流れいく季節のまんなかで
あまいあめ
梅雨前線は数日停滞する予想です。近隣の住民の方は雨による土砂災害や、浸水などにも注意してお過ごしください。また、所によってはゲリラ豪雨による水害も起こる可能性がありますから、気をつけてください。それでは、いってらっしゃい!
朝、カーテンを開けても日差しは入らず、厚い雲が下がり、外は薄暗い。目と鼻の先に見えるだだっ広い海からの吹き荒ぶ風が、街路樹を左右に揺する。枝が数本アスファルトに落ちていた。天気予報が終わったら学校へ行こう。そう思っていたけれど、そう思うのは学生として一般的なことなのだけれど、ソファに沈みこんだ体は動きそうもない。
本州よりも遅く訪れる、梅雨と呼んで良いのか分からない雨の日々。この地域には梅雨がない。どれだけ強い雨が降ろうとその雨が水害をもたらそうとも、梅雨のせいで、なんて強がりを言うことすら許されていないのだ。梅雨入り速報にも無縁で、その後発表される梅雨明け宣言も遠い他人の話。
ソファに沈んだまま、ぐしゃぐしゃのブランケットに身を包み、天気予報後のニュースを流し見る。その全てが、私には関係の無い話題だった。怨恨による殺人、若者にお金を騙し取られたおばあちゃん、梅雨が明けた地域では夏が訪れて、大粒の雨に打たれるサラリーマンの群れ。モノトーンの花々に時折混ざる鮮やかな蝶が、皆一様に駅を目指して進んでいた。
「行きたくないなぁ、学校なんて」
行かないといけないのだ、学校には。テレビ画面の左上、時刻が五十五分になったら家を出よう。タイムリミットが少しずつ近づく。ああ、行きたくない。雨が降っていること、風が強いこと。また、あの子に会わなくちゃいけないこと。
「時刻は五十五分になりました。ここからは地元、札幌のスイーツ特しゅ」
華やかな衣装のアナウンサーの笑顔に嫌気が差し、テレビを消す。私がこんなにも陰鬱とした気持ちでいることも知らないで。仕方なく体を起こし、昨日には準備し終えたリュックに腕を通して、事前に防水スプレーを噴霧していたスニーカーを履く。
普段よりも随分近くに降りてきた雲は、ジャンプして手を伸ばせば届いてしまうんじゃないか。雲に掴まって、そのまま風に吹かれて、私を遠くに運んでくれやしないだろうか。
ありえない空想ばかりが浮かんで、消えて。ドアノブに手をかけ、大きく息を吸い込む。行かなくてはならないから、それだけの使命感で外へ踏み出す。
「うわ」
レインコートを着てくるべきだったかもしれない。制服のせいで防御力の低い足下はびしょぬれ。傘を差すが風に煽られるせいで、から傘オバケのように歩くしかない。そうしたところで無駄ではあるのだけれど、少しだけでもこの雨風に抵抗する。
足下を見ながら歩けばいったいどこから出てきたのか問いたいほどのイトミミズが、久々の雨に喜んでいた。中には踏み潰されたかわいそうな個体もいる。踏んでしまわないようにつま先立ちをして、早く安全地帯に、と学校を目指す。早く学校に着いてしまいたい。独特な雨のにおい。私の嫌いなものだ。
「おはよう、
「おはよ。私も来たくなかったよ」
濡れたソックスが上履きの中で蒸れる不快感。かたい生地のセーラー服も湿り、言い難い気持ち悪さがある。不機嫌さを隠せず、リュックを置いた机が大きく音を立てた。瞬間的に静まった教室内は、またすぐ、さざ波のように騒がしくなり始める。そんな様子を友人の
同調せず、共感せず、後腐れもないようなあっさりした関係を築くことができる彼女は、本当に同じ中学生なのだろうかと疑問に感じることもある。けれど確かに彼女は、私と同じ市立緑陵中学校の三年生。小学校から一緒に過ごしてきた三郷は、間違いなく同級生だった。アイドルとジャニーズが好きな、かわいい人。
挨拶を交わしたあと、彼女は別のクラスメイトと談笑する。ああ、なんてまばゆい人だろう。
国語の先生が朗読している間も、数学の問題を解き、保健体育で男子がひそひそ話をしている時も、その片隅に雨音がいた。和気藹々と過ごすことができていた給食の時間は、黙食が始まったことで自宅と変わらない寂しい時間になった。味のしない食事をどうにか飲みこみ、残った時間は頬杖をついて外を眺めるしか、やることがない。
ただ、黙食を、と言われながらも、小さな囁き声は聞こえてくる。中には三郷の声があり、私の耳は雨音よりもしっかりとその声を拾っていた。三郷は友達をつくる才能をもっていた。解消されない不快さが残る幼心が、三郷の笑い声に刺激され、劣情でじとじとと湿り気を帯びていく。
午後の授業はひとつも集中できないまま、放課のチャイムが鳴った。
「芽衣、一緒に帰ろ〜」
「うん。また濡れるの嫌だね」
「ふふ。もう今年も雨の時季だもんね。今日もあたしの家来るでしょ? お母さん迎えに来てくれてるはずだから、乗ってって」
誘われるがまま、まだ湿ったスニーカーに履き替える。風は朝よりも落ち着いたようで、満開に咲いた色とりどりの花が校門に向かって進む。その群れにならって傘を差す。安っぽいビニール傘の私とは違い、三郷の傘は大きなマーガレットが描かれた淡い水色の傘を広げた。
「あの車だよ」
靴が水溜まりに入り、水滴が跳ねる。きゃあ。楽しそうな声を上げて、三郷の母が運転する車に向かう。大きくてきれいな黒いワゴン車。私たちを見て自動で開いた扉からは、優しい柑橘系の香りがした。助手席に座った三郷が手櫛で髪を梳けば、嫌いな雨の隙間から石鹸の香りが広がった。
三郷の家は私の家からそう遠くない位置にある。専業主婦をしている三郷の母は、いつでも温かい作り立ての食事を私に振舞ってくれた。学校での出来事を楽しそうに話す三郷は、本当に家族に愛されているのだろう。三郷が両親と話す時に見せる笑顔は、アルバムの中で幼い私が浮かべていた笑みと変わりなかった。
「芽衣ちゃんのご両親もお仕事大変そうね。我が家でよければ、もうひとつの実家くらいの気持ちで過ごしてね」
「……ありがとうございます」
スカートがしわになりそうな程、強く握る。それはきっと他愛のない心配りだったのだろうけれど、迷惑だと言外に滲んでいるように感じられた。ごめんなさい、帰ってこない両親を家で待たなくて。きっと週に何度も遊びに来て、夜遅くまで居座る子供は不健全だろうし、何より家族の生活を邪魔する迷惑なものに他ならないはずだ。頭ではそう理解できるけれど、誘ってくれる三郷の優しさにつけこみたい。そんな弱さにすがっている。
いつも通り整頓された、かわいらしいパステルピンクと白を基調としたメルヘンな部屋。部屋の中央に置かれたピンク色のクッションの上が、私の定位置だった。三郷は私を気にせずに制服を脱ぐ。無駄な脂肪のない、日焼けを知らない白い肌。まだ幼子のように家族愛に守られた彼女には似合わない、レースがあしらわれた紺色のブラジャー。発育途上の小ぶりな胸を守るそれが、男を意識しているようで、淫猥に見えた。
「かわいいね、その下着」
男を誑かすことを目的としているようで、私は嫌いだけど。
「そうでしょ! 芽衣なら分かってくれると思ったんだよね〜! もう高校生にもなるんだからってお母さんと選んだんだ。芽衣に似合いそうなかわいいのもたくさんあったよ」
「ふうん、いいな。お母さんと行ったんだね」
「さすがにお父さんとは行けないからね。ね、高校入ってバイトしてさ、一緒にお揃いの下着とか買おうよ。ねっ?」
「うん、そうだね」
嫌味のない笑顔が私を見る。ちゃんと笑えていただろうか。学校では聞き役が多いせいか、三郷は言葉の泉からたくさんの話題を出し始める。私はそれを聞いて、時折「そうだね」「大変だったね」と愛想笑いを浮かべるのに徹した。
三郷のように心から楽しそうに笑って話を聞くだけの愛嬌はなく、気の利いた一言をかけられるわけでもなかった。一日の会話は三郷と三郷の両親とで、ほとんどが終わってしまう。自宅での会話は最低限のものばかり。最後に学校の話をしたのはいつだったか、思い出す方が難しい。
それからしばらく三郷の話を聞き、三郷の母が作った料理を食べる。給食と一緒で、いつも味がしない。小料理店を営むことができそうなほど見た目も彩やかな料理だけれど、母が置いてくれるウィンナーと目玉焼きに勝るものはなかった。お腹は満ちていくのに、深い無力感にも似た虚無は心を空っぽにしていく。
それでも美味しい美味しいと笑顔で食事を摂る三郷を見習い、満面の笑みを浮かべて見せた。満足そうな三郷の母の姿に、ばれないように息を吐く。失礼な子だと思われないように、空っぽの心がばれないように、がんじがらめの戒めで守る。そうしないと幸せな光景に心が壊れてしまいそうだった。
食後、母からの連絡を待つ時間を、三郷の部屋で過ごす。父は夜遅くまで働いているせいで、ここ数日見ていない。母と少しは会えるけれど、疲れた顔に、私の話を聞いてほしいなど言えるはずもなかった。それでも、明日は一緒に過ごせるだろうか。
「そうだ、明日もくる? 何しよっか明日は」
時刻は既に二十時を超えた。三郷にとって、今日という日はもう終わるのだろう。私にとってはまだ終わらない夜だけれど。
「明日かぁ。お母さん早く帰ってきてくれると思うんだよね」
「あっ、明日誕生日だもんね」
私の誕生日を覚えていてくれたことに、少しだけ心が温まる。誕生日かぁ、いいなぁ。ベッドに座りクッションを抱えた三郷は、体を左右に揺らす。私はぎこちない笑顔を隠すことができなかった。誕生日なんていいものじゃないよと、三郷には言えなかった。三郷の気持ちを、私なんかが無碍にしてはいけない。
「駅の近くにできたケーキ屋さん美味しかったから、芽衣ママにお願いしてみたら? すごいんだよ、クリームふわっふわで、すっごく甘くて美味しいの」
三郷からのプレゼンテーションに耳を傾け、何度か頷く。多忙な両親も私が産まれた日くらいは少し早く帰ってきて、一緒に食卓を囲み、おやすみを言い合って――なんてきっと無理だろうけれど。
時計が二十時半を過ぎた頃、母から連絡が来たと階下から声がした。大好きな親友から解放される。胸に充満した重たい空気を絞り出すために、大きく深呼吸をした。夜道は危ないからと送ってくれた三郷の母に頭を下げ、真っ暗な自宅へ戻る。雨はいっそう勢いを強くし、時折遠くで雷鳴が響いた。
玄関扉を施錠し、まっすぐ向かった脱衣所で制服を脱ぐ。湿気でベタつく肌が嫌で、シャワーを浴びたくて仕方がなかった。
浴室の鏡に晒された私の肢体は、三郷のようなしなやかなものではなく、むっちりとして幼児を彷彿とさせる。ぽこんと出た下腹部と、スポーツブラで間に合う小さな胸。せめて女の子らしくありたいと伸ばした黒髪。そのどれもがアンバランスで、三郷との違いに苦しさすら感じた。
もっとかわいければ両親は帰ってきてくれるのだろうか。いや、そんなことはないだろうな。目を閉じて髪を洗う。
留守番を任されるようになったのは、小学二年生頃からだった。初めは、怖さもあったが、何より頼られる嬉しさと使命感に突き動かされていたのを覚えている。けれど少しずつ両親のいない時間が増え、家庭よりも仕事を優先したいだけだったのだと気が付いた。
私だって三郷のように甘えたい。家にいて話を聞いてほしい。仕事よりも大切な存在だと抱きしめてほしい。両親と過ごした最後の誕生日は、一体いつの事だったか。私の誕生日を覚えてくれているのかさえ、私には分からない。
「なにが、ケーキをお願いしたら、よ」
良いよね、買ってもらえる子は。良いよね、家に親がいて、愛されて、優先されているのだから。
汚い感情が、深く底の見えない悲しさを伴って私の中身を満たしていく。温かなシャワーは、溢れた涙を隠すことしかできなかった。
よれよれの半袖に、小学生の頃から愛用しているショートパンツを履き、ソファに座る。時刻はもう、帰ってきて一時間以上経過していた。テーブルに置いていた連絡用のスマートフォンには、早くても二十三時になりそうと両親からメッセージが入っている。
ゴオ、とひときわ強い風が吹く。窓に叩きつけられる雨粒が、心細さを強めていく。きっとこの風に乗って遠くを目指しても、私は途中で落ちてしまう。この世界で私は負け組なんだ、三郷と違って。
冷えたブランケットを肩にかける。部屋の電気を付けないままで、目を閉じて、雨音に耳を傾ける。ああどうか。どうかこの心細さも、三郷への劣情も、雨が溶かして流してくれますように。
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