ひとなつの恋 ⑤

 映画の高揚感が抜けないまま過ごし、明日には明野町ハロウィン祭当日が迫っていた。母は夜勤でおらず、父も決起集会という名の飲み会のため早くから街に繰り出している。薄暗く寒い、物寂しい町に一人残された僕は、歩き慣れた道を進んでいた。

 何度も何度も通った道。目を瞑ったままでも道を間違えることなんてないように思えてしまう。秋の夜長は物音ひとつなく、歩く自分の息遣いが嫌になるほど明瞭だ。ふだんは自転車を使う町を歩く。それだけで少し風情があるような、自然と一体となるような、そうした心地良さがあった。


 体がぽかぽかと温まってくる頃、ようやく目的の場所に着く。レンガ造りの二階建ての建物。通っていた頃と同じ。塀が周囲を囲い、入口から玄関まではタイルと砂利が敷かれている。観音開きになる松原塾の玄関扉からは、暖かいオレンジの光が覗いていた。

 その光景を、塀からじっと見つめる。乾いた唇を舐め、ささくれだった薄皮を歯で剥ぐ。ピリッと唇が痛んだかと思えば、口腔内にじんわりと血液の味が広がった。新着メールの通知がスマートフォンの画面に映る。あとはこの小道を進むだけ。なのだけれど、足が地べたにくっついてしまったかのように動くことができない。

 大好きな、それでいて、苦しい場所。忘れていた松原先生の温度を思い出してしまう。一歩を踏み出す勇気が出ず、回れ右をして歩道の縁石に座る。等間隔に植えられた街路樹の足元には、マリーゴールドやひな菊が元気そうに茎を伸ばしていた。薄暗い街灯がそれらの鮮やかな色を映し出す。大きな影が一つ映り、身をかがめて葉の裏をみれば、羽を閉じた一羽の蝶が留まっていた。

 触れても動き出しはせず、じっとその場に留まっている。手に付いてしまった鱗粉をズボンに擦り付けて落とす。空には冬の訪れを告げるオリオン座がぼんやりと見えた。ため息を一つ吐き、大きく伸びをする。そろそろ、覚悟を決めるほかないのだ。



「いらっしゃい」

「こんばんは。すみません、こんな夜に」

「大丈夫だよ。……家で何かあったの?」


 家で、か。記憶に残る松原先生と同じ表情で、先生は優しく笑う。家での悩みがないわけえはないが、それを先生に相談するには、僕は大人になり過ぎてしまった。僕が何も答えずにいると、先生は困ったように笑って上がるように促す。それに従い、先を行く先生に付いて、懐かしいあの教室へと進んだ。

 長机に二脚ずつ置かれたパイプ椅子。壁には課題の期日や、地元の中学校のテスト期間までの残日数が書かれた紙が貼られている。


「生徒、昔より増えたんですか」


 僕の視線を追ったらしい先生は、「うん」と嬉しそうに笑った。部屋を出て行った先生の背中を少しだけ追い、伏せる。僕が居たいつもの席に座り、また、ぼんやりと教室内を見渡す。貼られたプリント以外、何も変わらない室内。懐かしい香りが残る教室内であっても、歓迎されていないように感じてしまう。

 この席も、この机も、今はきっと他の誰かの物になっている。もう、僕が居た頃の松原塾ではなくなってしまった。その事実がじわりじわりと心を蝕んでくる。そう望んだのは、僕だというのに。


「お待たせ。まさか連絡が来るとは思ってなかったから、驚いたよ」


 前の座席に座った先生からお茶の入った湯呑を受け取る。そう、僕は今日、松原先生に用事があった。居住まいを正し、すっと先生を見る。

 先生、笑い皺が増えたんですね、ほうれい線も、目の隈も。爪は変わらずきれいに整えているの、僕はすごいと思います。もう四十歳近いのに、細くてしなやかな身体で居続けるなんて大変でしょう。僕のことどう思っていますか。


「聞きたいことがあるんです」


 つばと一緒に思いを飲み下し、じっと先生の目を見る。先生も姿勢を伸ばし、“先生”として僕の前に座った。優しく微笑み、僕をただ待ってくれている。どう伝えたらいいのか、適切な言葉が分からない。

 けれど何かを伝えた時、先生は僕が求めている答えを必ず導き出してくれる。心地の良い言葉と声音で、先生は僕のために言葉を使ってくれる。そうした安心感に僕はいまだに甘えていた。昔も、メールを送ってしまったあの時も、そして今も変わらずに。


「先生。僕は蝶にはなれませんでしたか」


 先生の表情が強張る。そうですよね、先生。


「この間ちょっと懐かしくなって昔の荷物整理してたんです。そしたら小学生の頃に父に買ってもらった蝶の標本が出てきたんですよ」


 先生が蝶の標本を大切にしていることも、蝶の生涯が並べられた標本を気に入っているということも、僕は知っているんです。


「こうしたきっかけをくれたのが先生だったなと思ったんです。でも、この間会った時は何話していいか分からなくて」

「……うん」

「だって僕、先生の蝶にはなれなかったじゃないですか」

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