ボトリティスェリプティカ ③

 土曜日、いつもの通学電車に揺られ定期券の終着で降りる。変わらない潮の香り。違うのは制服を着ていないことと、三郷が隣にいること。てっきり地元で遊ぶのかと思っていたが、三郷は『芽衣の通ってる学校のあたりを見に行きたい』と提案してきたのだ。平日にしか来ない街は観光道路があるおかげで、平日よりも駅の利用客が多い。

 観光客とは反対方向に進み、大通りを跨ぐ。そのまま大通り沿いを十分ほど進むと通っている高校が見える。


「ここで芽衣が過ごしてるんだね」


 灰色の空の下、可憐に笑う三郷が眩しい。校名を見て、「わー」とわざとらしく喜ぶ三郷。私が過ごす日常にはいなかった彼女の存在に、安息の地を蝕まれる感覚がする。ただ漠然と胸がざわつき、落ち着かないだけ。


「じゃあ次は、芽衣がよく行くところに連れてって」


 花のように可憐で、かわいい三郷。短く返事をし、学校から逃げるように大通りを戻る。三郷の近況報告を聞き流しながら、普段よりも交差点に気を配り、潮の香りがする方へと進む。どうやら三郷は男女問わず仲良くなる才能は健在なようだけれど、特定の相手はいないらしい。バイトも許されなかったそうだ。

 自転車であれば数分で着くお気に入りの海は、徒歩で向かうには背中が汗だらけになってしまう。深い青色の海は変わらずここに在る。私が一人でも、誰かを連れてきても、無関心に存在していた。三郷と違って海は変わらない。今日初めて、呼吸ができた。


「学校帰りに海来れちゃうの羨ましぃ。今日晴れてたらもっときれいだったね」

「まあ、そりゃ海だしね」


 曇りの日の海だって、晴れた日の海だって、何も変わらないじゃない。


「私、曇りの日に海行くことなかったんだけど、来てみるとこれはアリだね! 芽衣もいるしさ」


 ずんずん波打ち際へ進んでいく三郷。海風ではためくスカートが波に触れてしまいそうになるのを、私は後ろで見ていることしかできない。かばんが砂浜に落とされる。

 三郷は波に当たる直前で靴と靴下を脱ぎ、「しゃっこーい」と楽しそうな声を上げながら膝下までを水にさらす。視界の真ん中に三郷がいる。足場の悪い砂浜を進み、三郷が脱いだ靴の傍で、楽しそうに海中を歩く三郷を見た。寄せる波に、スカートの裾は重たくなっているようだったが、三郷は気にする素振りを見せない。


「芽依もおいでよ。ショーパンだしサンダルだし、せっかく夏なんだからさ」

「ええ……。今日は濡れに来たわけじゃないから、三郷だけ楽しんでよ」


 波に濡れてしまいそうな三郷の靴を、少し後ろへ下げる。


「一緒に」


 強い語調。聞いたことのない大きな声で言う三郷は、面白くなさそうに口を曲げる。


「私は、芽衣と、一緒に遊びたいの。一人で遊びに来たんじゃないの」


 中腰になった私を、三郷は海の中で睨んでいた。居心地の悪さに負け、三郷と同じようにサンダルを脱ぐ。薄くなった三郷の足跡の上を進み、海へと踏み入れる。彼女は満足そうに笑って私を待っていた。冷たいけれど我慢できる程度の水温。不規則にやってくる波と悪い足場に体制を崩しそうになりながら、膝まで海水に浸す。


「海ってさ、良くない?」

「急に?」


 三郷はどこまでが海でどこからが空なのかが分かりにくい、境界が不安定な水平線を見ていた。波風も海も私たちがいることも気にせず、ありのままの姿でいる。


「こう、海ー! って感じがするじゃん」


 両手を大きく広げ、カラっと笑う。


「分からないでもないけど……。なんか、何しても受け入れてくれる感じがするよね、海って」

「そうそう、そんな感じ。私にとっての芽衣みたい」

「――え」


 突飛な言葉に呆けた声が出た。


「高校生になってわくわくして過ごしてたんだけどさ、中学の時より見た目のこととか言われるの多くなったんだよね」

「それはだって、昔よりもっと可愛くなったからじゃないの?」


 細くしなやかで、白い肌。背中の真ん中まで伸びた整った長い黒髪。可憐な少女として過ごした中学の三郷は、明らかに大人へと成長するための蕾を育んでいる。だからこそ、三郷の言葉は当たり前のこととしか受け止められない。


「芽衣は違ったじゃん」


 三郷はずっと水平線を見て、囁く様に言う。笑顔のまま、穏やかな口調で。


「芽衣は、私の見た目なんて気にしないでくれてたじゃん。それがさ、海みたいで好き」

「あー……まあ、うん。ありがとう」

「何その返事」


 目を細めて、口元に手を当てて、三郷は笑う。笑顔を隠す人になってしまったんだ、三郷って。その仕草はもう、私の知ってる三郷ではなかった。会わなかったおよそ二年の歳月で、彼女は随分遠い人になってしまった。


「そろそろ、海から出ない? この後メルヘン道路行くんだったよね」


 気まずさを隠し、返事を待たずに波を切って砂浜へ上がる。すぐ砂だらけになる足。私を追って出てきた三郷の足も一緒で、砂を履いているようになっていた。お気に入りの海岸は遊泳が許可されていない砂浜であり、砂を流すための蛇口は用意されていない。両手に靴を持ったまぬけな格好。三郷は「困ったね」といたずらっ子のように笑っている。

 三郷の格好には合わないけれど私のサンダルを履かせ、私は素足のままで、一緒に私の高校へ戻る。ため息一つだけ、嫌味のように残して。

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