陸
さて、娘を思い出した土蜘蛛は“姫おましよ”と、静かに発した。なおも彼の傍では亡き村の衆が“いかにも”“雨たもれ”と叫んでいる。硬い岩肌に皮膚を擦り、土蜘蛛はその半身を淵から出す。彼の眼前には、娘がいた。意を決して自ら竜池へと沈んだ、英雄のような娘が。砂利や小石で薄い皮膚が擦れ血を滲ませながら、やっとの思いで彼は竜池へと沈んでいった。彼は笑っていましたよ。
――それを水神は見ていた。大きく開けた口から泡を吐き出す土蜘蛛を、
残されたのは水神だった。六〇
彼は、この水神は幼かった。泥水で育った
稲妻は
何度も何度も
赤茶に乾いた土はぬかるみ、水分の吸収が間に合わない地面にいくつもの水溜まりが生まれる。山の天辺から裾野までをずっと濡らして、濡らしきっても足りないと言わんばかりに濡らして。それは鬼雨と成り、七夜降り続いたとも、八夜を越えたともいわれているんですよ。やはりどこにもこの事実は
お兄さんは雨がずうっと続くとどうなるかって、想像つきますよね。そうですそうです、どうしても土壌に水が蓄積されてしまって、土の粒子同士の結合が緩んで、結果として地滑りが引き起こされてしまうんですよね。初めに一九三八年のがけ崩れの話をしたと思うんですけど、それよりも大きな被害があったんです。
鬼雨が止むことを知らずにいる間、竜池には濁流が押し寄せた。元々勢いの強かった雄川も、枯れかけていた雌川にも、その濁流は流れ込む。特に雄川には竜池の底に沈んだままの様々な異物があったもんですから、そうした全ても下流へと流れていったんです。そこで雨が止みさえすれば良かったんですけどね、何せ七夜八夜も降り続けましたから、ひどい土砂崩れが起こったんです。
神の御里を飲みこみ、その勢いを増して、裾野を土砂が飲み込んでいく。たっぷりと水分を含んだ重たい土が、人の逃げる隙を与えずに、です。死者の数も行方不明者の数も不明となった未曽有の災害であったけれど、村の全てを把握できているわけではなかったということもあって、記録は
幕府の役人が現状を調べに来たのは、雨が止んで数か月を経た頃でした。なにせひどい災害だったものですから、体制を整えるにも時間がかかったようですよ。土壌は湿り気を帯びていたけれど、竜池は跡形もなくなってしまった。土蜘蛛たちが生きた証は土の中に隠れ、掘り起こすことは困難な様子だった。
お兄さんが知っているかは分からないんですが、水にまつわる災害には竜神の力が込められている、とね、昔は強く考えられていたんです。雨が上がったばかりの頃は竜の怒りが治まっているかの判断なんてできなかったので、役人が来るまでに数か月も経ってしまったというわけです。
表面上は乾いた土壌には倒木や農工具の一部なんかが顔を覗かせ、その被害の大きさを役人達は目の当たりにしていた。土蜘蛛という名はね、お兄さん。朝廷があった時代、天皇の命に従わない人々を表した蔑称なんです。それはこの幕府の時代にも続いていた。水神の怒りを建前に、彼らは土蜘蛛が生きた村の実情を見て見ぬふりしようとすらしていたんですよ。
けれど再び水神が怒りを
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