ひとなつの恋 ④

 数回行われた会議の全てに僕は父と参加し、その度松原先生と挨拶程度の雑談をした。松原先生は今も趣味で蝶の標本を保管していること、僕が通っていた頃よりも松原塾に通う生徒が増えたことを楽しそうに話した。

 カゴに入った四種類のお菓子を、先生は器用に袋詰めしていく。じいさん達が顔を突き合わせてルート分けをする間、僕と先生、数人の女性陣とが配布する菓子の準備をする。僕たちは自然と隣に座り合って、静かに作業をするに至った。

 先生の指がチョコ入りマシュマロを取り、ラッピング袋へ入れる。次いで四角いチョコレート、うまい棒、飴二つを丁寧にしまう。流れるような所作に見惚れてしまいそうだった。


「高校はどう? もう二年生なんだもんね」

「まあ、普通です。特に何もないです」

「普通って……」

「先生は塾まだやってるんですか」


 松原先生の手が一瞬止まったようだったが、それを感じさせないように、また袋詰めを続ける。黙った先生と同じように淡々と、静かに、目の前に課された作業を続けていく。耳に入れると少し痛い、プラスチックのとげとげとした音。

 良い心地ではなかったけれど作業を続け、解散したのは一八時に差し掛かろうとしたところだった。ルート決めも紆余曲折ありつつも終わり、最終的に四ルートを作るに至ったらしい。個人商店を巡る三ルートと、チェーン店を巡る一ルート。好きにルートを選んでよいことになっていた。


 青色のスニーカーは夕暮れのオレンジに照らされる。自転車で風を切る道すがら、はあっと口で息を吐く。――これだけ寒いなら、と思ったが、まだまだ息が白くなる予感は見えない。家とは逆方向にある駅へ向かう。明野町を南北に隔てる線路。線路の上を通りその往来を容易なものへとした歩道橋を持つ明野駅。

 土曜日の夕方はスーツ姿の人は数えることができるほどしかおらず、そのほとんどは駅を後にしていく。休日など関係なく仕事に明け暮れることが、大人として生きる当たり前なのかもしれない。

 ホームに置かれたベンチに座り、幼い頃の母を思い浮かべた。女は不利なのだと、父によく伝えていた。夜遅くに帰宅し、家事を済ませて寝る生活。団欒や会話を楽しんだ記憶は多くない。学校で過ごした後の時間、仕事で忙しい両親よりも松原先生と過ごしていた時間で溢れている。

 数分ベンチで過ごし、銀色の車体に緑と赤のラインが入った電車に乗り込む。対面式の座席。向かいに座る女性はこれから街へ行くのか、目のやり場に困るほど大胆に露出された足が眩しい。

 目線を上げると胸元や顔に視線が引き寄せられてしまう。かと言って見ないように目線を下げれば、晒された細くすらりとした脚が見える。女子が憧れる女子、とはこういったひとを指すのだろうか。どこに視線を置くことも難しく、携帯でこれから上映される映画を調べ、車窓がだんだんと暗くなっていくのを横目に感じることにした。


 メッセージアプリには数件、友人からの連絡があった。上から順に返信をこなせば、通知が届き、また返し、通知が届き、と応酬が始まる。中学時代の友人と造ったメッセージグループが盛んに動いていた。内容は一週間後に控えたハロウィン祭全制覇についてだった。奇跡的に部活もなく予定が合う祭当日に、ハロウィンルートを全制覇しよう。そう、相田はチラシの写真を載せて興奮したようにメッセージを送ってきている。

 他の面々も楽しそうに返信をする中に、いいかげんなスタンプを一つだけ送る。到着を告げるアナウンスが鳴る頃には、携帯の充電が半分を切っていた。あの女性も降車するようで、気怠そうな顔をしたまま僕の後ろに並ぶ。電車の扉が開く頃には僕ら乗客は一つの団体になって、車内からはじき出された。

 近くのエスカレーターに向かって、一団は人数を増やして進む。前にテレビで見たイワシの群れのようだなと思う。ここには群れから脱する者はいたとしても、この群れに危害を加える者はいない。足取りを合わせて改札を抜けると、煙が溶けていくようにそっとこの一団は解けていった。あの女性はもう見つけられない。

 エレベーターにようやく乗り、七階にある映画館へ着く。特に見たい映画があるわけではなく、一番上映時間が近かったシリーズ物の洋画のチケットを購入した。開演時間に迫っており、何も買わずにまっすぐスクリーンへ向かう。休日の夕食時だが、客はそこそこの入りだ。


 映画館が好きだ。映画鑑賞をするという行動が好きだ、というほうが的確であるかもしれない。視界いっぱいに投影される映像だけが、すっと入ってくる。時間を忘れて、主演や助演の表情、声音、作り上げられた雰囲気にのめり込む瞬間が、好きだ。

 それは客としての僕を捨て去った行為。僕は主役として、二律背反する現状に身を引き裂かれるほど葛藤する。僕は主役の妻として、多くを語らないながらも彼の身を案じ、行く先に多くの幸せがありますようにと導き手となった。フィクションの中であっても、ノンフィクションであっても、ノンフィクションを基にしたフィクションであっても、それは変わらない。

 何者にでも成り、何者であったのか忘れてしまうほど、僕の感情は揺れ動かされる。自分が自分ではなくなり、何も知らない他人になる感覚。伊田遥樹として生きてきた一七年間の輪郭が揺れ、他と曖昧になる不安感。

 オレンジ色の館内電灯が三番スクリーンを明るくする。エンドロールからゆっくりと僕自身に戻り、この光で僕は正真正銘伊田遥樹であると自覚することができた。

 劇場から下るエスカレーターに乗ると、より一層現実に戻って来たと感じられる。知らない人になり、まるで自分自身を見失ってしまいそうになる。スクリーンに映し出された登場人物たちは、僕の中で何も知らない赤の他人ではなくなっていた。こうした時に僕はよく考える。知らない人という境界は、いったいどこに在るのだろうと。


 薬物乱用防止教室に出ていたあの容疑者のように、足元がふわふわとして胸が高揚している。僕として帰路に着く道すがら、見た映画の細やかな息遣いが聞こえてくるのだ。人と映画を見ることは苦手だが、人と映画の感想を語り合うことは好きだった。

 今日の映画を思うと嘆息が漏れてしまう。“先住民女の夫スクウォーマン”として生きたあの瞬間、家族や、子どもを守ろうと気丈に振る舞ったあの時間。今は何をしてもあの強い母のように振る舞える気がしてしまった。ほとんど勢いに任せて送ったメール。通知音を全て消し、電車に揺られながら映画の余韻に包まれる。

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