生からの拒絶なのだと気付かされる。あの日、もう謝ったと言われた時も、きっと先生は僕を拒絶した。そうすることで僕を助けようとして、自分が助かろうとしていた。


「そういうなら、最初っから生徒と先生の関係でいればよかったじゃないですか」


 聞き分けの良さを捨てる覚悟をして、僕はここにいる。喉奥が痛むのを堪えて僕は先生をただ見つめる。僕から別れを告げてほしいと思っているだろう苦しそうな表情が、僕は嫌いだった。選択を与えているようで、ただ先生が安心したいだけ。

 知らない人同士に戻ること自体が無理なのだ。僕が僕として生きるための道程の中、先生が作った道筋の影響はあまりにも多い。それを傷つけたくないという言葉だけでなかったことにできるほど、簡単なものではない。


「まだ僕が高校生だから先生が困るんだったら、二十歳になるまで待っててください」


 先生は何も言わずに僕を見つめる。とっくにぬるくなったお茶をすべて飲み干し、身を乗り出して先生の手を掴む。びくついた肩には気が付かない振りをして、その細い手を両手で握り込んだ。心臓は破裂しそうなほど音を立てている。


「それまで、松原悠太のことを僕に教えてください」


 先生の空いた手が、静かに僕の両手を解いていく。硬い表情をしたままのその動作を、僕は黙って見つめた。解かれた手を机に戻し、改めて椅子に座る。先生は自身の両手の平を見てから、手を組んだ。ゆっくり顔を上げた先生が、大きく息を吐いた。


「……それで遥樹君が辛くないんだったら待つよ」


 また、先生が大きく大きく息を吐く。先生としての世間体を気にすることをやめるように、顔を数回擦って、じっと僕を見てきた。内心、興奮が止まらない。心臓は先程よりも大きく脈打つ。次に何を言われるのか、期待している自分がいた。


「でも、遥樹君と会うことは年に一回だけにする」

「え……どうしてですか」

「遥樹君はもっと世の中を知らないといけないから。私とばかり関わるよりも、世の中を見て、どう生きていきたいかを考えないといけない」


 まじめな顔で話す姿に、自然と背筋が伸びる。言葉を選ぶ先生の声色は、もう苦しそうではなかった。一人の大人として、考え無しの子どもを導こうとしてくれている。


「世の中を見て、年に一回だけ会って、それでも私を好いてくれるんだったら、ちゃんと付き合おう。その時には、もう四十近いおっさんだけどさ」

「分かりました! 会うのはそしたら、俺が塾に通った八月のどこかにしてください」

「うん、わかった」


 そう優しく笑う先生に、僕も笑顔を返す。それから、と続けた先生の表情はやわらかく、目元の皺が濃くなっていた。


「年に一回しか会えないって、七夜ななよみたいでちょっとクサイね」

七夜ななよ?」

「七夕のこと。夏にしか会えない恋をするなんて思ってなかった」


 ふわりと笑う先生の姿に、胸が高鳴る。薄い唇が弧を描き、伏し目がちに笑む姿に、僕は初めての恋をした。年齢を重ねたとしても、その姿は全く変わらない。より一層魅力が増えているようにすら感じられる。

 短い沈黙の後に差し出されたスマートフォンの画面には、友人登録をするためのコードが表示されていた。読み取り、追加する。アイコンには様々な瓶を背景にした、一つのグラスが映っている。


「お酒が飲めるようになったら、ごちそうするよ」


 そう話す先生は、ジンデイジーが好きなんだと続けた。

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