私の蝶

 田舎の小さな町は、吹く風や見える景色の全てが透き通っているように見える。

 元々両親が暮らし、自身も幼少期を過ごしてきた町は当時の面影を色濃く残していた。駅前通りを二丁分進み、右折し西へ。曲がってすぐのクリーニング店を左折すると、思い出の詰まった実家が見える。この地域では珍しく、壁一面がレンガ造りになった二階建ての家。

 数年前に両親が引っ越してからも、この実家は売りに出さずにいてくれていた。年に一度も帰らなかったこともある実家とはいえ、ここまでの道のりも体が覚えている。鍵穴の周りの傷に、何度となくこの扉から出入りしていた事実を感じる。

 実家を使うことを伝えていたからか、室内はすでに掃除が行き届いており、埃っぽさは一つもない。がらんと音が響くこの家で、新たな生活が始まる。松原塾開校の、初めの一歩だ。




  ――私の蝶




 幼い子供にとって家庭とは異なる環境に安全基地があるということは、心の拠り所が増えることを意味し、特に家庭に安全基地がない子供らにとっては信頼を寄せる安息の地となる。子供たちは愛される自覚だけでなく、自身の弱みをさらけ出すことができる環境を得る。そして、私は、彼らの秘密の共有者となる。

 塾を開校して数年、細々とではあるが満足した生活を営んできた。生徒は学校での生活だけではなく、家庭での不満をぶつけてくることもある。就学してから学習面で支援している少年の一人は、とくに私に懐いていた。


 先生、と慕う少年の成長を見ていく中で、ふと好奇心が湧いた。この少年にとっての一番になってみたい。この無垢な笑顔を向ける少年へ抱いた感情こそが、私が道を間違えたきっかけだったように思う。

 彼の話を聞く時には必ず手を止めた、これはどれだけ忙しくともだ。そして必ず肯定し、彼を否定するような言葉や態度は決して見せない。常に笑顔で、嫋やかに。男同士ではあるものの、一般的な同世代と比較すれば華奢な方であることを最大限に活用した。可愛い教え子が成長するにつれ、少しずつ大人びようとする様が言葉にしがたい悦を孕ませる。


「先生」


 まだ少し舌足らずな甘えた声も、変声期に至る掠れた声も、変声期を迎えた少年が終わる声も。すべてが私に向けられる。成長と共に熱を持つ声音は、私の胸中をくすぐるには十分すぎるものだった。

 夏の制服を着た彼の腕は、ワイシャツの襟や裾を境に色を変える。制服越しであるからこそ感じられる艶と、少年らしい活発さの対比は、この時期でしか感じることはできないだろう。まだ性に疎く、己の魅力にすら気づいていない時期でないと。

 目の前の教え子を見ながら、そんな不純な思案に暮れる。彼は定期試験の解き直しをしていないから、と塾に来ていた。解き直し程度なら、自宅でも十分だろうに。教室に置かれた長机の端に座り、黒板へ向かう彼がおもむろに口を開く。


「先生、僕この間の定期考査で二位だったんです」

「あら、それはすごいね。遥樹くん、頑張っていたもんね」


 目線を合わせようと上目する遥樹を見て、優しく笑う。彼が苦手な勉強を努力していることは知っていた。小学生過程の教育能しかないこの塾にわざわざ来てまで、宿題や予習復習をしている姿を見せていた。遥樹は嬉しそうに目を細める。青年と少年の狭間の笑み。


「一位じゃなかったからご褒美はいらないんですけど、褒めてほしいなって……」


 照れくさそうな遥樹を受け入れるため両手を広げる。少しずつ懐柔した少年は、躊躇いなくこの腕に収まる。細いながらしなやかな筋肉が、私の身体に添う。薄布を隔てた彼の体幹から、少し早い鼓動が響いていた。まるで恋人との甘い時間を過ごすように、ただ黙って互いの熱を感じる。

 数分して、満足したらしい彼がもぞもぞと腕の中で動く。


「よく頑張ったね、遥樹くんは私の自慢の子だよ」

「っ、うん。次は一位取れるように頑張るから、先生も応援して」

「もちろん」


 おもむろに目を閉じた遥樹に、静かに唇を重ねる。こうした行為はもう、彼にとって違和感のあるものではなくなっていた。


「――はい、おしまい」


 素直に体を離した遥樹は、満足そうに笑う。


「あと宿題だけやったら帰るね。今日は母さん早いんだ」


 先程までの抱擁が夢か何かだったかのように、遥樹はいつもと変わらぬ佇まいで机へと向かった。遥樹にも私自身にも、この行為はキスをした、抱擁をしたという言葉以上の意味合いを持ち合わせていない。彼の生活の中に当たり前のものとして組み込まれている。シャープペンが紙に擦れる音が終わるまで、私も静かに次の授業の準備を進めた。



 *


「それじゃ先生、また明日来ます」

「はい、待ってます。暗いから気を付けるんだよ」


 帰り際に小さな赤いノートを置いて。一時間ほどで帰宅した遥樹を見送り、湯気の立つコーヒーを持って二階の自室へ籠る。

 飯田遥樹(イイダハルキ)は、とても学習能力が高い少年だ。初めこそ落ち着きのない子供だと思っていたが、彼の中で納得さえできれば、その実行能力には目を見張るものがある。けれどその能力は安全基地の不足により、発揮されていなかった。

 遥樹の両親は多忙な生活を送っている。迎えが遅くなる時などは好きなだけ塾にいても良いことを伝えてからは、彼の両親はその申し出に甘えている。もちろん遥樹自身が求めていたことであり、彼らの役に立てるならと善人ぶった私自身の正義感の表れでもあった。

 まだ世間を知らない幼子に築き上げた信頼関係は、秘密の関係として強い絆へと変容する。遥樹が塾の同級生と喧嘩をした時に発した、『僕の先生だぞ』という言葉が今も大きな楔となっていた。遥樹はすでに覚えていないかもしれないが、その言葉こそ、遥基にとっての私が安全基地となったことを意味している。


 安全基地の形成がされたということは、遥樹と私の間には生徒と先生という関係性とは異なる信頼関係が築かれたことを指す。遥樹から渡された赤いノートのページをめくり、ある一ページで手が止まった。何度も消した跡の残る箇所に書かれた一文。まだ幼いと思っていたけれど、子供の成長は早いらしい。

 ため息交じりにノートを閉じ、窓際に飾られた蝶の標本を手に取る。宝物の一つである標本には、とある種の一生が記されていた。そろそろ潮時なのかもしれない。幼体をなぞった先の蛹の上で、指先に力が込められる。彼はもう羽ばたく前段階にいるのだろう。

 標本を戻し、改めて赤いノートへ向き合う覚悟を決める。もう数年も前に、女子の間で交換ノートが流行っているからという理由で、私たちの間にも導入された。手に収まるサイズの赤いリングノートは、すでに十冊近く使い切っている。遥樹が毎日のように塾に来る理由も、このノートがあるためだ。

 学校での出来事や行事の思い出、親への不満から、好きな食べ物や行ってみたい旅行先など、内容は多岐にわたる。そうした会話を介して、私は彼にとって、何でも報告ができる兄としての存在を目指していたはずだった。


「……どうしたもんかな」


 誰もいない部屋に言葉が溶けた。何度も手が止まりながら返事を書く脳裏に、明日も来ると言った遥樹の笑みが浮かんでしまう。なんとか書き上げる頃、コーヒーはすでに冷えてしまっていた。楔が枷の様に感じられる。もう、潮時なんだ。飲み終えたコーヒーを片付け、重たい体でベッドに沈む。



 その翌日も宣言通りに遥樹はやってきた。日焼けした肌に、満面の笑みを携えて。小学生への指導が終わる十七時頃から、宿題をするという名目で来るのだ。定位置である前から二番目の長机、その左端に掛けた彼は、すぐに宿題に取り掛かる。

 小学生最後の夏休み、遊びすぎて宿題が終わらなかったらしい遥樹に、宿題は一度手を付けたら終わらせてしまった方が良いと伝えてから、彼はその言葉を忠実に守るようになっていた。先の期限であったとしても、計画的に宿題を終わらせるようにしているらしい。西日が射す学習室の扇風機を付け、宿題が終わるのを静かに待つ。


「よし、おしまい」


 大きく伸びをする遥樹の声に、読書に割かれた意識が戻る。帰り支度をする遥樹に座っているように促し、赤いノートを取りに二階へ行く。重たく感じるノートを持って階下に降りると、彼が忠犬のように静かに待っている姿が目に入った。


「はい、またお返事待っています。遥樹くん、今日はお疲れ様」

「あっ、ありがとうございます! また明日、よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします。気を付けて帰るんだよ」

「はい!」


 嬉しそうにノートを受け取り、それを彼はカバンにしまう。彼の求めている返答はできていないせいで、笑顔の遥樹を見ると体が鉛のように重たくなったように錯覚を覚えた。それでも至って平常に彼を見送る。扉が閉まる最後の瞬間まで手を振る彼に、手を振り返しながら。

 降っていた手を下げ、胸に溜まった重たい息をふっと吐きだす。前々から一度実家へ戻るように言われていたのだから、今がそのタイミングだった。未練がましい心に蓋をするように、二階にある少ない荷物の整理を始める。

 遥樹との思い出のない部屋は、今の私自身を落ち着かせるには最適だった。無心で荷物を詰め、残されたのは大きな家具と蝶の標本だけ。栄養をいっぱいに取り込んだ蝶の幼虫は蛹を作り、成体へと体躯を整えながらその殻を割り、羽化を待つ。眩く広い世界を旅する体躯を手に入れ、羽ばたくために。

 彼が新たな舞台に立とうと、うずうずしている。これまでの体験や経験をひっくるめて咀嚼し、昇華しようとしているのだ。この安全基地を蛹のように使い、新しい世界へと進もうと。その安全基地を失う時、彼はどうするのだろうか。楔が一層深く突き刺さる感覚に溺れ、愛しい彼の表情を想像する。彼の安全基地として、私は何を与えられただろう。眠気のない夜は長く、標本を片手に彼へ思いを馳せ続ける。


*


「先生、また明日」

「はい、明日も待ってます」


 翌日も、さらにその翌日も、遥樹は塾へ来た。いつもと変わらない笑顔を携えて。閉校するつもりであることを伝えた後にも関わらず、だ。返事も至って簡潔に終わり、すでに違う話題へと転換されている。違った点はいつも翌日に返されるノートが、二日を経てから渡されたことだ。

 開いたノートには私の当時とは違う、デジタイズされた遊びの面白さが精一杯の語彙で記されており、その熱量に笑みがこぼれる。当たり障りなく、楽しそうだね、と返事を書く。彼らしく過ごすことができる環境が学校にもあるようで、私の中に安心感を抱かせた。私がいなくなったとしても、彼はきっと大丈夫だろう。

 明日は彼が気になると言っていた琥珀糖でも買いに行こうか。学習室以外はすでに整理し終えたこの家で、最後に彼との思い出を作りたいと考えてしまう。とんだエゴイズムであるけれど、彼と過ごした日々に、彼へ注ぎ続けた愛情に意味を与えたくて仕方がない。私が行ってきたことは間違いではなかったと、せめて私だけは肯定していたい。


 翌日、昨夜の決心通りに街で琥珀糖を購入した。梅雨と紫陽花を閉じ込めた、儚く淡い砂糖菓子。特別美味しいわけではなかったけれど、彼が食べたいというのなら買わない選択は無かった。それに蜜を食べる行為は、飼育され砂糖水を吸う蝶のようで、羽化を待つ彼には適当だろう。

 戻ってきた地元を歩くと、初夏の陽光に照らされる蝶を見つけた。真っ白な羽に滲む黒点が、無垢な彼を汚す私を見ているようで、唇を噛む。彼が慕う良き先生であるために、ここでこの関係に幕を下ろす必要がある。この黒点のような汚点が、彼の世界を狭めてしまわないように。涼しい風が蝶の航路となり、私の傍を離れていく。胸の枷が鈍く鳴った。



 *


「遥樹くん終わったんだね」

「つい今さっき終わりました」


 今日も今日とて宿題を済ませた遥樹が、満足そうに笑う。難問でもあったのか、首を回したり手をマッサージしたりと、普段よりも疲労が窺える。宿題が終わる頃を見計らい、麦茶と琥珀糖を載せた盆を持って彼の隣に座る。荷重に悲鳴を上げるパイプ椅子は気にせず、遥樹の前へそれらを差し出した。


「それってもしかして」

「昨日天気が良かったからさ、ちょっと出かけてきたんだよね。そしたら遥樹くんが気になるって言ってた琥珀糖が売ってて、一緒に食べようと思って買ってきたんだ」


 分かりやすく目を輝かせた遥樹は、年相応で可愛らしい。まるで遥樹と会えない時も考えているような恥ずかしい台詞だけれど、遥樹は嬉しそうに笑う。


「嬉しいです。覚えていてくれたんですね」


 その目線は皿に盛られた砂糖菓子に注がれていた。


「私も気になっていたから。……ん~、これ美味しいね!」


 口中に広がる砂糖の甘味。表面と内面との食感がアクセントになっているとはいえ、ただ甘い。咀嚼するごとに甘みの溶け出した唾液が喉奥へ垂れ、閾値を超えた糖度に喉奥が痛くなる。きらきらと眩しい視線を向ける遥樹は、未だ自身の琥珀糖に手を付けず、砂糖菓子を咀嚼する私を見つめていた。


「見てないで遥樹くんも食べなさい。せっかく君が喜ぶと思って買ってきたんだから」

「ありがとうございます、いただきます」


 先程までシャープペンを握っていた勤勉な手が、薄紫の琥珀糖を摘み、食べる。パッと明るい表情を見せて、二個、三個と口に含んでいく。若いと砂糖の甘味にも耐性があるのかと思うほど、食べるペースを落とさないままに彼は琥珀糖を食べ終えた。彼と違って私は、もう砂糖では羽ばたくことも叶わないのかもしれない。


「そういえば先生、今日の分書いてきました」


 そう言い、「ごちそうさまでした」と言う遥樹は、カバンから赤いノートを出す。昨日遥樹が帰宅する前に渡したものだ。


「え、早いね。昨日渡したばっかりなのに」


 閉校の考えを伝えてから一週間が過ぎた。その間、彼からの返信は数日置かれることが増えており、その速さに胸がはねる。改めてノートを見る。入塾した彼との約八年間、その内交換ノートを始めた約五年、私にとってはとても重たい年月だった。

 私がノートを持つ手を、遥樹はじっと見つめる。どこか悔しそうに、眉間にしわを寄せて。


「僕、誰に何を言われても先生に会いに来たいんですけどだめですか?」


 震える声音。それきり黙って遥樹は私を見る。整った顔が眉尻を下げ、必死に私を見ている。ただノートで伝えただけの、閉校の理由に納得がいかないのだろう。私の持つ教員免許では中学生の教育課程を指導することが困難であること、この土地を離れなくてはいけなくなったこと。その全てが、遥樹にとっては納得しがたい様だった。

 ただ私塾を行うだけであれば教員免許が必須ではないことを、きっと遥樹は知らない。生徒と先生という関係が終わるための、必要な嘘だった。


「遥樹くん……。それは嬉しい申し出なのかもしれないけど、私には難しいよ」

「どうしてですか。僕がまだ中学生だからですか」


 捲し立てるような口調で遥樹は言う。問題は年齢だけではなかった。けれど事実を説明するためであっても、私の知的好奇心を満たすためだったなどと伝えることはしたくない。この関係を終わらせるまで、遥樹の信頼を失いたくなかった。


「先生も僕と同じ気持ちだったから――」

「それはっ! それに関しては、もう、謝った」


 汚い大人のやり方しかできない私を責めるでもなく、遥樹は今にも泣きそうな顔を向ける。彼への謝罪も、閉校のなにもかも、言葉で伝えようとしない私を否定する素振りは見せない。けれど遅すぎたのだろう。彼はボロボロと涙を流しながら、懇願するように言葉を発した。


「僕は先生じゃないとだめなんです。だから、こうして近づけるように話し方だって変えたし、学校の勉強だって努力しているし、親も説得して先生の塾にだって毎日来てるのに」


 嗚咽し、それでも必死に言葉を続ける。今すぐにでも抱き締めたい衝動を抑え、爪が食い込むほどに拳を握り、遥樹を見た。きっと学習面を見れば、この子に学習塾は必要ないだろう。月謝も安いものではない。不要であるなら切り捨てる候補に入ることは当たり前だ。


「僕を僕じゃなくしたのは、先生なのに。それでも僕のことをだめだって言うんですか」


 痛いほどに胸が締め付けられる。充分な酸素が取り込まれず、酸欠になっているように脳がふわふわとした。抱き締めようと持ち上げた腕を、理性で戻す。これ以上、彼にとって悪い大人になりたくなかった。

 短い制服の袖で必死に涙を拭う遥樹を見つめることしかできない。感情を露わにして泣く彼の姿を、目に焼き付けるだけで良かった。遥樹が泣き止むまで、永遠のような長い時間が経った体感がある。


「……困らせてごめんなさい。今日は帰ります」


 逃げるようにカバンを持ち走っていく遥樹に、何も声をかけることはできなかった。玄関扉が閉まった音で我に返る。冷たい麦茶は結露し、長机に水溜まりを生んでいた。きっと遥樹はもう来ないだろう。片手で握りしめていた赤いノートには折れ癖が付いてしまっていた。

 大切にしていたものほど、失う時は呆気ない。遥樹がいなくなった部屋で、彼の温度を思い出すようにノートを捲る。クラス替えがあったこと、家族で数か月ぶりに出かけたこと、先生と一緒に行ってみたいところ、先生にも見せてあげたかったこと、そのどれもが私に対する愛で溢れていた。

 何度も書き直された箇所は黒く塗りつぶされている。次のページには塾の閉校を伝える私の字が。そこから数枚進み、不安に苛まれた遥樹の思いの丈が書かれていた。一緒にいられますか、と書かれた部分に涙が落ちたのか、不自然な凹凸がある。次には謝罪をする私の字があった。愛に溢れた遥樹の言葉とは対極の、エゴイズムに塗れた私の言葉だ。

 最後のページを、捲る。


 ――この前蝶を見ました、もうすぐ夏です。先生にとって僕はどんな生徒でしたか。

 ――せめて、きれいな蝶を支える黒い点々みたく、先生に必要とされてるなら嬉しいです。

 ――僕の先生、本当に大好きです。


 滲んだ文字が並んでいた。幼い子が蝶のように飛び立つ未来を見ていた気でいたのだ、私は。醜い事実だった。彼の先生という枷が外れる。私は彼の先生ではなかった。そう思い込んでいたかっただけの、汚く醜い寄生虫のような存在だった。幼い彼を蝕み、羽化を待つ彼の蛹のような安全基地を作り、その蛹を奪ったのだから。

 涙が溢れる。取り返しのつかないことだった、そんな簡単な言葉で表しきれるものではない。私が彼のための安全基地であったと同時に、彼自身も私にとっての安全基地だったのだろう。彼の中にある私の居場所に生かされていた。その事実に目を向けるまでの間、どれだけ彼の、遥樹の心を奪ったのか。

 やることをやらなくては。彼が蝶になるため、この広い世界へ羽ばたいていくために。

 遥樹くん、君が私の蝶でなくて良かった。

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