第5話 口付けの対価

「おぉ、アイリス。殿下は何事もなくお帰りになられたのか?」


 アイリスが王太子殿下一向を見送って家に帰ると、娘の帰りを心配して待っていた伯爵に、開口一番にそう問われたのだった。


「はい、お父様。……って、お父様は事前にいらっしゃるのが王太子殿下だと聞いていたのですね。」

「あぁ。流石に聞いていたよ……。誰にも言うなとお達しだったから、お前にも伝えなかったのだが……。それで、殿下はお前に身元を明かしたのか?」

「えぇ……まぁ……アクシデントで……。で、ですが明日には綺麗さっぱり忘れますわ!そう言う約束をしたので!」


 アイリスは慌ててそう答えた。そう、あの森での出来事は覚えていてはいけないのだ。何もかも。そういう約束をしたのだから。


「そ……そうか、やはり殿下はお前に身分を明かしたのたか……」


 しかし、娘からその話を聞いた伯爵はたちまち暗い表情になり、何故か気落ちしたような声で頭を抱えながらそう呟いたのだった。


「……お父様……?」


 そんな父親の様子があまりにもいつもと違っていたので、アイリスが心配になって声をかけると、伯爵はハッと顔を上げて目の前の娘に深刻な顔でよく分からない事を問いかけたのだった。


「それで、殿下は何て言っていた?お前に登城するようにでも言ったのか?」

「……なんの話でしょうか?」

「何って……レナード殿下は月影の森を見たいなどと言う見えすいた口実で、お前に会いに来たのだろう?あぁ……。お前は殆ど社交の場にも出ていないのに、一体どこで見染められたというのだ……」


 父親の爆弾発言に、アイリスは思わず言葉を失った。そして、彼の頭の中ではそんな風に考えていたのかと理解すると、呆れながらも直ぐに父親の思い込みを訂正したのだった。


「……お父様は何か物凄い勘違いをしておりますわ。レナード殿下は純粋に、地方視察の一環で月影の森を見にいらっしゃったのですよ?」


 レナード王太子殿下が王都と地方との格差を無くそうと若干まだ17歳ながら自ら地方を巡って各地を視察して、この問題に本気で取り組んでいる事は有名な話であったので、こう説明すれば父も納得してくれるとアイリスは思っていたのだが、しかし伯爵の頭の中はそう単純ではなかった。


「そんな訳あるか!月影の森のような、ただ草木が多い繁ってる鬱蒼とした森に一体何を見に来たと言うのだ?そんなものは口実で、実際はお前に会いに来たに決まっている。だってお前はこんなに可憐で美しいんだ。知らない間に何処かで姿を見られて、きっと気に入られたんだ。オーレーン男爵ならばこちらの方が爵位が上だから断れるものの、王太子殿下では断る事も出来ないではないか……」


 伯爵はそう言って頭を抱えてこちらの話を全く聞かなかったのだ。

 アイリスは思い込みもここまで酷いのかと若干面倒くさくなって、はぁと一つ溜息をつくと、ニッコリと笑って有無を言わさない強い口調で、父親を黙らせたのだった。


「兎に角、王太子殿下はここを訪れてなどいません。良いですねお父様?他言無用と念押しされているのですからね?」


 笑ってはいるけれどもその目は全く笑っていないアイリスの微笑みに伯爵は気圧されて、うんうんと頷くと、この話はここで強制的に終了となった。



***



「アイリス、お前は本当に一体何をやったんだ?!」


 王太子殿下のお忍び訪問から数日後、サーフェス領に突然届けられた多額の寄付金を前に、伯爵は狼狽えて娘であるアイリスを呼び付けていた。


 自分にはこんな額の寄付金をもらう覚えはないから、その理由があるとしたらきっと娘のアイリスだろうと考えたのだ。そして事実、伯爵のその読みは正しかった。これはアイリスが交渉で手に入れた対価だった。


「まぁ、本当にこんなに多額の寄付を寄越してくださったのですね!」


 父親に呼ばれて姿を見せたアイリスは、ブレインことルカスが約束を守ってくれた事に安堵し、そして予想よりも遥かに多い寄付金の額に目を輝かせた。これだけのお金があれば、当面の統治資金に困らないのだ。


「お父様、殿下の御心です。有り難く領地運営に使わさせていただきましょう!!」


 事態が飲み込めず戸惑っている父親に、アイリスはキラキラした笑顔でそう進言した。自分のファーストキスを差し出して得た対価である。有り難く使わせて貰って何の問題もないのだ。


「しかしだな……、何故殿下が我が領にこんな高額な寄付をして下さるのか全く分からないのだ。やはり、殿下はお前のことを見染めていて、これは支度金ということなのではないだろうか……」

「お父様考えすぎです。こちらの寄付金は、森を訪れた事を黙っている口止め料と、私のした労働への対価ですわ。」

「労働の対価って……森を案内しただけでこんなに高額にはならないだろう?お前は本当に何をやったんだ……?」

「そうですわね……」


 ここでアイリスは言葉を止めて、少し考える素振りを見せた。そして自分がした事を一言で表すとなると一体何と言えば良いのだろうかと適切な言葉を探した。


「……私がしたことは、……社会貢献……ですかね?」


 過疎化が進む領地を治めている地方領主達は、レナード殿下の地方を疎かにしない政策に大いに期待していた。そしてそれは、年々進む過疎化に頭を悩ませているサーフェス領にとっても同じで、領地を救うかもしれない殿下の政策に、アイリスも密かに期待していたのだ。


 そしてそんな地方領主達の救世主になるかもしれない王太子殿下の呪いをアイリスは身を呈して解呪したのだから、これはもう、立派な社会貢献と言えるだろうとアイリスは結論付けたのだった。


「お父様、私は間違いなくこの国の為になる事をしたと思います。それに対して、殿下がこのような高額な寄付を払うに値すると、私の働きを評価してくださったのです。有り難く使わさせていただきましょう。」


 その説明でもまだ腑に落ちないといった顔をしている父親に、アイリスはにっこりと微笑んでみせた。


「さぁ、お父様。先ずは雨季が来る前に、このお金で堤防を補修をしましょう。私たちはこの地で暮らす人々を守らないといけないのですから。さぁ、まごついている時間なんてありませんよ、すぐに見積もりと工員の確保に取り掛かって下さい。」


 そう言って、アイリスは笑顔のまま父親を執務室へ送り出したのだった。


 これ以上父親とここに居たら、アイリスがした労働というのが何なのか、具体的な事を聞かれてしまうのではないかと思ったからだ。


(まさかお父様に、王太子殿下に口付けしただなんて言えないしね……)


 あの森での出来事は何も無かったのだ。


 そう自分に言い聞かせて、アイリスは自分の胸の中の感情にそっと触れた。


 寝ている王太子に勝手に口付けをした罪悪感と、それを咎められるかもしれない恐れ。それから、王子様に口付けをした時のドキドキした気持ち……


 色々な感情に心を揺さぶられていたが、これらの気持ちはきっと、徐々に小さくなっていって、いずれ本当に忘れてしまうだろう。


 サーフェスの地を守って平穏に暮らして生きたいアイリスは、王太子との口付けの記憶を忘れて、心がザワザワしなくなるその日が、なるだけ早く来ればいいなと切実に願ったのだった。

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