『直視の魔眼』
「じゅ、準備は良いな?」
花の様な香りが鼻孔を擽る。
アイマスクを付けた俺は、右手に泡立ったタオルを持ち構て、目の前にいるであろう神花にそう訊いた。
「はい。よろしくお願いします」
白い椅子に座った神花は背筋をピンと伸ばしながら俺にそう言う。
目の前の鏡は曇って良く見えない。細い体に巻かれたタオルがほどけて、背中が露わになる。前の方は神花の手で隠されていて見えない。いや見てはいけないのだろうけれど!
「……さ、再度確認するが本当に良いのか?」
「早くして下さい。背中は自分では洗いにくいので……」
「俺以外でも良くない!?」
「私にはそう言うのを頼める人がいません」
淡々とそう言う神花にはまるで羞恥心と言う物が感じていない様に見えた。
こ、この……!
こっちは恥ずかしくて今にでも逃げ出したいのに!
まさかバレたのか!?
俺が『童貞』だという事が!
「は、早くして下さい……寒いです」
その時、ふるふると神花の小さい体が震えているのが分かった。
この汗ばむ時期に、そして既にお風呂が沸いているこの場で寒いという事は考えられない。
……えぇい、覚悟を決めろ天司白夜!
泡だらけのタオルを彼女の背中に押し当てる。
んっと甘い声。少し強かっただろうか。
彼女の顔を見ながら少しずつ力を変えていく。
「……随分と手馴れていますね」
「まぁ、妹ので慣れてるからな」
あまり彼女の方を見ない様にしながら、肩から下に掛けてタオルを擦る。
家の風呂は狭いから少し気を付けなければならないけど、ここなら俺も腰を落とせる。お風呂は足が届くくらい広くて、壁の方には小さいテレビが備え付けられている。小型のリモコンで電源を付けても良いのだが、目が見えない彼女にとってはどうでも良い事なのかもしれない。
「妹さんがいるのですか?」
「あぁ、今年で高校生になる。今はアメリカにいるけど今度紹介するよ。少し病弱だけど優しい奴だ。きっと仲良くなれる」
「それは……ありがとうございます。でも――」
神花の目が見開かれる。
その青色の瞳は、直視するのを躊躇う程美しい。
彼女に、瞼を開けるという事はあまり意味のない動作だ。
彼女はその目線を俺がいるであろう場所に向ける。
――あれ、何か冷たくないですか?
「――という事は、天司さんは今年で高校生になる女の子と一緒にお風呂に入っていたという事ですね?」
「確かにそれは間違いのない事実だが言い方が卑怯だ!」
それじゃあまるで俺が変態みたいじゃないか!
どうやら神花は何かとんでもない勘違いをしているらしい。
ほら、今も目線が絶対零度のソレだし。
右隣にある浴槽に溜まっているお湯を掛け流しながら、俺は終わったぞと報告する。
「咲夜は……俺の妹は昔から病気で、他の人の介護が必要な程だったんだ。いつもはお母さんがやっているけど、どうしてもという時は俺がやってた」
「す、すみません……そのような事とは知らなくて……」
「――というか、実では無いとは言え、誰が妹の体に欲情するか! 浴場だけに!」
「…………」
神花の視線が痛かった。
==
「~~~~~♪」
鼻歌なのか、とても綺麗な歌声を背に、俺はほっと溜息を吐いた。
どうやらお風呂は自分で入れるらしい。
本当に焦った……まさか、俺も風呂に入るのかと思った。
まあ、神花もそういう生活には慣れているのだろう。
俺は浮き出た汗と高鳴る心臓を抑えながら、鞄の中から財布を取り出す。
「……疲れた」
どっと疲れが押し寄せる。時刻は午後の八時過ぎ。
俺は部屋から出てホテルのエントランスの方に行く。
本来であれば勉強に戻っている時間なのだが――。
『今日は一晩中琴音ちゃんの所に行ってくれ。いつ襲われるかどうかも分からない現状、私お手製のお守りだけでは心許ない。頼むよ』
と、先生がそう律儀に電話してきたので、どうやら俺は今夜このホテルで、しかも神花と共に過ごすらしい。
「良いんですか? 幽霊とか呪いじゃなくても、俺が襲っちゃいますよ?」
『あはは、君がそんな事しないってのは分かってるよ』
それは信頼しているからでいいのか、はたまた俺がそんな度胸が無い童貞野郎って事を言いたいのか……個人的には前者だと思いたいのだが。
まあ、俺としてもそんな気は更々ない。少なくとも神花は俺を信頼している。ならば、それを応えなければならない。
「それで、どうですか? 通じましたか?」
『あぁ、うん……一応はね? 許可は取ったから、明日の朝迎えに行くよ』
「了解です」
『彼女は?』
「今お風呂に入ってますよ。自分は腹減っているんで適当に買って部屋で食べようかと」
左手に掲げているレジ袋の中身は弁当やら総菜パンやらがごろごろある。
神花の分も入っている。見た限りだと、昼から何も食べて無さそうだし。
一応、女の子だからな。パスタも買って来た。
あと喜ぶかはどうか分からないけど、スイーツ品も一応。
「先生」
『ん?』
俺はずっと思っていた事を先生に話した。
「神花の魔眼――あれは、何の呪い何ですか?」
そもそも魔眼は希少な為、俺も魔眼保有者は滅多に遭わない。
その中でも、神花の魔眼は一線を画すかの様に歪だった。
見るだけの魔眼なんて、聞いた事も無い。
『――直視』
「はい?」
『アレは、幽世を見る能力しかない魔眼だ。だけど、いやだからこそ、見る能力だけだったら、彼女の魔眼は最高峰に位置する。恐らくだけど、彼女の眼なら『神様』だって見えるかもしれない』
先生の言葉に、俺は落ちかけたレジ袋を持ち直す。
エントランスにあるソファの上に座りながら、先生の話を黙って聞く。
『だから直視。命名するなら――『直視の魔眼』の方が、通りは良いだろう』
俺の脳裏に、ナイフを持った赤い外套を着た着物女の姿が掠った。
恐らく、いや絶対に違うだろう。
「……本当に神花の魔眼の呪い、解除出来るんですか?」
『いや、少し事情が変わってね――君がやってくれないか?』
その時、先生は少し申し訳なさそうにそう言った。
「い、いやいや……俺の右手にそこまで期待されても困りますよ」
『君の右手が呪術にも通用するのは、あの一件で既に分かってる。それに、少し厄介な事になっていてね……恐らく、私の方法だと彼女を危険に晒すかもしれない』
「厄介な事……? 何かあったんですか?」
『君が心配する事は無いよ。長いから
「……信じてますよ」
『存分に信用してくれ。私は君の先生なのだからね』
先生との連絡が終わったその後、俺は事情を知っているのか、ホテルの受付嬢から部屋のカードを貰った。ちなみにそこで俺は初めて自分がカードキーを貰ってない事に気づいた。
チンと音が鳴って部屋がある階層に辿り着いた。
廊下には誰もいない。
ここの廊下、マジで長いな……と思いながら練り歩いていると、神花の部屋辺りから、僅かに悲鳴が聞こえてきた。位置的に、彼女の悲鳴だろう。
「――神花っ!」
右手の聖骸布を解く。クソ……甘かった、先生のお守りと簡単な結界では役に立たなかったか!
扉を勢いよく開けた俺は、急いで彼女の元へ走る。
だけど、おかしいな……もしここに幽霊などがいれば、俺の右手が反応するんだけど……。
「あ、天司さん……」
「神花! 大丈夫か……って、あれ?」
悲鳴の場所は風呂場の方だった。
俺は扉を開けて前に出る。しかし、そこに幽霊などはおらず、花のいい匂いだけが漂っていた。俺が彼女を風呂場に連れて行ったのと、なんら変わらない現状。
ただ唯一違うのは、壁に備え付けられていたテレビが起動しているところだろう。
最近人気になっているバラエティー番組で、外に聞こえちゃうんじゃないかってぐらいにうるさい。
「もしかして……これにビックリして?」
彼女は小さくこくこくと頷くと、自分の今の姿に気づいたのだろう、背を向けて言った。
「は、早く出て行ってください!」
「あ、あぁ……」
彼女の権幕に驚いて俺は急いで風呂場の扉を閉めて離れる。
その後、テレビの音が消えた。なんだ、自分で出来るのか。
少しだけ過保護過ぎたか……? 先ほどの情景が頭を過る。
火照った体、亜麻色の髪が水面に漂って、花のいい匂いが……。
「バカバカバカ……! 俺はアイツを助けるんだろ! しっかりしろ神司白夜!」
頬をぺちぺち叩きながら、俺は取り合えず神花が出てきたら謝ろうと、そう思いながら取り合えず結界をもう一段階強力なものに仕立て上げた。
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