第6話 予期せぬ訪問者

 王太子殿下のお忍び訪問から五日が過ぎて、アイリスは何事もなかったかのように穏やかな日常を送っていた。


(あの日の事は夢だったのよ。王太子殿下なんて来ていないし、ましてや、口付けなどもしなかった。あれは全て夢よ。)


 そう思い込んで、アイリスはいつもと変わらず過ごしていたのだ。


 平穏な暮らしに勝るものなどないと、アイリスは心より思っているので、あの様なイレギュラーな出来事はもう二度と関わり合いたくなかったのだが、しかし、そんなアイリスの思いを無視するかの様に、日課である月影の森の見守りを終えて家に帰ると、穏やかな日常を一変させてしまう使者がアイリスの帰りを待っていたのだった。



「あぁ、アイリス!やっと帰ってきた。大変な方がお前をお待ちなんだよ……」


 帰宅したアイリスを見るや否や、酷く狼狽えて顔色の悪い伯爵は娘をギュッと抱きしめると、深いため息を吐いたので、アイリスは驚いて思わず父親を押し退けてしまった。


「何ですかお父様。そんな我が家の一大事みたいに取り乱して……」

「我が家の一大事なんだよ!あぁ……兎に角、急いで一緒に来なさい。」


 そう言って慌てふためく伯爵に、アイリスは訳もわからずついて行ったが、彼がコンコンと応接室のドアをノックをして「失礼します」と声をかけてから入室するのを見ると、中で待っている人物は伯爵よりも身分が上の人なのだろうと推察したのだった。


(……なんだろう、物凄く嫌な予感がするわ……)


 そして、アイリスのその予感は的中してしまった。


 ゆっくりとドアを開いて中に入ると、そこに居たのはディヴラン公爵家の嫡男であり、王太子殿下の側近でもあり、そして数日前に森を訪れた三人組の内のブレインである、ルカス・ディヴランの姿だったのだ。


 彼は今日は仮面ではなく眼鏡をかけた素顔を晒していて、正式にルカス・ディヴランとして、サーフェス家を訪問して来たのだ。これにはアイリスも戸惑うしか無かった。


「ルカス・ディヴラン様?一体我が家に何の用で……

ま、まさか、我が家に送った寄付金をやはり返せと言うんじゃないですよね?!」


 その可能性にハッと気付いてアイリスは青ざめた。既に寄付金の大半は既に備蓄の購入や、領地の整備に使ってしまっているから返すお金など残ってないのだ。


「いいえ、そうではありません。それよりむしろ、追加で融資したいくらいです。アイリス様のお返事次第では。」

「私の返事次第……?一体どういうことでしょうか?」


 アイリスは嫌な予感しか無かったが、聞き返さない訳にはいかなかった。


 するとルカスは、アイリスではなく父親である伯爵の方に向き合うと、真剣な表情で耳を疑うような事を言ったのだった。


「サーフェス伯爵、アイリス様を暫くの間王城へ行儀見習いとして登城させて貰えないだろうか。出来れば、今すぐに。」


 あまりの言葉に、サーフェス父娘はその場で固まった。貴族の娘が王城へ行儀見習いに登城するなどといったら、表向きは花嫁修行であるが、その実態は城勤の高官や騎士に見染められる事を期待しての婚活行為の一つなのだ。


 城勤の行儀見習いになりたい令嬢は沢山いるのだが、実際に勤めるとこが出来るのは選ばれたほんの僅かな令嬢だけなので、このルカスからの申し入れを羨ましく思う令嬢はきっといっぱいいるだろう。

 けれども、アイリスもその父親も、そのような事は望んでいなかった。王城へなど行きたくないのだ。


 しかし、いくら嫌だと思ってもこれは王太子の側近である高位貴族からの言葉である。田舎の貧乏伯爵家に、拒否する事など出来ない話だった。


「まっ、待ってください、何故我が娘なのですか?!我が娘アイリスは、あまり社交は好まず、領地で静かに過ごすことを好む娘です。王城などという華やかな場所は、娘には合わないと思います。」


 先に正気を取り戻した伯爵が必死になって娘のアイリスを庇った。横で当の本人であるアイリスも、コクコクと力一杯首を縦に振って父親の言葉を肯定している。例え拒否できなくても、嫌だという意思表示だけはしておきたかったのだ。


 しかし、ルカスはそんな親子の様子に心を揺り動かされる訳もなく、自身の職務をただ全うしようと、無慈悲にも話を続けたのだった。


「先日、王太子殿下がお忍びでこの森にやってきた時にアイリス様の事を気に入ったそうで、どうしても側に置きたいとご所望なのですよ。貴方たちも貴族ならばこれが断れない事なのは分かるでしょう?」


 ルカスの言う通り、王族からの命令を一介の田舎伯爵が断るなんて事は出来るはずが無かった。それを明確に言葉にして伝えてきたと言う事は暗にサーフェス親子に拒否権は無いと言っているのだ。


「あぁっ!!やはりアイリスは見染められていたのではないか!」


 ルカスの言葉に伯爵はガックリと項垂れると、頭を抱えたまま黙ってしまい、アイリスも思いもよらない展開に、ただ呆然と目の前のルカスを見つめて、何も言うことが出来なかった。


 そんな様子の親子を前にして、なおもルカスは平然とした顔で話を続ける。


「どうでしょう?アイリス様がこのまま私と一緒に登城してくれるのであれば、この前と同じだけの額を追加でサーフェス領へ寄付いたしましょう。けれども断ると言うのならば、この前の寄付金は無かったことにして、耳を揃えて全額返金して貰います。」

「そんな!話が違いますわ!!」


 余りの横暴さに、流石にアイリスは声を上げた。


 森での事を他言しない代わりに寄付金を納めるという約束だったのに、それを覆されては溜まったものじゃない。キッとルカスを睨むも、彼は涼しい顔で紅茶を飲んでいるだけで、アイリスからの視線を気にする様子は全くなかった。


「……王太子殿下は、我が娘を将来の伴侶として望まれている……つまりはそう言うことなんでしょうか……?」


 死にそうな顔の伯爵が、やっとのこと声を絞り出して、恐る恐るルカスに訊ねた。娘を溺愛している彼にとって、この急な話は到底受け入れられる話ではないのだ。


「いいえ、それは無いです。」


 しかし、予想に反して伯爵の問いにルカスはそれは違うと即答したのだった。

 きっぱりと否定された事にホッとしたのものの「それではどうして行儀見習いに……」と伯爵は余計に困惑してしまったが、その伯爵の疑問には答えずに、ルカスは更に話を進めた。


「兎に角、一ヶ月間殿下のお側に控えてくれればそれで良いのです。一ヶ月したら家に返しますのでご安心ください。」

「そ……それは一体……どう言う意味ですか……?」

「そのままの意味ですよ。一ヶ月間だけでいいんです。一ヶ月間アイリス様が殿下に側仕えするだけで、この前と同じ額の寄付金が手に入るんです。悪い話ではないでしょう?」


 確かに、ルカスが提示した条件だけを見れば、悪い話ではないように思えた。だが、それでも未婚で婚約者もいない娘を王城へ行儀見習いに行かせるというのはやはり気が引ける話であった。


「し、しかしそれでは、我が娘は王太子殿下のお気に入りとして登城までしたのに、一ヶ月でお役御免となっては、様々な憶測を呼び、娘が周囲におかしな誤解をされてしまいます。そんな事になるなら、娘をお預け出来ません。」


 そうなのだ。王太子殿下のお気に入りとして登城したのに、何もなくそのまま放免されたとあれば、噂の格好の餌食である。未婚の令嬢にとってはイメージダウンにしかならないのだ。なので父親のこの訴えに、アイリスも全力で同意したのだった。


「ルカス様、父の言う通りです。私が殿下のお側に仕えることは、様々な憶測を呼び周囲に誤解を与えてしまいます。根も葉もない噂は、殿下自身にもマイナスになりませんか?」


 アイリスは、知恵を絞ってルカスの心に響きそうな言葉を選んで訴えかけた。

 今までのルカスの言動から、彼が何より王太子殿下の事を第一に考えているというのが伺えたので、だからその殿下の立場が悪くなると言う事を匂わせれば、彼も考え直してくれるだろうと期待したのだ。


 しかし、この男はそんなに甘く無かった。


「大丈夫です。誤解は誤解ですし、それ位の噂ならば、殿下は気にする必要はありませんから。」


 こちらへの気遣いは一切なく、ルカスは平然とそう言ってのけたのだ。


(私が、全然大丈夫じゃないんですけどねっ!!!)


 アイリスは思わず顔が引き攣りそうになったのを堪えて、何とか笑顔を取り繕って心の中でそう叫んだのだった。

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