ひとなつの恋 ①
「久しぶり、だね」
「っす」
まだ残暑に茹だる九月の半ば、市の福祉協議会が運営する生活支援センターの一室で、久しぶりに松原先生と会った。町内の大人たちが集まる場にいた僕を見て、松原先生は驚き目を丸くしていた。
農協職員や個人商店の店長や、町内の班長達が集まった空間は、入った瞬間から“年寄りのにおい”で充満していた。誰もそのにおいを気にしていないようだったが、僕はそそくさとそこから逃げ出し、自動販売機で買った炭酸ジュースを開けたところで、松原先生と出会ってしまったのだ。
炭酸のパチパチとした気泡が喉を刺激する。数年前と変わらない華奢な立ち姿。短く整えられた髪が、彼を男だと理解させる。僕と違って節の小さな、長く細い指が自動販売機のボタンを押した。伸ばされた人差し指はブラックコーヒーを選ぶ。
この場の空気だけが鉛のように重たくなってしまった。松原先生がプルタブを開ける音を聞きながら、通知の一つもない携帯をいじって会議室へと戻る。一緒の場にいたくない。胸の奥を、ぞわりと刺激されるような不快感が怖かった。
「いやぁ、皆さんお集まりいただいてすみませんね。ご連絡した通り、来月の三十一日にあるハロウィン行事についてなんですがね……。あ、私、第五町内会で町内会長をやっとる鹿原です。どうも」
ラグビー選手のような襟付きのボーダーシャツを着た、毛の薄い男が流れ作業のように頭を下げる。ワックスで固めているのか、頭皮を隠すように横に流された髪の毛が悲しく見えた。横に座る父の頭を見て、自然と僕自身の髪に触れる。
「町内会ごとで催しものってのをやってもいいんだけども、なんせ子供が少なくなってきてるもんですから、交流って意味で明野町の南町内会全体で企画できんもんかなと思っているところで、えー、あります」
文字ばかりが並んだ企画書を
「南町内会の小学校と中学校、えー……それと保育園に知らせを送って準備しようと思っております」
「北町内会とはやらんのかね?」
「北の町内会長にも伝えはしたんですがね、店やらが南側に集中してるってんで、こっちにお願いしたいと」
「こっちにばっかり負担がかかるんじゃないか? ただでさえ物価も上がって、俺達も明日無事に仕事ができるか分からないんだぞ」
難しい顔をして
「それによ、そこの子らも北町内会に住んでる子もいるべ? 俺んとこなんて南の端っこだし、来るだけでも大変だろ」
「それは……たしかに」
鹿原の言葉が静かな室内に溶けてしまう。
「あー……いや、違うんだよ。俺だってこの話を無しにしたいって言ってるんじゃなくて、地域貢献の一環だって分かってはいんだよ。ただ、子どもらも縦横で二キロ四方くらいあるとこを移動するかって心配があるんだ」
「それなら若い子に聞いた方がいいんじゃないですか? ほら、ちょうど市議の息子さんが来てるんですから」
井畑おじちゃんに助け舟を出した女性は見たことが無い顔だった。ふっくら、という言葉では足りないほど肉のついた丸顔で、真っ赤な口紅が特徴的な女性。何の柄なのか分からない奇抜な色のした薄い生地の服を着て、耳には丸いピアスを付けている。
市議の息子さん。その単語だけで室内の面々が僕を見る。松原先生だけが、同情するように眉を下げていた。父を一度見るが、人の良い笑みを浮かべるだけ。
「それくらいの距離なら行きます。北に住んでる友達の家にも遊びに行くので」
あくまで品行方正に。井畑おじちゃんは思案するように何度か頷いている。鹿原が「では」と話し始めようとしたのを、口紅の女が両手を叩いて遮る。
「じゃあ南町内会主体でやるってことにしましょ! ねっ、鹿原さん!」
「ああ、はあ、まあ、そうですね」
「でも個人商店ばっかりでしょ? 農協さんがいるとは言え、ねぇ。松原くんのところだって大変じゃないの?」
「まあちょっと大変な所はありますけど、塾に来てる子以外も楽しんでもらえるんだったら構いませんよ」
「本当? でも町内会費も払ってるのに、また別でお金かかっちゃうのよ? 本当に大丈夫なの?」
大丈夫ですから、と愛想笑いを返す松原先生におばさんはしつこく話しかける。ハロウィンに向けての企画会議は、おばさんの独壇場になってしまっていた。鹿原も困ったように笑うだけで、その影は毛髪同様に薄い。
「
鶴の一声。皺のないスーツを着た父が、穏やかに笑顔を浮かべておばさんを
「たしかに出費は気になる所でしょうけれど、それは森下議員にお伺いしたところ青少年のためなら、ということで十分な額の支援をいただくことができました。あとは皆さんの協力をいただければ、ありがたいんですが」
森下議員の名が出た途端に、場の重たく停滞するような空気感が変化した。森下の功績や影響力なんて分からないが、この町に居を構える国会議員ということは父から聞いたことがある。小学生の頃参加した獅子舞保存会でも、わざわざ森下の家で舞を披露した覚えがあった。
駒場のおばさんも納得したのか、へらへらと笑いながら「いやぁね、そういうわけじゃないのよ」と身を引く。父もこの中においては、どうやら位が高い人間らしい。駒場のおばさんが黙ったことで、また室内は静かになる。
父が手で鹿原を促すと、痰が絡んだ咳を数回して話し出す。つつがなく進行した会議は一時間ほどで終了し、明野町ハロウィン祭は数ルートのスタンプラリー形式となることで話がまとまった。
会議後ぞろぞろと部屋から出ていく人達を眺める。父は夕方から町内会長達と懇親会があるから、と一足先に用事を足しに帰ってしまった。市議の息子なんて何一つ価値はないだろうに、それでも町の人達は色眼鏡で僕を見てくる。そもそも仕事で家にいることが少なかった父に力があろうと、それが僕に関係することは一切ないというのに。
「遥樹君」
視線の先には、僕が知る頃よりも目じりの皺を深くした松原先生が居た。
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