第一章 神隠しの森の先

 美緒は、障子戸から入ってくる光を受けて、目を開けた。そこに金色の瞳をした白猫が、美緒の顔を覗き込んできた。

「ようやく起きたね。天史郎てんしろうを呼んでくるから、ちょっと待ってなさい。あ、頬のそれは外すんじゃないわよ」

 美緒が言葉を発する前に、白猫はくるりと美緒に背を向けた。しっぽの先が二又に分かれており、そのまま器用に障子戸をあけて、自分が出た後はちゃんと障子戸を閉めて出て行った。

「……妖怪?」

 美緒は読書が大好きで、いろんな本を読む。猫でしっぽが二又に分かれているのは、たしか「猫又」という妖怪ではなかっただろうか。美緒は布団から体を起こす。辺りを見回すと、枕のそばにランドセルが置かれていた。

 そして母に叩かれた頬に触れると、布が指先に触れ、塗り薬のぬめりを感じた。

「入るぞ」

 今度は男の声がした。美緒が返事をする前に障子戸が開けられ、足元に白猫を伴い、たくさんの引き出しがついた箱のような物を持って、男が入ってきた。男は、襟足が首筋を隠す程度に長く、少し長めの前髪の隙間から見える瞳は、金色をしていた。

(この人も、人間じゃないのかな?)

 男は美緒のそばに箱を置くと同時に座った。

「体に不調はあるか? あー、痛いとか、気持ち悪いとか」

「な、ない、です」

「そうか。俺は天史郎。この白猫は雪音ゆきね。んで、お前の名前は?」

「ゆ、夢水ゆめみず美緒。10歳です」

「美緒な。よろしく。念のため、口を開けてくれるか? 俺は薬師くすし、あー医者って言えばわかるか? 森で倒れていた美緒の容態を確認したいから、口をあけてくれるか?」

「は、はい」

 美緒は大人しく口を開ける、天史郎は「問題ない」と頷き、手や足も触診する。

「大丈夫そうだな。頬のも剥がすぞ」

 天史郎は美緒の頬に貼られていた布をはがし、塗り薬を湿った布できれいに拭いてくれた。

「頬も、赤みと腫れは引いたな」

「あ、ありがとう、ございます」

 美緒は天史郎に頭を下げた。天史郎は目を細め、美緒の頭に手をそっと置いて優しく撫でた。

「ちゃんとお礼を言えて、えらいな」

「わ、わたし、えらい、ですか?」

「ん? ちゃんとお礼を言えるのは、えらいことだろ? 世の中には『ありがとう』すら言わない奴らのほうが多いからな」

 天史郎の言葉に、美緒は大きな瞳からボロボロと涙をこぼした。それにぎょっとする。

「あー。天史郎、こんな小さい子を泣かしたー」

「え⁉ 何か、気に障ること言ったか?」

 冷たい目を向ける雪音に、慌てる天史郎。美緒はフルフルと頭を横に振った。

「えらいって、言われたの、ほめてもらえたの、久しぶりだったから」

 雪音と天史郎は目を合わせる。天史郎は美緒に問いかけた。

「……なぁ美緒、なんでお前、森にいたんだ?」

「……わたし、国語のテストで、満点を取ったから、お母さんにほめてもらおうと、思ったんです。でも、お母さんにうるさいって、たたかれて……。それで、まだ赤ちゃんの妹が起きちゃって……声を上げて泣いちゃいそうだったから、外に出たんです。お母さんたちが大事なのは妹で、わたしはもういらないんだって思って、古い鳥居をくぐって神隠しの森の中に……」

「なんだいそれ。ただの八つ当たりじゃない」

 雪音がそういうが、美緒は仕方なさそうに笑った。

「しょうがないよ。お母さんは赤ちゃんのお世話で大変だから。わたしはお母さんの負担を減らすために、家事をしてた。最初はほめてくれたけど、今はもう……」

 そこまで話して、美緒は自分がどこにいるのか、気になった。

「そういえば、ここって、どこですか? 森の奥にこんな立派な建物があるって聞いたことないし。それに」

 美緒は雪音を見た。雪音は首を傾げながら二本に分かれたしっぽを揺らす。

「ゆーちゃん、猫又だよね?」

「そうよ。あたいは立派な猫又。というか、その『ゆーちゃん』ってあたいのこと?」

「うん。だって、雪音ってきれいでかわいい名前なんでしょ? だからゆーちゃん」

「ははっ。いいじゃないか。ゆーちゃん」

 天史郎が笑うと、ぎろりと雪音が天史郎を睨む。

「じゃあ、天史郎のことは、なんて呼ぶんだい?」

「天史郎さん」

「なんでよ⁉ そこは『天ちゃん』とかじゃないの?」

「だって、大人の人にそんな呼び方したら、失礼だから」

 雪音はすくっと立ち上がり、美緒に右手を突き付ける。

「あのね、猫又になるには、うーんっと長生きをしたからこそ、なれるものなのよ!」

「でも、ゆーちゃんって呼びたい」

「ここは、年上の大人として、折れてやるべきじゃないか? ゆーちゃん?」

「天史郎にだけは呼ばれたくないわよ! 仕方ない。美緒には特別に、許してやるわ」

「ありがとう!」

 雪音は四つ足に戻ると、美緒の側による。美緒はそれが嬉しくて、雪音をむぎゅっと抱きしめた。雪音はもはや虚無の顔をしている。

「美緒、本題に戻ろう。古い鳥居をくぐって、森の中に入ったと言ったな? 美緒が住んでいる町は、神城の町か?」

「あ、はい」

 天史郎の言葉に雪音を放して、うなずく美緒。

「やっぱりそうか」

 天史郎は目元を覆って、深くため息をついた。天史郎の様子に、美緒が困惑して、雪音に視線を向ける。

「おい、天史郎。ちゃんと説明しておやり。美緒が困ってるよ」

「あぁ、すまない。美緒が入った森は本当に『神隠しの森』でな。異世界に通じる森なんだ。全員が全員、神隠しに遭うわけじゃないが、美緒のように異世界に、俺たちの住むこの世界に紛れ込むことがある。俺たちはこっちに来た奴らを、『迷い人』と呼んでいる」

「異世界? 迷い人?」

 天史郎の言葉に、美緒は首を傾げる。天史郎は雪音を指差した。

「雪音は見ての通り、妖怪の猫又。んで、俺は」

 天史郎はそう言葉を切って、背中の黒い翼をバサッと広げた。

「鴉天狗だ。医者を生業としている。昼間は適当に町をぶらついて、患者がいたら症状を聞いて薬を調合するってやり方をいてる。金をもらうこともあれば、物をもらうこともある」

「じゃ、じゃあ、ここは、わたしが今までいた場所とは、違う世界? にいるってこと、ですか?」

「あぁ。外を見たほうが早いな」

 そう言いながら、天史郎は美緒を抱き上げ、部屋を出て廊下を歩き、社の正面まで来ると、真っ赤で立派な鳥居があり、なだらかな坂の下には、時代劇に出てくるような街並みが広がっていた。天史郎は美緒を片腕に乗せながら言った。

「ここは、妖怪と人間が住まう町。大江戸妖怪町だ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る