もう立てなくなった土蜘蛛はね、彼が幼いころから村の衆がそうしていたように、竜池の淵に這って進んでいきました。手中に水神を抱きながら。彼の家族が、仲間が、罪が沈んだ、神の領域に。数か月も干天が続いたというのにね、竜池の水量はまったく変わっていなかった。滝も、竜池も、その先を流れる雄川も、勢いを失うことなく流れていくのを見て、一つ、土蜘蛛は確信を得たらしい。やはり水神はこの竜池にいるんだ、とね。

 淵から池を覗き込んで、渇ききった喉を開いて、彼は言う。“ 此の池より、水神へ申す。浪風を沈めて聞き召され。此を神代の神にて祭り、雨たもれ。雨たもれ。雨降らぬ故草木は枯れ、人だねも絶えん。雨たもれ”とね、ぼろぼろに枯れた身体で、彼は、雨を求めたんだ。命が尽きるその前に彼がすがるため手を伸ばしたのは、水神ではなかった。村の悲願を達成するなんてくだらない使命感だった。

 いかにも、雨たもれ。彼の耳には、たしかに村の衆の呼応が聞こえていた。彼自身も、今までそうしていたように“いかにも”“雨たもれ”と。喉が痛むのを気にせず“雨たもれ”とね。


 お兄さんは聞いたことがないかもしれないんですけどね、その昔、其の雷虺虺きて、目精赫赫く、と水神を表したんです。あ、えっと、難しかったですよね。聞き馴染みがない言葉って、耳が聞くのをやめてしまいますもんね、分かりますその感覚。かみひかりひろめきて、目精まなこ赫赫かかやく。これは蛇神へびがみを指すものだったんだけれど、蛇神を捉えたものに雷の名を賜うた、と伝承されていましてね。蛇神は雷の神でもあったと考えられているんです。

 そしてね、雷は雨を共にすることから、雷の神は雨の神、雨の神はつまり水の神、なれば水神は蛇神である、と考えられるようになっていたんです。偶然か、はたまた必然か、彼は大蛇の偶像を水神と見て、供犠を執り行っていたんです。


 土蜘蛛が村の衆と共に“雨たもれ”と繰り返す。けれど雨は降らない。照りつける陽射しは神罰だと思えてしまうほどで、一縷いちるの望みをかけた土蜘蛛を枯らしてしまうには、十分すぎるものだった。涙はもう出ず、声音は少しずつ小さく細くなっていた。目から入る情報すら処理できないほどに消耗した土蜘蛛は、今が晴れているかどうかすら、正常に認識できなくなっていた様子だったそうですよ。

 彼の脳裏に、あの娘がいたようです。――お兄さんは覚えていますかね、皐月の神の日、村のために身を捧げた不浄の娘を。父母のため、村のため、竜池へと自ら沈んだ娘を。娘はたしかに水神に会っていたんですよ、実のところは。薄れる意識、痛む眼をしかと開けて、娘は水神を見た。水神もまた、娘を見ていた。


 黒く濁る娘の瞳は、黄金に輝く鋭い眼を捉えていたんです。水神が人間を娶ることなんてね、ないわけなんですけど、娘は水神が迎えに来てくれたと安堵し、穏やかに逝ったそうです。娘が見たものが本当に水神の眼であったのかは、定かではありませんがね。捨て去った塵芥が日光を受けただけかもしれないし、誰も見たことのない水底に金が埋まっていたかもしれない。娘のみぞ知るところではあるんですが、ただ、水神に会えたと安堵し、穏やかに死を迎えられたことが全てなんだろうと思うわけです。

 いやぁ……すみません、話が二転三転してしまって。この口伝を話すには、どうしても土蜘蛛と先に死んだ娘と、この二人について伝えておかないと……と思ってしまったもんで、ははは、聞きにくい話ですみませんね。でも、昔語りの口伝なんて、誰かが犠牲になるのが主流みたいなところあるもんですから。日本書紀や風土記、最近の話なら、桃太郎にしたってね。


 続きを話す前に、ちょっとごめんなさいね。コンタクトが乾いてしまって……。よし、これで大丈夫、すみませんね。今は本当便利ですよね、目の色一つとっても好きな色に変えられるなんて、発展の賜物って感じがしますよ。私もこの口伝に出てくる土蜘蛛みたいにね、普通の人とは違う特徴を持って生まれてしまったものだから、こうした便利グッズが増えてくれると有難いですね、本当に。

 私のは虹彩こうさい異色いしょく症って言ってね、先天性のものなんですけど、会う人みんなに驚かれてしまうのが面倒くさくって。中には攻撃的な態度を取る人もいましたから。……もう会う事の出来ない親友が私にもいるんですけどね、彼はきっとこの目を喜んでくれるんじゃないかなぁって思うんです。なんて、すみません、口伝を話したいって言って自分語りをしてしまって、いや、はは、お恥ずかしい。蛇足はここまでにして、土蜘蛛にまた、話を戻しましょう。

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