マンツーマンレッスン――2

「先生、よろしくお願いします」

「うん。頑張ろうね!」


 翌日の夕方。俺と雛野はダイニングテーブルを挟むかたちで向かい合っていた。今日からテストがはじまるまでのあいだ、雛野がマンツーマンで勉強を教えてくれることになったのだ。


 中学時代の雛野の成績は、上の上。テストでは常に一〇位以内に入っていた。そんな才女が先生を務めてくれるのだから、頼もしいことこの上ない。


 感謝を込めて頭を下げると、雛野は胸元で両手を握り、可愛らしくエールを送ってくれた。


「まずは数学からいこうか。小テストを用意したから解いてみてくれる? あきくんの現状を把握したいの」

「わかった」


 雛野が差し出した裏向きの紙を前にして、俺はシャーペンを握りしめる。


「じゃあ、スタート」


 雛野の号令とともに、俺は紙を表向きにして、小テストへの挑戦をはじめた。





「正答率は二〇パーセントくらいだね」

「……面目次第めんぼくしだいもございません」


 小テストの結果は散々だった。情けなさのあまり、俺はがっくりと肩を落とす。


 そんな俺に、雛野が優しく微笑んでくれた。


「謝らなくてもいいよ。あきくんには伸び代があるってことなんだから。これからいくらでも成長できるよ」

「ひ、雛野ぉ……!」


 温かい言葉に胸を打たれる。何度となく思ったことだけど、雛野はやっぱり天使なんじゃないだろうか?


「あきくんの苦手な部分は大体把握できたから、そこを重点的に勉強していこうか」


 雛野が問題集を取り出して、開く。


「ひとまず、このページの設問を解いてみて。わからないところがあったらいてね?」

「了解!」


 雛野の指示に従い、俺は設問に挑む。前向きな俺の姿勢にニコリと相好を崩し、雛野は自分のテスト勉強に取りかかった。


 一問、二問と解き……三問目で早くも俺の手が止まる。しばらく問題集とにらめっこしたが、まったくわからない。


「ゴメン、雛野。早速だけど、どう解けばいいか教えてもらっていい?」

「もちろんだよ。どこ?」

「ここなんだけど」


 わからない箇所をシャーペンで指し示すと、確認のため、雛野が前屈みになって身を乗り出してきた。


 今日の雛野はゆったりとしたブラウスを着用している。そして、雛野の胸は非常に発育がいい。そのうえで前屈みになると、必然的に、緩くなった襟から深い胸の谷間が覗いてしまう。


「――――っ!!」


 そのことに気づいた俺は、胸の谷間が見える寸前で慌てて顔を背けた。


 雛野には返しきれないほどの恩がある。にもかかわらずよこしまな目で見るなんて、恩を仇で返すようなものだ。


 我慢しろ、俺! 見ちゃダメだ! そんなの雛野に対する裏切りだ! だから、勝手に見ようとするんじゃない、俺の目! 鎮まれ煩悩!


 ついつい雛野の胸元を見てしまいそうになる自分を叱りつけ、男の本能に必死で抗う。


「うーん……こっちからじゃ見にくいね」


 煩悩と死闘を繰り広げていると、雛野が席を立ち、俺の隣にやってきた。


 よかった。これで雛野の胸元を見ないで済む。


 俺が胸を撫で下ろすなか、隣の席に座った雛野が設問を確認するために身を寄せてきて――ピトッと俺たちの肩がくっついた。


「ひょっ!?」


 一難去ってまた一難。俺の声が裏返る。


「ああ、この問題だね。ここはたすき掛けをすればいいの。こことこことを斜めに掛けて――」


 雛野が解説してくれているが、その五分の一も頭に入ってこない。俺の思考リソースの大半が、雛野自身に注がれているからだ。


 い、いまさら言うことじゃないけど、雛野ってメチャクチャ可愛いな。この距離で見るとなおさら思い知らされる。顔立ち整ってるし、まつげ長いし、唇なんて濡れてるみたいにウルツヤで……それに、もの凄くいい匂いがする。カモミールみたいな甘い匂い。俺、この匂い、好きだなあ。


 まるで引力でも発生しているかのごとく、雛野から目が離せない。


 いま、俺の世界には雛野しかいなかった。


「わかった?」

「ひょっ!?」


 俺が見とれているまさにそのとき、不意打ちのように雛野がこちらを向いた。至近距離での上目遣い。その破壊力に、俺の顔が燃えるように熱くなる。


 一言も発せずに固まっていると、俺を見つめていた雛野がハッとした。


「か、顔が真っ赤だよ、あきくん!」


 熱が出たと勘違いしたのだろうか。雛野が慌てた様子で俺の前髪をめくり上げ、自分の顔を近づけてくる。


 コツン


 俺と雛野の額がくっついた。当然、俺の目の前には雛野の顔がくる。ちょっと近づくだけでキスができる距離だ。


 酸素を求める金魚みたいに、俺はパクパクと口を開閉する。顔の熱は上がる一方だ。


「やっぱり熱い! ど、どうしよう! あきくん、風邪引いちゃった!?」

「いや……ち、違うから」

「けど、こんなに熱があるんだよ!?」

「それは、その……ひ、雛野が、近いからで……」

「ふぇ?」


 コミュ障になったみたいにたどたどしく伝えると、雛野がキョトンとした。


 黒真珠の瞳がパチパチとまたたいて――目前にある美貌が、リンゴみたいに真っ赤に染まった。額から伝わる体温も急上昇している。


「ゴ、ゴメンね、あきくん!」

「い、いや、大丈夫」


 弾かれたように雛野がパッと離れた。


 雛野が離れてもなお、俺の熱は鎮まらない。恥ずかしさのあまり、俺はポリポリと頬を掻く。


 ふたりっきりのリビングダイニングに沈黙が訪れた。


 隣にいる存在が気になって、俺は雛野のほうをチラチラとうかがう。雛野も俺と同じなのか、チラチラとこちらをうかがってくる。


 不意に、俺と雛野の視線がぶつかった。


「「――――っ!」」


 ふたりしてパッと逸らす。


 それでもやっぱり気になって、再び雛野のほうをチラチラとうかがう。


 俺と雛野の視線がぶつかった。


「「――――っ!」」


 ふたりしてパッと逸らす。


 以下繰り返し。照れくささと恥ずかしさとむず痒さがドンドン膨らんでいく。


「わ、わたし、ココア煎れてくるね!」


 アオハルな空気に耐えきれなかったらしく、雛野が席を立ち、急ぎ足でキッチンへとエスケープした。


 取り残された俺はテーブルに突っ伏し、頭を抱えて悶える。


「あー、もー、可愛すぎるだろぉ……っ!!」


 はたして俺は、勉強に集中できるのだろうか?

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