ひとなつの恋 ②

「父さんならもう帰りました。何か伝言することでもありましたか?」


 ただ名前を呼ばれただけ。ただそれだけにもかかわらず、胸の奥底に秘めていた大事な感情が無遠慮に撫でつけられた感覚がする。それを決して拒まなかった時期が長すぎた。松原先生は僕の隣に立つ。

 嫌悪とかを感じることがない間に、正しい位置に帰ってきたと思えてしまうほど、それは自然な動きだった。公衆電話を使ってタクシーを呼んでいる参加者以外、ロビーには僕と先生しかいない。避けてしまえば、きっと電話をするおばあさんに訝しがられてしまうだろう。


「いや、そういうわけじゃないんだけど、その、久しぶりだね」

「父に、何か伝言することはありますか」


 取り出した携帯に通知はない。先生の顔を見なくて済むよう、メッセージアプリをただ開く。公式店舗からのメッセージが通知の上部を占領する。今日は高校生の意見を伝えるために来たわけではなく、あくまで父の仕事を手伝うついで。今この時も、それは変わらない。


「特にない……です」

「分かりました。僕も用事があるので失礼します」


 数分も経っていないだろうが、動かす足が重たく感じてしまう。先生から離れたいのか、離れたくないのか、はっきりとした答えが出てこない。ただ、風にうすらなびく程度の短髪でも、後ろ髪を引かれることはあるようだ。


 □


 高校に上がって初めての夏の日、一つ上の学年に美少女がいると話題になった。テレビで見るアイドルたちのように細く、しっかり飯を食べているのか心配になってしまう。女子たちもその学生を知っているらしく、まるで友達のように「ミサトちゃん」と呼ぶのだ。

 日が変われば話題も変わる。それでもミサトちゃんとやらは話題の隅っこにいつもいて、僕の高校生活における準レギュラーのような存在になっていた。女子にとってはアイドル的な存在だっただろうが、僕は男だ。周りにいる集団も男だ。ミサトは性的なアイコンでしかなくなっていた。

 彼女が開設したアカウントはいくら探しても見つからなかったが、探していれば彼女の友人が投稿した素人ダンス動画が沢山出てきた。コメント欄には彼女の制服から学校を特定しただのいうものや、そのスタイルを賞賛するものとが溢れている。有名になるというのもあまり良い事ではないらしい。

 秋が深まる直前に、彼女の姿が消えたと言った。誰が気付いたかは分からなかったが、それはすぐに広まった。枯れ葉が落ちる頃だった。枯葉が路面を埋めた頃、どこにもミサトの残滓はない。不慣れに踊るミサトが浮かべた、少し困ったような笑顔。それだけが残り香のように記憶にある。


 どの季節が好きかと聞かれたなら、少し悩む素振りをした上で秋と答える。春は冬の気配を連れ立って歩くから嫌い。夏は春の手を拒み、秋の存在を仄めかすから嫌い。秋は夏の姿に胸を焦がしているけれど、それはすべてを飲み込む冬から逃れるため。冬は秋を飲み、飲み込んだ秋ごと春に溶け出すから嫌いだ。

 秋だけが、秋自身に対して誠実だ。夏からの自立、冬への抵抗。何度も根雪を退ける姿もむなしく、冬は一年のほとんどを飲み込んでしまうけれど。逃げ出そうにも逃げ出せない苦しみを持っていそうだから、僕は秋が好きだった。


 地元のスーパーに置かれた錆びたベンチに座り、駐車場の車が入れ替わっていく様をただ眺める。まだあたたかな陽気と、深まる秋を思わせる冷たい風。手があたたかいね、と言われることが多いけれど、指先は冷え切って動きが鈍い。

 秋は夏よりも青空が白んでいるように思う。夏よりも空が高く感じ、どこよりも早く羊雲が青空を飾る。今日は土曜日だからか、子ども連れが多い。タクシーを待つおばあちゃんが所在なげに立っていたので、ベンチを譲る。遠慮していたが、「もう帰るので」と伝えると謝りながらも座ってくれた。

 ただ帰るのは落ち着かず、スーパーへと入る。独り善がりだが、善い行いだ。少し強くなった気さえしながら、生鮮食品を見て歩く。入ってすぐに焼き芋の甘いにおいがした。根菜類が並んだコーナーに、焼き芋と印字された紙袋が整列している。直近の出来立て時間は一四時。つい一〇分ほど前の焼き上がり。小腹が空いたこの時間に焼き芋の香りは毒でしかなく、こっそりとその一つを手に取った。

 焼き芋だけを買いに来た食いしん坊だと思われるのは少し嫌で、紙袋の端っこを掴んだまま、ぷらぷらと陳列している野菜を見る。白菜がたくさん陳列したその上に、鍋の素が大量に並ぶ。スーパーは秋を通り越して冬を見越しているらしい。秋の気配を探すけれど、焼き芋と天津甘栗、夏場には出てこなかった平茸が並んでいるくらいだった。

 お小遣いに余裕もあるから、肉でも買って帰ろうか。二〇パーセントオフのシールが貼られた焼き肉用の牛肉とにらめっこする。肉と、たしか母さんが作ると言っていたカレーライスが食卓に並ぶことを想像すると、肉は最適解ではない。野菜コーナーの脇に置かれた漬物コーナーから福神漬けも手に取って、僕はレジへと向かった。軽かった財布がじゃらじゃらと重たくなる。


「あら、お芋」

「あ、ちょっとお腹空いちゃって」

「初物はねぇ、笑って食べるといいわよ」


 深いほうれい線をさらに深くして、少し腰の曲がったおばあちゃんが微笑む。シルバーカーに載せていた手を、ベンチの隣においてポンポンと叩く。促しのまま隣に腰掛けて、不思議な相席が始まった。聞けばおばあちゃんはタクシーを呼んでいたがなかなか来ず、もしかしたらと連絡したところ迎えの手配ができていなかったらしい。

 しかしタクシー会社は混んでいるようで、配車には一〇分以上かかってしまうらしかった。それでこの少し冷たい空気の中、隣人もなく座って待っていたとのことだった。


「初物はね、ちゃんと東を向いて、笑って食べるの」

「東?」

「そうよ、うふふ、寿命が延びるんですって」


 こんなばーさんが長生きしたってねぇ、とおばあちゃんは楽しそうに笑う。僕は同じようには笑えず、「寿命が」と呟くことしかできない。

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