ボトリティスェリプティカ ②
夕方、海風が冷たい。聞きたくない話を聞いて、三郷のことを考えていたら授業が終わっていたし、身体はまっすぐに近場の海へと動いていた。幹線道路を越えた先、学校帰りによく寄る砂浜に自転車を置いて、海に近づく。夕方から、また曇り空が広がり、早朝のような薄ら寒い風に鳥肌が立っていた。
寒さに耐える肌をさすりながら、歩きにくい砂浜を進む。寄せて、離れて、また寄せて。単調に繰り返す海の全てが好きだ。砂浜に散らばった様々なゴミ。海が運んできたものと、人間が捨てたものと。海に在るべきでないものすら、海は包み込む。表情一つ変えず、何が在っても無くても我関せず、海は存在している。
そんな海が、私は好きでたまらない。きっと私が身を投じたとしても、海は優しく私を包んでくれる。穏やかな無関心さで、私を受け入れてくれる気がするのだ。鞄を放り、靴と靴下を脱いで、湿り気を帯びた砂浜を進む。自重でついた足跡をやわらかな波が撫で、時間をかけて凹凸を均す。
足首までを海水に浸け、さらに深く進むためにスカートをたくし上げた。急激に体温を奪われていくけれど、少しだけ海と一緒になりたい。中学の時よりもあか抜けて、可愛いよりもきれいが似合う女の子になっていたな、三郷。楽しそうに笑って――あんなに可愛かったら、友達には困らないよね。
目を閉じ、海の冷たさに気持ちを集中させようにも、すぐに三郷が浮かんでくる。私の知らないところで、私の知らない人たちと笑う三郷。三郷から離れたくて違う高校に進んだのに、私から三郷が出ていかない。水平線に沈んでいく夕日の輪郭が、うっすらと見える。胸の奥が重たくて、苦しい。今も私は三郷を忘れられないでいる。濡れた足にまとわりつく砂が、私のようで気持ちが悪い。
日がとっぷり暮れてから着いた最寄り駅で、今一番会いたくない人間の姿を見つけてしまった。少し長い肩紐の黒いリュック、その重さに負けてしまうのではないかと心配になるほど細い三郷。視線が奪われ、蛇に睨まれた蛙のように動きが止まってしまった。電車から降りたのは私と三郷だけ。利用者の少なさを、今日だけは呪った。
「……芽衣?」
「……久しぶり、三郷」
近づいてきた三郷に両手を握られる。
「芽衣~! 全然会えないから心配だったんだよ! 学校も違うしさぁ……。会えて良かった、嬉しい」
ゼロ距離の三郷は学校帰りのはずなのに良い香りがした。爽やかなシトラスの香り。握られた手は力強く、もしかすると本心で喜んでいるのかもしれない。三郷の笑顔が眩しくて、その笑みを向けられている事実に胸が苦しくなる。不自然にならないように握られた手を解放し、リュックの肩紐の位置を整える。
「通学で時間かかるから、遊ぶのも厳しくて。連絡も返せてなくてごめん」
「なんもだよ! またこうやって話せるだけで十分なんだから」
三郷は聞いてもいない高校生活の出来事を話し出した。同じ中学校だった子たちと今は仲良くしていること、悩んだ末に部活は入っていないこと、二か月後のヒタルで行われる劇団四季の公演に私を誘おうとしていたこと。私はなんとか相槌を打つけれど、三郷の容姿から目が離せないでいた。
自然な印象を与える化粧は三郷に似合っていて、隣を歩くだけで惨めな気持ちになる。私の通っている学校では化粧は禁止で、皆素直に従っていた。急な服装頭髪検査にも引っかかることはない。田舎と比べると都会の方が、決まり事には柔軟なのかもしれない。
知らない間に三郷はどんどん遠い存在になっていく。三郷を気にせずに過ごすことが出来ていた日々が胸躍るほど幸せだったはずだった、けれど、実際に三郷を見てしまうと傍にいたいと口に出してしまいそうになる。
「ね、芽衣。次の土曜日さ、一緒に遊ぼうよ」
だからきっと、今までなら受け流した遊びの誘いも、承諾してしまったのだ。嬉しそうに笑って、親の車に乗り込んでいく三郷が眩しい。一人残された夜道は生ぬるい風で満ちている。都会に戻ってきた実感と、滲む汗。菜緒の画面越しにみた笑顔の三郷は、私の知っている三郷ではない。私だけに向けて笑う彼女こそ、本当の三郷なんだ。
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