さて、娘を思い出した土蜘蛛は“姫おましよ”と、静かに発した。なおも彼の傍では亡き村の衆が“いかにも”“雨たもれ”と叫んでいる。硬い岩肌に皮膚を擦り、土蜘蛛はその半身を淵から出す。彼の眼前には、娘がいた。意を決して自ら竜池へと沈んだ、英雄のような娘が。砂利や小石で薄い皮膚が擦れ血を滲ませながら、やっとの思いで彼は竜池へと沈んでいった。彼は笑っていましたよ。

 ――それを水神は見ていた。大きく開けた口から泡を吐き出す土蜘蛛を、紅焔こうえんを宿した黄金こがねの瞳が捉えていたんです。そして同時に、死の間際、土蜘蛛の視界は暗く深い澱みに覆われた。立ち込めた暗雲が、数ヵ月もの間土蜘蛛を、国栖共を苦しめたお天道様てんとさまを隠していった。意識を失う寸前、水面を叩く刺激を見て、彼は笑って逝ったんです。


 残されたのは水神だった。六〇けんはある体躯、小さな三爪みつづめを対に持ち、口辺に長髯ながひげを蓄えた水神が。水神の目には、沈んでいく土蜘蛛を見下ろす、麻の偶像が見えていたんだ。それに初めての喜びを抱くと同時に、初めての哀しみを知った。

 彼は、この水神は幼かった。泥水で育ったまむしは五百年にしてみずちとなる、と言われているんですけどね、彼がみずちと成ったのは数日前のことだったから、これまでの供犠は彼にとって何一つも意味を見出せぬ行動だったわけだ。なにせ、蛟となって初めて彼は璃竜ちりゅうと成り、水神と成ったのだから。そんな水神が今日、拙いながらに行われた祈雨の儀を見て、知った。彼自身が神として崇められていたこと、この竜池に住む神として求められた使命があったことを。


 稲妻は慟哭どうこくのようだった。捧げものを喜ぶことも、竜池を荒らされて怒ることもなかった水神が、己の未熟が故に起こされた惨状を初めて理解するに至った。村を作った土蜘蛛は一人残らず水底に眠り、その雨を喜雨と呼ぶ者は一人もいない。愚かな蝮の過ちが、水神として成った璃竜ちりゅうの逆鱗に触れてしまったんだ。

 何度も何度も璃竜ちりゅうは叫ぶ。己の無力を憂い、犠牲となった哀れな国栖を嘆いて。昼間だということを忘れてしまうほどの暗がりの中、稲妻と共に激しい雨粒が地面を叩く。きっと他の村や里でも祈雨の儀が行われていただろうから、そこの人間たちにとっては恵みの雨だったと思うんだけれどね。璃竜が身を置いた里はもう何もなかったから、彼の慟哭は詮無きことだった。


 赤茶に乾いた土はぬかるみ、水分の吸収が間に合わない地面にいくつもの水溜まりが生まれる。山の天辺から裾野までをずっと濡らして、濡らしきっても足りないと言わんばかりに濡らして。それは鬼雨と成り、七夜降り続いたとも、八夜を越えたともいわれているんですよ。やはりどこにもこの事実はのこっていないんですけどね。

 お兄さんは雨がずうっと続くとどうなるかって、想像つきますよね。そうですそうです、どうしても土壌に水が蓄積されてしまって、土の粒子同士の結合が緩んで、結果として地滑りが引き起こされてしまうんですよね。初めに一九三八年のがけ崩れの話をしたと思うんですけど、それよりも大きな被害があったんです。


 鬼雨が止むことを知らずにいる間、竜池には濁流が押し寄せた。元々勢いの強かった雄川も、枯れかけていた雌川にも、その濁流は流れ込む。特に雄川には竜池の底に沈んだままの様々な異物があったもんですから、そうした全ても下流へと流れていったんです。そこで雨が止みさえすれば良かったんですけどね、何せ七夜八夜も降り続けましたから、ひどい土砂崩れが起こったんです。

 神の御里を飲みこみ、その勢いを増して、裾野を土砂が飲み込んでいく。たっぷりと水分を含んだ重たい土が、人の逃げる隙を与えずに、です。死者の数も行方不明者の数も不明となった未曽有の災害であったけれど、村の全てを把握できているわけではなかったということもあって、記録はのこされなかった。


 幕府の役人が現状を調べに来たのは、雨が止んで数か月を経た頃でした。なにせひどい災害だったものですから、体制を整えるにも時間がかかったようですよ。土壌は湿り気を帯びていたけれど、竜池は跡形もなくなってしまった。土蜘蛛たちが生きた証は土の中に隠れ、掘り起こすことは困難な様子だった。

 お兄さんが知っているかは分からないんですが、水にまつわる災害には竜神の力が込められている、とね、昔は強く考えられていたんです。雨が上がったばかりの頃は竜の怒りが治まっているかの判断なんてできなかったので、役人が来るまでに数か月も経ってしまったというわけです。


 表面上は乾いた土壌には倒木や農工具の一部なんかが顔を覗かせ、その被害の大きさを役人達は目の当たりにしていた。土蜘蛛という名はね、お兄さん。朝廷があった時代、天皇の命に従わない人々を表した蔑称なんです。それはこの幕府の時代にも続いていた。水神の怒りを建前に、彼らは土蜘蛛が生きた村の実情を見て見ぬふりしようとすらしていたんですよ。

 けれど再び水神が怒りをあらわにしたら? ふふ、そうです。ただの人間は神に抗う事なんてできませんからね、明日はわが身とでも思い、怖くなったんでしょう。たった三日、空に黒雲を示しただけだったけれど。緩んだ地盤を整えながらある役人が見つけたのは、湿り気を帯びた薄汚い麻縄だった。……あの土蜘蛛が生きた証も、役人からしてみれば意味を成さないものでね、放り捨てられ、また土に隠されてしまったんです。

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