ひとなつの恋 ③

 それから僕はおばあちゃんと焼き芋を半分こして、タクシーが来るまでの短い時間を一緒に過ごした。高校卒業を控えた孫が心配であること。おばあさんは駅の近くに流れる川沿いに、二世帯住宅を構えていると話をした。

 数匹の猫と、番犬代わりのゴールデンレトリーバーを飼い、のんびりとした日々を過ごしているらしい。良く見れば、黒い服を着たおばあちゃんには、金や茶色の毛が付いていた。

 僕は高校二年生でこの町から通っていること、部活に入ろうと思ったがやめたこと、ハロウィン祭を町内会で企画していることなんかを、ぽつぽつと話した。おばあちゃんは頷きながら微笑んで、たまに、いいわね、と相槌を打ってくれる。


「今年の初物って一年経ったらまた初物になるんですか?」


 甘ったるく、舌でペーストを練ることができるほど濃厚な焼き芋を食べ、尋ねる。


「そうねぇ」


 まだ半分以上残った焼き芋を手に持って、おばあちゃんは朗らかに笑う。


「初物として坊やが楽しめるかどうかじゃないかしらねぇ」


 口元に手を開けて笑む顔が、いたずらっ子のようだった。もう少しこの女性と話していたかったけれど、真っ黒なタクシーが目の前に停まる。申し訳なさそうに白髪の男が頭を下げるのを、優しく「いいのよ」と制して、おばあちゃんは僕に向かって微笑んだ。


「焼き芋ごちそうさま。坊やとお話しできて楽しかったわよ」


 秋晴れのような心地良い温かさを残し、タクシーは彼女を連れて北へと進む。タクシーが見えなくなるまで、ベンチから行く先を目で追った。手のひらはじんわり暖かく、それと同じくらい胸もじんわりと温かい。

 小学生の頃は知らない人と話してはいけない、という決め事をしっかりと守っていた。一体いつからこの決め事はなくなってしまったのか、思い返しても分からない。タクシーで帰ったあの女性も、全く知らない人だった。ただ、席を譲り合って、世間話を楽しんだだけのさっぱりとした関係。

 知らない人と話してはいけないと教えられた小学生中学生は、本当に町内のハロウィン祭に参加するのだろうか。考えても仕方ないことだけれど、町をあげてのお祭りの集客率に不安を感じる。一体どこからどこまでが知らない人で、僕は話していけないと言われていたんだろう。

 落ちた日が目に刺さる。白と淡くなった朱が溶けたような強い光。長く瞬きをする、瞼の裏にも明るい日の光が映った。ただ明るいだけの光を背負って自転車を漕ぐ。五分ほどペダルを漕ぐと家が見えてくる。老朽化で遊具が撤去された寂れた公園が、家のすぐそばにある。テレビで見る町では遊具もボール類も使ってはいけないと言われるが、ここは何でもありだった。今もサッカーボールを追いかける児童の姿がある。きゃあきゃあと楽しそうで、当時の自分を見ているようだった。


 家はひっそりとして、少し底冷えする。まだ暖房をつけるには早い時期。キッチンのゴミ袋に焼き芋の残骸を捨て、右足から階段を上る。簡素な自室のクローゼットの奥底に用事があった。いつから出していないかもよく覚えていないけれど、いくつか取り出した段ボール箱の一つを、それらは占領していた。

 父にねだって買ってもらった蝶の標本が、当時と変わらぬ美しさで僕を見る。珍しい蝶ではなく、初夏、地元でよく見る蝶たちが詰まっている。個の蝶たちがいつ死んだのか分からない。学習机に蝶の標本を置き、ただ眺める。羽の模様、生気の無い目、それでもこのピンを外したら飛んでいけそうなほど美しい死体。

 あの太陽のようなおばあちゃんも、この蝶のようにきれいに死んでいくんだろうか。知らない誰かの死に際も、身内の死に際も立ったことが無いせいで、テレビで見たような死のイメージが浮かぶ。けれど、どれもひっそりとしていて、おばあちゃんに感じた温かさは一つもない。

 ベンチを譲った人と、譲られた人。それだけなのだろうけれど、僕はもうおばあちゃんを知らない人だとは思えなかった。孫がいて、一緒に焼き芋を食べて、外で一緒におしゃべりをした。僕はおばあちゃんと呼び、おばあちゃんは僕を坊やと呼ぶ。他人の境界が揺れて、壊れていくような、そんな感覚だった。


 僕と先生も、こうして知り合いになっていったんだったっけ。もう、始まりは思い出せない。僕の初めてを食べ続けていた先生は、一体全体寿命はどれだけ伸びているんだろう。段ボール箱の中にはほかにもたくさんの思い出がしまわれている。真っ赤なノート、課題のプリント、消しゴムやシャープペンシルなんかが、互いを干渉しないように整然と。

 ノートの一つは初夏から秋が深まって来た頃の思い出がびっしりと書かれていた。拙いながらも大人ぶって丁寧に書いた字と、ハネが鋭角にとぶ癖を持つ滑らかな字とが交互にページを埋めている。表紙に戻る。小学六年生の頃にやりとりをしていたものだった。夏の思い出と、文中には出ないものの、先生への想いが溢れたページがどこまでも続いている。

 かわいい感情だと、素直に思う。松原先生が、初めて会ったときから松原悠太だったら良かったのに。そう考えたところで、母の声に諫められた。“知らない人についていったらだめだからね”と、確かにそう聞こえた。

 ノートをぱらぱらと開いては戻し、新たなものを取り、同じようにして戻す。僕が触れようとして触れられなかった先生の温度を探していた。けれど見つからない。先生の熱はどこにもない。今日再会した先生にも、同じ温度は感じられなかった。僕と先生はあの日から、とっくに知らない人同士になってしまったのかもしれない。

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