僕と私

僕の先生

 先生は僕のことを小さい頃から知っている。

 僕は、先生のことを何も知らなかった。知りたかったと今も思う。それなのに、もう先生は僕の近くにいない。

 先生は、僕の先生だった。僕だけの大切な先生だった。


*


 ――僕の先生――


*



 僕の家は共働きで、ほとんど両親が家にいることはなかった。良くて夕方、遅いときには二十一時を過ぎることも多い。父は中間管理職というものらしく、僕が中学生になってからは休日も仕事に出ていくことが多かった。母はそれも許容していたようで、僕の家は両親ともども忙しそうではあったけれど、幸せな家庭だった。

 両親はそろって良い大学を出ていて、僕にもそれを強要するきらいがある。小学生に上がった頃、僕は学校の先生とは違う、新しい先生と出会った。僕の、僕だけの先生。両親以上と言っても過言ではないほど、僕は先生のことを慕っている。先生は僕のことを苗字ではなくて名前で呼ぶ。ベッドで横になっている今、瞼を閉じれば、すぐにあの時の声で、あの時の熱で、あの時の表情で、鮮明に思い出すことができた。




 学校帰りの道を、僕は塾に向かって歩いていた。初夏の肌寒い風が、照る陽射しを和らげてくれる。同級生は駅に近い大手学習塾に通っているけれど、僕は先生に会うために個人塾に通っていた。当時は先生に会う事を楽しみに過ごしていたけれど、今思うと同級生と遊ぶよりも先生に会いたかったのだろう。先生と会う事が習慣になっていたのもあり、僕の一日の中に必ず先生はいた。先生と会わないことなんて考えられないな、と僕は感じていたのだと思う。


「こんにちは、今日もよろしくお願いします」

「こんにちは。まず手洗いとうがいをしてきてね」

「はい」


 格子状の町内を走り抜け、T字路の突き当り。レンガ造りで三角屋根の大きな家が先生の塾、松原個人塾だった。先生の家はいつでも、オレンジのさわやかな香りが充満していた。小学生時代には手洗いを済ませた後すぐに芳香剤のにおいを嗅ぎに行くほど、僕はこの芳香剤が大好きだった。

 松原個人塾は栄えているわけではなかった。当時から少しずつ大手の学習塾が増えてきていたらしい。当時は勉強をしに行っていたというより、僕は先生に会いに塾に行っていたようなものだった。小学校に上がり始める頃から通っている生徒は僕くらいで、少しずつ人が減っていたのだろう。何度か母から塾を変えないかと提案されたが、僕はそれを嫌がって過ごしていた。

 玄関のすぐ隣に作られた洗面台で手を洗い、居間兼学習スペースへと移動する。壁際に置かれたホワイトボードに向かうように、整頓された椅子に座る。昔は学習塾として勉強を行っていたが、最近になると学校の宿題をこなした後にお茶会をする場になっていた。その心地よさに甘えていたい気持ちもあり、僕は頑なに塾を変えようとしない。


「先生は今日何してたんですか」

「私? 家の掃除くらいしかしてないなぁ」


 僕が来ること、考えててくれましたか。


「そうですか」


 そこから何を続けるでもなく、僕は机に広げた宿題に取り組む。先生も何を言うでもなく、静かに部屋を後にした。教科書をなぞるだけの簡単な問題達は、ただ枚数が多いというだけ。何のために出されている宿題なのかは全く分からないけれど、こんなことをして学習した内容が身につくのだろうか。教師から学生へ対する嫌がらせなんじゃないかとすら思えてしまう。

 宿題は一度手を付けたら終わらせてしまった方が良い。先生に助言されたことを忠実に守り、無心で手を動かしていく。一枚終わるごとにまだあるのかと思いながらも、どうにかすべてのプリントを終わらせた。顔を上げ、疲れた首を回す。ずっとペンを握っていたせいで怠くなった手もマッサージをしておく。


「遥樹(ハルキ)くん終わったんだね」

「つい今さっき終わりました」


 先生が木製のお盆を手に持って、部屋へ入ってくる。僕は置き場を作るためにプリントや筆記具を片付け、消しカスをまとめる。部屋の入口に置かれたゴミ箱にそれをなげたところで、先生がお盆を置いているところが目に入った。グラスいっぱいに氷が入った麦茶と、カラフルなお菓子のようなもの。


「それってもしかして」

「昨日天気が良かったからさ、ちょっと出かけてきたんだよね。そしたら遥樹くんが気になるって言ってた琥珀糖が売ってて、一緒に食べようと思って買ってきたんだ」


 先生、僕のこと考えていてくれてたんですね。

 そう言いたいのを堪えて、あくまで良い生徒として先生に微笑み返す。


「嬉しいです。覚えていてくれたんですね」

「私も気になっていたから。……ん~、これ美味しいね!」


 松原先生は、男にしては細くて華奢な風貌をしている。顔は整っている方ではあるが、男らしさを感じさせない所作や話口調から、苦手と感じる人も多いのだろう。

 松原悠太(ユウタ)。身長は僕より高く、もう少しで自動販売機に届きそうだと話していた。大人らしく、細いながらも引き締まった体をしている。けれど腹筋は割れていないと話していたし、以前盗み見ることができたお腹は、たしかに割れてはいなかった。それすら愛しく感じる。この人の声や雰囲気は同世代にないもので、強く強く僕を惹きつけた。音を立て琥珀糖を咀嚼する先生をじっと見つめる。

 ――可愛い。午後僕が来るまでの間に、琥珀糖を買って、僕が喜ぶだろうと想像したのだろう。僕のことを考えて、僕が宿題を終わらせた後の時間に、一緒にお菓子を食べようとしてくれた。先生は僕のために、僕だけのために買い物をして、時間を使ってくれている。


「見てないで遥樹くんも食べなさい。せっかく君が喜ぶと思って買ってきたんだから」

「ありがとうございます、いただきます」


 先生を習って、琥珀糖を口に運ぶ。ザクザクとした食感が心地よい。想像を超えない甘さに、まあこんなものかと感じてしまう。けれど先生が楽しそうに琥珀糖を食べているから、僕もそれでよいかと感じる。


「そういえば先生、今日の分書いてきました」


 机の横にかけていたカバンから、真っ赤な小さなノートを取り出す。当時先生のことを女性だと思っていた幼い僕が提案した、何気ない日々を描くだけの交換ノート。すでに十冊近くノートを消費している。その中で、先生が塾をたたもうと考えていることを知った。先生が持っている教員免許は小学生を教えるためのものらしく、もう中学に上がってしまった僕を指導することは難しいらしい。

 僕はただ先生と過ごすことができるだけで十分だったが、ほとんど塾として機能しなくなってきた松原塾に、年齢適正の合わない子供が出入りするということが問題だということだった。僕はどれだけこの塾を大事に思っているかを先生に伝えたところで、いい思い出で終わらせる必要があるらしい。


「え、早いね。昨日渡したばっかりなのに」


 ノートを受け取った先生は驚いたように僕の顔を見て、そして、再度ノートに目を落とす。


「僕、誰に何を言われても先生に会いに来たいんですけどだめですか?」


 先生と生徒として、でなければいいのではないか。ただ、友人であれば、先生と僕がいくら会おうが誰も何も言う事はできないだろう。先生が何かを言うまでの時間、それ以上僕は何も言わずに麦茶を飲み、琥珀糖を食べる。先ほど感じた甘さはなく、ただ機械的に咀嚼する。

 困ったようにノートを見つめて動かない先生を――松原悠太を、見つめる。

 僕の初恋は、松原先生だった。当時の先生は今よりももっと女性のように華奢で、すぐにどこかへ行ってしまいそうな儚さをもっていたように記憶している。両親の仕事が終わるまで塾で過ごした日々が多く、僕の日常に先生がいることは当たり前になっていた。そして、昔読んだ御伽噺の王子様に感化された幼い僕は、先生に容易に恋心を抱いた。その恋心は年々大きくなっている。


「遥樹くん……。それは嬉しい申し出なのかもしれないけど、私には難しいよ」

「どうしてですか。僕がまだ中学生だからですか」


 顔を上げた先生と目線が合う。困ったような、悲しんでいるような、複雑な表情をした先生が、次に発する言葉を探しているようだった。僕がこれだけ先生のことを好いているのに。


「先生も僕と同じ気持ちだったから――」

「それはっ! それに関しては、もう、謝った」


 気まずそうに視線を逸らす先生を、ただ黙って見つめる。



 僕と先生は間違えた。良く言えば一時の気の迷い、悪く言えばおふざけの延長。当時の僕は先生から与えられるものは正しいと考えていたし、先生が嬉しそうなら僕だって嬉しかった。

 きっかけは、僕が絵本の王子様に憧れて、先生にキスをしてからだったはずだ。海外では挨拶にも使われていると知ったのは中学に上がってから。それまでは恋愛的な好意からでしか、キスはしないと考えていた。先生も最初は可愛い子供の戯れくらいにしか思っていなかっただろう。けれど僕が必ず「好き」と伝えていたのもあり、少しずつ先生の気持ちをおかしくしていたらしい。

 初めての間違いは、僕が同級生の中でも少し早く精通を済ませた時期だった。両親には恥ずかしくて伝えられなかったことだったが、その頃には同性だと分かっていた先生には、ノートを通じて報告していた。それから数日後、塾が終わって両親を待つ時間に、一線は超えられた。そこから僕が中学に上がって一年が経つまで、僕と先生の人に言えない関係は続いていた。初めは触るだけ、キスをするだけ。そこから少しずつエスカレートしていく行為を、先生はきっと楽しんでいた。僕も好奇心が満たされるそれらの行為に満足感もあり、これが間違いだとは全く思っていなかった。

 けれど先生は突然、この関係をやめようと言ってきた。それは、つい一週間ほど前の出来事。直接ではなく、ノート上でのやり取りだった。


「僕は先生じゃないとだめなんです。だから、こうして近づけるように話し方だって変えたし、学校の勉強だって努力しているし、親も説得して先生の塾にだって毎日来てるのに」


 僕が、僕だけが、人には見せない先生の熱を知っている。


「僕を僕じゃなくしたのは、先生なのに。それでも僕のことをだめだって言うんですか」


 それでも先生は何も言わず俯いたまま。きっともう、先生にとって僕は要らない子になってしまったんだろう。一世一代の告白すら、愛する人には届かない。


「……困らせてごめんなさい。今日は帰ります」


 逃げるようにかばんを取って、塾を後にする。日が沈みかけた初夏の道は冷たく、ぽっかりと何かが零れ落ちた心に染み入る。大好きな塾。大好きな先生。先生の全てを見ていたつもりだった。先生だけが、大人になりたい僕の気持ちに寄り添ってくれていた。――と思い込んでいたのだろう。

 できるだけ早く塾から離れたかった。ちっぽけな羞恥心と自尊心が深く傷ついていた。家に帰るまでの約二十分の道のりが、いつも以上に遠く感じられた。

 帰宅した家は案の定誰もいない。まっすぐに部屋へ戻り、制服を脱ぎ捨ててベッドへもぐる。残された先生は何を感じているのかなんて考える余裕はなく、空っぽの心を隠すようにタオルケットで身を包んだ。




 僕が塾に通わなくなって数日。ふと、先生に会いたくなり、逡巡した後に学校帰りに塾へと向かった。もう一度先生に会い、何を話すのかはまったく想像がつかない。けれど、会いたいと思ってしまったせいで、これまで見てきた先生の表情や仕草、声色すらも思い出してしまった。学校からは十分ほどで向かうことができる位置。


「……空き家?」


 久しぶりに見た先生の家は、窓には『空き家』と書かれた紙が貼られていた。家の前に置かれた壁にも、売値と売り家であるということが明らかにされている。たった数日の間に、先生が居なくなった――。理解が追い付かないまま、呆然と松原塾だった家屋を見上げる。通行人のご近所さんから、つい二日前に実家に戻るからと出ていってしまったと教えられた。

 嘘だろ。そう思い込もうにも、眼前の光景は現実でしかなくて、癒えてきつつあった心の穴を大きくするには十分すぎるほどだった。先生は僕のことを何も感じていなかったという事実が、深々と突き刺さる。一つでも先生がこの家で過ごしていた痕跡が欲しくて、僕は空き家となった松原塾の敷地を歩く。二階建てレンガ造りの家。元々はここが実家だったと先生は言っていた。


 僕は一つの確信をもって、家の裏に置かれた物置小屋へと行く。この物置小屋は塀ブロックで高さを出しており、その隙間によく大事なものを隠していたと先生が言っていたのを思い出したからだ。所々錆びた物置小屋の下を覗き込む。薄暗くてよく見えず、何度も周囲を動き回りながら何かを探す。虫に怯えながらも手を突っ込み、左右に動かすと、こつりと指先に何かがぶつかった。

 必死に取り出したそれは、先生と交換していた赤いノート。表面の汚れを落として前からページをめくる。最後に僕が先生への思いを書いたページ。そのページの右下に、ごめんなさい、と先生の字で書かれていた。先生が出した、僕の告白への答えだった。すとんと心が落ち着いた感覚がする。やっぱり無理か。そっか。そう小声で呟くと、ああ、終わったんだなと恋の終わりを自覚した。

 僕の先生が、僕を置いていくわけがない。あんなに僕を好きだと言ってくれていた先生が、僕を置いて。悲しさを感じられないほどの無力感に近い虚しさで溢れる。これまでのたくさんの感情が溢れ、零れ落ちそうな心を、必死に赤いノートを握りしめて耐えるしかできなかった。僕の先生だと思っていたのは、言葉の通り僕だけだった。

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