ボトリティスェリプティカ ①


 海はそこに在る。人がいようといまいと、魚がいようが、船がいまいが。海は一つも変わらず、ただ在る。



 □



 高校は親友の三郷とは離れた場所を選んだ。『一緒の高校に行こうね』なんて、マラソン大会で一緒に走るという口約束よりも軽い約束は、当たり前だが現実にはならなかった。

 地下鉄で通学する三郷とは違い、私は道内各地を結ぶ主要駅の端っこに設置された、物寂しいホームを使い通学している。数年前から新幹線沿線工事が始まったため、ホームに上がる階段付近は塩ビ板が設置された。

 剥き出しのコンクリートの床、塩ビ板の白い壁。そんな空間にぽつんと置かれたエスカレーターが、私を一人の女子高生として歓迎してくれる。

 昨日から前線の影響で雨が続き、夏真っ盛りの八月とはいえ、半袖では肌寒さを感じる。横に立つおじさんは汗を拭って、同じように汗をかいた水をごくごくと飲んでいた。見るつもりはなかったけれど、視界に入ってしまったその光景。できれば朝から目に入れたくはないもので、ため息とバレないように息を吐き出す。


 数分待ち、アナウンスと共に六両編成の汽車がホームに到着する。二人掛けの席が通路を挟んで左右に五脚ずつ、その前後に優先席が一脚ずつ置かれた車両から一気に人が溢れ出る。彼らは凝縮された汗のにおいと共に、爽やかな外界へと一目散に逃げていく。人流が落ち着いたのを確認し、車両へ乗り込む。座席にも汗のにおいが染みついている。教科書や運動着で膨らんだ鞄を足元に置き、小テストの勉強を始める。電車に乗った私は、一人の女子高生らしく過ごすのだ。

 心地よい揺らぎと共に襲い来る眠気に抗いながら、参考書に赤シートを滑らせる。雲間から日が差し込み始めた車窓は、既に市街地を抜け、建造物よりも青々とした緑が視界のほとんどを埋めていた。天使の梯子に照らされた木々の鮮やかさは、目に毒だった。

 書き込まれて汚れた参考書を鞄にしまう頃、汽車はトンネルに入ったところ。気圧の変化で耳の奥がツンと痛む。真っ黒で重たい前髪、傷んであっちこっち好きな方を向く毛先、いつでも眠たそうに見える肉厚な瞼。その奥から車窓越しに自分を睨みつける私。私の嫌いな女が、目の前にいる。


 ――国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。そう頭の中で唱えると同時、青く広い海が眼前に広がる。町と町を繋ぐだけの短いトンネルだけれど、潮の香りを分断する役割を担っているように感じられ、好感がある。実際にトンネルを越えるまで、海の気配を一つも感じさせないのだから優秀だ。

 海が近くにある、ただそれだけのことだが心地が良い。人がまばらになった車両を眺め、後にする。顔だけ見知った他人も同じように、電車の扉が開くのを待つ。

 相変わらず眠たそうな顔をしたサラリーマン。いずれ私にも心をすり減らしながら仕事をする日がくるのだろうか。電車を降り、改札を抜け、同じ制服を見に包んだ人々に紛れながら学校へ向かう。海風は今日も穏やかな涼しさと安心を内包していた。


「芽衣おはよー」

「おはよう。今日も良い風吹いてるね」

「塩でべたべたしなかったら最高なんだけどね、自転車錆びるし」

「それは確かに。菜緒の自転車高いやつだから、尚更嫌でしょ」

「ほんっとに嫌だね」


 駐輪場で同じクラスの友人と合流し、駐輪場から校内へ進む。自転車を漕いで温まった体に当たる風が、優しく体を冷やす。高校に進学して二年。互いに市外から入学した共通点で仲が良くなった菜緒は、女子らしくない女子だった。そんな菜緒といることが、私に安心感をもたらしていた。

 昨日のバラエティ番組や、小テストの話題。三郷と居た時には楽しいと思えなかった会話の一つ一つが楽しく、会話が止められない。三郷はきっと、ずっと楽しかったのだろう。私が笑えていたかどうかなんて、気にも留めていなかっただろうから。


 中学の頃と違い、高校生活は充実している。学級全体の仲は良好で、男女分け隔てなく互いを信頼しているように感じられる。三郷のように、他と比べ明らかに抜きん出ている人がいないというのが大きいのだ。三郷がいるだけで、その場の中心がたった一人に支配されてしまう。三郷が意図していないとしても。



「そだ、芽衣。私の友達がさ、高校でめっちゃ可愛い子いる~って連絡くれたんだけどさ、芽衣の友達も可愛いって言ってたじゃん? これって芽衣の友達?」



 久しぶりに三郷を思い出し、胃の重たさを感じる昼食時。片手で持ちきれない程大きなおにぎりを頬張る菜緒が、これこれ、と携帯を向けてくる。制服のスカートを折り、すらりとした脚を出す女子高生二人。強いエフェクトが邪魔だけれど、それは――


「……三郷だ」


 高校に上がってから会わないようにしていたけれど、その女子生徒が三郷だとすぐに分かった。女性が憧れる女性。中学の頃よりも身長が伸びたのか、体重が落ちたのか、韓国のアイドルのよう細い。整った二重の瞳は私を見ているわけではないのに、画面越しに見つめられているようで気味が悪い。


「あ、やっぱり? この子めっちゃ可愛いね」

「うん、最近会えてなかったけど、変わんない」


 菜緒はインスタグラムで三郷のアカウントを発見したようで、うわぁ可愛い、と呟きながら三郷が友人と撮ったらしい写真を見ている。味のしなくなった弁当を機械的に咀嚼し、どうにか飲み込む。バラエティもドラマの話も、学校の小テストの話も楽しくて仕方がない。ただ、高校生にもなれば中学時代よりも他者評価が気になって仕方がないし、身近にいる努力しても手が届かない可愛さを持つ同性が眩しくて仕方が無いのだ。

 普段の倍以上長く感じる昼休憩。話題のほとんどが中学時代の三郷に関すること。三郷がいないと関心を向けられなかった日々が嫌いだったのに、今もまた、私の価値は三郷に依存している。


「いいなぁ。こんな可愛い子と友達って、羨ましい」


 あ、クリティカルヒット。

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