マンツーマンレッスン――1

 ゴールデンウィークが終わり、再び学校生活がはじまった。


 その日の夜、自室でパソコンを操作していた俺は、高柳さん宛のメールを送り、ふぅ、と息をつく。


「ようやく一区切り着いたか」


 先月から取り組んでいた新作のプロットが、やっと完成したのだ。


 ラブコメを書くのははじめてなので、プロットの段階でかなりの時間がかかってしまった。けど、雛野との生活を元ネタとして落とし込まなければもっと時間を要しただろうから、まだマシなほうだろう。


 一仕事終えた俺は、うーん、と伸びをして、パソコンをシャットダウンし、休憩のためにリビングダイニングに向かった。


 リビングダイニングのドアを開けると、ちょうど雛野がアイロン台を片付けているところだった。傍らにはたたまれた衣類が積まれている。どうやらアイロンがけをしてくれていたらしい。


 いますぐ嫁にいっても雛野なら上手くやれるだろうなあ。雛野と結婚できるひとは間違いなく幸せ者だ。


 しみじみと思っていると、雛野が俺に気づいた。


「お仕事終わったの、あきくん?」

「ああ。なんとかプロットが完成したよ」

「本当!? やったね!」


 雛野が我がことのように喜ぶ。タンポポみたいな笑顔が温かくて、疲れが溶かされていく気分だ。


「これでこっちの仕事はひとまず終わり。高柳さんのチェックバック待ちだ」

「チェックバック?」

「作成したプロットを確認して修正箇所を指示することだよ。執筆とチェックバックを繰り返して、作品は完成に向かっていくんだ」

「へぇ、手間がかかるんだね」


 椅子に腰掛けながら説明すると、雛野が興味深げに相槌を打つ。


 首や肩を回して強張こわばりを解していると、キッチンに向かった雛野がココアを煎れて、持ってきてくれた。


「お疲れ様、あきくん」

「ありがとう」


 ねぎらいの言葉とともに差し出されたマグカップを受け取り、口を付けてすする。ココアのほろ苦さと甘みが、疲れた体に染み渡っていくようだ。


「美味しい」

「ふふっ、よかった」


 俺の反対側に座った雛野が柔らかく目を細めた。


 なんか、こういうの、いいな。仕事を終えたとき、そばにいる誰かがいたわってくれるのって。夫婦ってこんな感じなのかな。


 ふとそんな考えが頭をよぎり、俺の頬が熱を帯びる。


 い、いや、俺と雛野はそんな関係じゃないだろ。あくまで雛野は幼なじみとして面倒を見てくれているだけで、恋愛感情はないはずだ……多分。


 チラリと目をやると、俺の視線の意味がわからないのか、雛野がコテン、と首を傾げた。その仕草が可愛らしくて、ますます頬が熱くなってしまう。これ以上は自爆しそうなので、俺はふい、と顔を逸らした。


「ま、まあ、とにかく、第一関門は突破ってとこかな。チェックバックまで作家業は一旦休みだ」

「そっか……本当によかったね。中間テストの前に終わって」


 照れ隠しをかねて説明すると、雛野が安堵とともにそう口にする。


 俺はピキッと固まった。


 マグカップを持つ手がカタカタと震えはじめる。背筋が冷たくなり、さあっと血の気が引く。


「あ、あきくん? 大丈夫?」


 尋常ならざる俺の様子に、雛野が不安げな顔をした。


 俺はマグカップをテーブルに置き、頭を抱える。


「あ……ああぁああああああああああっ!!」

「あきく――――ん!?」


 封印されていた悪しき記憶を呼び起こされたかのごとく絶叫する俺の姿に、雛野がアタフタとした。


「どどどどうしたの!? なにがあったの、あきくん!?」

「も、もうすぐ中間テストだってこと、すっかり忘れてた……!」


 おののきながら俺は打ち明ける。


 忘れていたのだから当然だが、テスト勉強はまったくしていない。テストまで一週間もない現状、絶望的と呼べる状況だ。


 学生として致命的なミス。だが、どうか俺を責めないでほしい。学業の傍ら作家業をこなし、しかも、最近はプロット製作に邁進まいしんしていたのだ。忘れてしまうのも無理はないだろう。


 俺の告白に目を丸くしながらも、「け、けど」と雛野が励ましてくる。


「あきくん、勉強はできるほうでしょ? 中学のテストでは必ず平均以上だったし。時間はないけど、いまから集中して勉強すれば大丈夫だよ」

「……そうでもないんだ。全然大丈夫じゃないんだ」

「え?」


 雛野がキョトンとするなか、俺はフラリと立ち上がり、ゾンビみたいな足取りで自室に戻った。デスクの隣にある棚から一枚の紙を取り出し、リビングダイニングに戻ってきて、雛野に見せる。


 雛野が絶句した。


 その紙は、今日返却された数学の小テストで、記されている点数は――


「に、二六点!?」

「……お恥ずかしい限りです」


 情けなさすぎて、恥ずかしすぎて、俺は顔を火照らせながら身を縮める。


「ど、どうして!? あきくんが五〇点以下の点数をとったことなんてないよね!?」

「その通りだけど、それは中学までの話。高校の勉強は思ってた以上に難しくて、正直、ついていけないんだ」


 中学までの勉強は、授業・予習・復習を真面目にこなしていれば、最低でも平均点は獲得できた。だが、高校の勉強はレベルが違う。中学と同じ要領ではまったく習得できないほどに。


 それに加え、作家業もこなさなければならない俺は、予習と復習に割ける時間が限られる。そのため、授業だけで内容を習得しなければならない事態も発生した。その結果が二六という点数なわけだ。


 マズい。マズいそ。このままじゃ赤点まっしぐらだ。赤点をとってしまうと補習を受けなくちゃならない。その頃にはチェックバックが終わっているはずだし、それからの作業に支障をきたしてしまう。どうすればいいんだ……!!


「大丈夫だよ、あきくん」


 苦悩の余り涙目になっていると、雛野が真っ直ぐに俺を見つめてきた。


 いつも柔和な表情をしている雛野だが、いまは、眉をキリリと立てた凜々しい表情をしている。まるで、戦士を勝利に導く戦乙女のようだ。


 雛野が断固とした口調で宣言する。


「あきくんに赤点なんてとらせない! わたしがなんとかしてみせる!!」

「ヤ、ヤダ、雛野さん、かっけえぇ……!!」


 王子様に恋する乙女みたいに、俺の胸がトゥンクと高鳴った。


 男として情けないとは思うけど。

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