ボトリティスェリプティカ ⑤

 会話をすることなく、一時間ほど揺られて終着駅へと着く。停車前から立ち上がった乗客が慣性で揺られ、扉が開いた瞬間に堰を切るように外へと押し出された。少し待てば確実に降車できるのにかかわらず、我先にと横入しながら出ていくのを見守り、ある程度座席から立ち上がる乗客が減ったところでホームへと降り立つ。

 爽やかな空気。そう感じるくらいに車両の空気は澱んでいた。流れに乗ってエスカレーターを降り、また別のエスカレーターを上がる。すぐに来た乗り換えの汽車に揺られて、都会から逃げ、ベッドタウンよろしく背の低い住宅街が広がるエリアで再び降車。改札を抜けて、三郷の後ろを歩く。駅を出てすぐのロータリーで、当時中学生の私がお世話になっていた三郷の母が、嬉しそうに笑っていた。幸せそうで胸が苦しい。


 通された三郷の部屋は当時とがらりと印象を変えた。洗練されたスチールブラックがメインに置かれた、無骨ながらスタイリッシュな部屋。あのメルヘンチックな内装が嘘だったかのようだ。エアコンで冷やされた室内は金属感のある家具と相まって、無機質に見える。


「そこ芽衣の場所だったよね」


 そういう三郷の視線の先には、部屋の中央にピンク色のクッションが置かれていた。私の定位置を覚えていたらしく、「ちゃんと洗濯してるから汚れてないよ」と歯を見せてくしゃりと笑う。その笑顔に、胸がざわめく。


「今日はありがとね、芽衣。久しぶりに会えてとっても嬉しかった」


 こっちの気も知らず、三郷はのんきに笑った。私はただ頷く。するすると服を脱いでいく三郷。中学の頃から見てきた彼女の下着姿に違和感はなかった。形の良いお尻は下着の布が余って見えるほど小さい。昔は男を誑かしているようで気持ちが悪かったレースがあしらわれた下着も、今の三郷に嫌な印象は抱かなかった。

 むしろ綺麗な下着を身につけることが必須であるようにすら思える。三郷ばかりが変わっていく事実を、まざまざと見せつけられる。一体どれだけ努力をしてその体躯を手に入れたのか。一体どれだけ努力をして、その整った顔立ちと、幸せに満ち溢れた過程を手に入れたのだろう。私には同じものが一つもない。この部屋にはずっと、私にはない恵まれた空気が満ちている。


「芽衣は今の学校楽しい?」

「え、うん。楽しいよ」


 ふぅん、とどこか不満気に三郷は呟いた。実際に三郷のことを気にせず過ごした一年弱の期間は楽しかった。ただ今日一日が楽しくなかったかと言われると、素直に否定することはできない。

 足がほとんど出た防御力のないショートパンツに半袖を着て、三郷は私の隣に座る。無骨な部屋に似合わない可憐さだ。


「ていうか部屋。前はもっと女の子らしい部屋だったのに、急に男の人の部屋みたいになったんだね」

「そーなの。話すとちょっと長いんだけどさぁ」


 そう言う三郷は、私が続きを促すのを待っている。今までもそうして来ていたから、目配せをしてくる三郷の言葉は言われずとも分かっていた。


「高校デビュー?」

「それもあるんだけど、ちょうど高校上がる前くらいにね、お母さんと一緒に育ててたお花が枯れちゃってさ」


 半袖シャツの裾をいじり、三郷はぽつぽつと話し始める。私はただ、曖昧な短い相槌を挟むだけ。


「自然に枯れるんじゃなくって、葉っぱに茶色の斑点みたいなのができて枯れてっちゃって……。そのままだめになっちゃったんだよね」


 草木灰って肥料とか入れてたんだけど、と三郷は眉尻を下げて微笑む。そうなんだ。せっかく育ててたのに残念だったね。そんな私の相槌は三郷の耳には入っていないようで、一人語りを続ける。


「すごくきれいなお花だったんだけど、葉っぱがだめになっただけできれいって思えなくなったんだよね。それでさ、あー、可愛いとかきれいとかって寿命があるんだなって」


 寿命、という言葉がひどく重くのしかかる。可愛い、きれい、ただの概念でしかないものにすら終わりがあると、三郷は言う。概念に終わりがあるのなら、きっと私と三郷の関係性は、ずっと前に寿命が来ている。こうして二人きりで過ごすことに不満感を抱いているし、三郷の感情の捌け口として扱われていることに悔しさすら覚える。


「だから私自身は寿命が来るまで可愛くあろうって思ったんだけど、部屋は飽きちゃったりするかもしれないから。大人になった時恥ずかしくないお部屋に変えたんだよね」


 照れくさそうに笑う三郷。うまくなった愛想笑いを返す。三郷は私の隣、毛の短いラグに直接座っていた。じっと私を見た後で、突然私の手を掴む。整った顔が視界いっぱいに映り、思わず身構えてしまった。可愛くて、きれいで、大嫌いな三郷。


「ね、芽衣。芽衣は私の隣にずっといてくれる?」


 強く握られる指先から熱が伝わる。淡い茶色の瞳に映った醜い私が、三郷に求められている。もう受け止めてあげることができない三郷の思い。期待に満ちた視線。きっと三郷は私が逡巡していることを知らない。


「……ごめん」

「え」


 三郷を見たまま、そう伝える。


「え、どうして? だってずっと仲良しだったじゃん私たち」

「仲良しではなかったよ、今までずっと」


 知らないでしょ、三郷と違って友達に囲まれることなんてなかったこと。知ってるわけないよね、家族の話をする三郷が幸せそうで、心の底から惨めな思いをしたこと。知りたくもないでしょ。今まで一度だって、私は三郷を親友だなんて思ってあげられなかったんだから。

 握られた三郷の手を解く。指先は三郷の熱を帯びている。私の返答に、心底から驚いたような表情を見せる。仲が良かったなんて、言えなかったはずだ。私はずっと我慢していたのだから。


「三郷は私にいてほしいんじゃなくて、三郷の隣で三郷のことを支えてくれる存在にいてほしいんだよ」

「ちがっ! そんなんじゃなくて! 芽衣が好きだから、また友達として一緒に過ごしたいってだけなの!」

「それはさ、好きっていうんじゃないんだよ。楽しいとか、一緒にいたいとかさ、そういうのに振り回されるの、もう嫌」


 声が震えてしまう。三郷は堪えることができなかった涙を零して、私を見る。私だって泣いてしまいたい。少しでも言葉を間違えたなら、ほんの少しでも三郷の気持ちを考えてしまったら、きっとすぐにでもこの小さなプライドは壊れてしまうだろう。

 喉の奥がツンと痛む。自然と腹には力が込められ、荒くなる呼吸をどうにか抑え込もうとしていた。時間をかけて、精一杯に言葉を探す。私は三郷が嫌い。私は三郷が大嫌い。三郷なんて親友じゃない。私なんかが、三郷と一緒にいちゃいけない。だから。


「私は三郷が大っ嫌い」


 三郷に向けられたのは絞り出すような声だった。他者から直接的に向けられることの少ない、拒絶の言葉。人を傷つけるために使うのは初めてのこと。涙も零さず呆けた顔をする三郷と違い、私はすぐにでも泣き崩れられるほどの苦しさに襲われる。耳や指先、体の端っこが強く熱を帯びる。

 夏のせいもあるだろう、まだ暑い八月の夜。膝裏や腿裏がじっとりと汗ばむ。エアコンからの風が肌を撫でているというのに、血液が沸騰するような逃れられない熱さが内から湧き上がり続けていた。また、三郷の手から、そっと私の手を解放する。触れていた熱はゆっくりと、しっかりといなくなっていく。


「だから今日で最後」


 三郷を意識した数年の生活は、触れていた手程簡単に三郷を忘れてくれることはないだろう。それでも離れなくてはいけなかった。きっと私は三郷がいないと生きていけなくなってしまうから。三郷は私がいなくても世界を羽搏いていけるだろうが、私はそうではないと自覚してしまったから。

 初めから対等ではなかった関係性が時間をかけてひずみを増した。受け皿のような扱いだったのだろうと、心から思う。だからこそ三郷は私を必要とする。容器が無いと形を保つことができないのだ。


「そんなこと言わないで」


 縋るように、そう三郷が零す。互いに涙は止まっていた。赤みを帯びた三郷の瞳が、じっと私を見つめる。流行りに乗ったシースルーの前髪が、汗で額に張り付いてしまっている。欲が表在化した瞳を向けられたのは人生初めてで、ぐわりと頭が揺らされた。そんな顔もできたんだね、三郷。


「……帰るね」


 肩にカバンをかけ、立ち上がる。待って、と三郷の手が私の足を掴んで、私を見上げていた。鼻を啜って、目元を擦って。これまで三郷を見下ろすことなんてなかった。違和感しかないアングルから目を背ける。


「三郷、足、離して」


 言葉が喉奥に引っかかる。三郷を振り返る勇気はなく、自然と身体に力がこもった。びくりと反応した指が、小さな嗚咽と共に離れる。


「ばいばい」


 寿命だった。私は限界だったし、三郷も限界だった。部屋の外はじっとりとした湿度が溜まっている。サンダルを履き、逃げるように三郷の家を出る。風一つ吹かない、生温い外気。エアコンの風で冷やされた体表に熱が回る。徐々に、芯へ。

 数十メートルほど走ったところで、ぴたりと足が止まる。主張する心臓を落ち着かせるように、折り曲げた体を起こしながら深呼吸を続けた。熱くて、辛い。汗が背中を流れていく。三郷の家はもう見えない。明るい空が隅へ追いやられ、薄雲と共に夜が降りてきていた。

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