カラオケ――3

 ドリンクバーでグラスにレモンスカッシュを注ぎながら、俺は盛大に溜息をついた。


 またしても空気を壊してしまったようだが、どうしてなのか皆目かいもく見当がつかない。唯一、自分に原因があることはわかるのだが。


「一体なにが悪かったんだ?」


 テストで難解な問題を前にしたときのような焦燥感を覚え、俺は頭をガリガリと掻きむしる。


「またやっちまったな」


 岳の声が聞こえた。


 振り返ると、苦笑を浮かべながら岳がこちらに歩いてきていた。俺を心配して追いかけてきてくれたのだろう。気が回るやつなのだ。


「なあ、岳。さっき空気が壊れた原因って俺なんだよな?」

「ああ。そうだな」

「俺の言動のなにがいけなかったんだろう?」


 隣のドリンクサーバーでウーロン茶をおかわりしている岳に俺は尋ねる。


 聡明な岳は原因を把握しているようで、すぐに答えてくれた。


「お前、天堂に曲入れるように薦められたとき、断っただろ? あれだよ」

「それのどこがダメなんだ?」

「自分たちが歌ってるのに、歌ってないやつがいるって状況は気まずいんだよ。かといって、強引に歌わせるのは感じが悪いしな。変な空気になったのはそのためだ」

「音痴な俺の歌なんか聴きたくないと思うけど……」

「歌唱力が求められる集まりはたしかにあるけど、今回は違う。それぞれが歌い合ってコミュニケーションをとるのが目的なんだよ。歌の上手い下手は関係ねぇんだ」

「……難しいなあ」


 空気を読むのは想像以上に難解らしい。間違いなくその手のスキルがない俺は、がっくりとうなだれる。


「あ、赤川くんは、悪くない、です」


 そんななか、第三者の声がした。


 聞き間違えようのない声。耳に馴染んだ声。雛野の声だ。


 俺と岳が声のしたほうを向くと、唇を引き結んだ雛野が切なそうな顔で立っていた。


 岳と付き合いがないためか、雛野はプルプルと震えている。それでも雛野は、ギュッと両手を握りしめて俺を擁護した。


「赤川くんは、み、みんなを気遣って、歌わなかったん、です。だから、責めないで、あげてください」


 雛野に意見されるとは思ってもなかったのか、岳が目をしばたたかせる。


 あとから来たため、俺が岳に説明を求めたところは耳にしていないのだろう。どうやら雛野は、空気を壊したことで俺が岳に説教されていると勘違いしてしまったらしい。


「ふむ」と腕組みをして、岳が口を開いた。


「まあ、歌いたくないやつに無理いするのは間違ってるし、章人が参加するように仕向けたのも俺だ。言い過ぎたな」

「いや、雛野。岳は、俺に空気が壊れた原因を――」

(いいんだ、章人)


 誤解を解こうとした俺を岳が止める。雛野に聞こえないよう、潜めた声で。


(変にこじらせることはねぇよ。本当のことを知ったら雛野が自分を責める)

(けど、それじゃあ、岳が悪者になっちゃうだろ?)

(舐めてもらっちゃあ、困るな。俺がその程度のことを恐れるとでも?)


 俺にしか見えないようにして、岳が不敵に笑った。


「悪かった。詫びと言っちゃなんだが、それとなく章人のフォローしとくわ。気分が落ち着いたら帰ってくるといい」


 ヒラヒラと手を振りながら、岳がカラオケルームに戻っていく。気遣いのレベルが高すぎる。


 俺が女性だったら絶対惚れてるよ。イケメンだよなあ、まったく。


 やくたいもない感想を抱きながら苦笑していると、雛野が心配そうな顔で近寄ってきた。


「大丈夫、あきくん?」

「大丈夫。別にキツいこと言われたわけじゃないから」

「ならいいけど……」

「まあ、反省はしないといけないよな」


 俺はポリポリと頬を掻く。


「やっぱり歌ったほうがいいんだろうなあ……」


 口にしてはみたが、気はまったく進まなかった。


『歌の上手い下手は関係ない』と岳は言っていたが、できるなら上手い歌を聴きたいだろう。音痴の歌を聴きたいなんて物好きはなかなかいない。


 それに、単純に俺が恥ずかしい。好きこのんで歌を聴かせたい音痴もまた、なかなかいないのだ。


 再度溜息をつき、どうしたものか、と考える。


「……ねえ、あきくん」


 その折り、雛野が俺のシャツの袖を、遠慮気味につまんできた。


「どうした?」

「その、ね? わたしと……デュエット、しない?」


 突然の提案に俺は目をパチクリとさせる。そんな俺に、期待と不安がミックスされたような顔つきで、雛野が上目遣いを向けてきた。


「あきくん、歌うのが恥ずかしいんだよね?」

「あ、ああ。その通りだ」

「わたしもね? ひとりで歌うのは恥ずかしいの。結構無理してるの」


 だからね?


「一緒に歌えば、あきくんもわたしも、少しは緊張が和らぐと思うんだ」


 赤らんだ頬と、甘えるような声に、ドキリとする。


 雛野を直視できず、俺は顔を背けた。


「お、俺なんかで、いいの?」


 いまだに心臓が高鳴るなか、俺は問いかける。


 雛野が微笑んだ。


「あきくんいいんじゃないの。あきくんいいの」


『一生のうちに心臓が鼓動を刻む回数は決まっている』という仮説がある。もし本当だとしたら、このわずかなあいだに、俺の寿命はどれだけ縮まっただろうか?

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