ギャスパル・ランドウォーカーと傲慢の獣




 そこは何処かからか艶かしい女の声が聞こえる薄暗い一室だった。

 たった一つの角灯が部屋を照らすのだが、光量が絞られ余計に薄暗さを感じる。部屋を満たす甘い香りは大きく息を吸うとむせ返ってしまいそうだ。きっと香を炊いた後なのだろう。しかし甘さの中にえた匂いが見え隠れする。むせ返るのは、むしろこちらが原因なのかもしれない。

 部屋の四分の一ほどもある寝台は大人が二人ゆうに寝転がれるほどで、純白の絹の敷布で整えられていた。


 フェアルキアの水・十四節——貿易都市セントバ・色街。


 寝台に横たわったのはシーツに身を包んだ栗毛の女と全裸の恰幅の良い中年男だ。女は膝を丸め肩を震わせ壁際へ身を寄せている。男の方はと云えば大の字になり目を見開くと天井を凝視した。その目は恐怖に歪んでいるように見えるが、ただの一言も発しない。よく見れば純白の敷布を真っ赤に染め上げ絶命をしているのだ。その横で女は、か細い声で「助けて兄さん、助けて兄さん」と気狂いのように連呼した。


 ギャスパル・ランドウォーカーはその光景を見下ろしていた。

 そして寝台に腰を下ろすと、その光景へ目を向けるわけではなく寝台の外へ顔をゆっくりと向けた。床には痩せこけた男が寝転んでいた。それを一瞥し何度か器用に短剣をくるりと回す。無言の時間が流れた。男は何度か起きあがろうとするのだが、ギャスパルの脚に阻まれ再び無様に背を床にした。ギャスパルはその無様な男を鋭く睨み静かに口を開いた。


「ガストン。明日の晩までは客を取らせねえって約束だったよな。一体全体、これはどういうことなんだ。納得のいく説明はできるんだろうな」

 ガストンと呼ばれた男は身体を起こすと「ああ」と顎をさすり、ギャスパルに目をやった。鋭い目だ。恐らくギャスパルと同業か、それに似た生業の者なのだろう。


「クロンデイルはお前の妹が形に取られたってのを何処かで聞きつけてな。そりゃあ法外な金で買うってやって来たんだ。いいかギャスパル、この一晩の稼ぎでお前の借金は帳消しだったんだぜ? ソフィもお前もそれで自由だったんだ。ソフィもそれを承知した。何もむげに娼館に放り込んだんじゃねえんだ」

 ギャスパルは細男のどこか嘲笑めいた口調に片眉をあげ、目にも留まらぬ早さで細男に馬乗りになった。そして胸ぐらを掴み、顔を引き寄せると「んなこたあ聞いてねえんだ」と短剣を口に押し込んだ。

「約束は約束だろ。俺達はが商売の種。そうだろう? お前ら人買いは違うとでもいうのか? そうじゃないだろガストン。俺はお前を信じていたぜ。でもお前はどうだ。クロンデイルの話をソフィにするのは明日の晩でも良かっただろ」


 短剣を押し込まれたガストンは「んー、んー」とギャスパルの腕を叩き、今にも喉奥に切っ先が届きそうなのを勘弁してくれと訴えた。しかし自分の腕を叩く手に目を落とした元大盗賊は「駄目だなガストン。納得がいかねえ」と人買いの目と鼻の先で小さく囁いたのだ。



 妹のソフィは同じ腹から産まれた妹だと思えないほどに美しかった。

 腹違いなのかと云えばそうではない。こそこそと娼婦の真似事をした母親はろくに家に戻らない父親をよそに、堂々と家で客を取っていたのだから種が違うということはあるのだろう。だがしかし、そんなことはギャスパルにとってはどうでも良かった。兎に角ソフィが産まれる場を目の当たりにした。家に居ない父親、相変わらず家で客を取る母親、その代わりに妹の世話をした。ギャスパルにとって腕に抱いた小さな命は、かけがえのないに想えたのだ。

 ある日、父親がどこぞの戦場で命を落としたと傭兵仲間が遺品を届けに来た。母親はそれを受け取ると気が狂ったように泣き叫び、その日の夜には姿をくらましてしまう。客のところへ転がり込んだのか、どこぞで野垂れ死にしたのかはわからない。

 それからは住む家もなくしセントバの裏路地へ身を隠した。生きる為になんでもした。盗みも殺しもなんでもだ。


 そして言い訳をした。

 手を汚すのはソフィの為だと。だからこれは許されるのだと。


 そのうちに口利きもあり郊外の空き家を借りることができた。

 しばらくは真っ当な生活が送ることができた。しかしだ、根を下ろせばなんとやら。報復のため家を襲撃されることも、ソフィを狙った人攫いが彷徨うろつくこともあった。だからギャスパルは近所のゴロツキを掻き集め徒党を組んだ。遂には大盗賊とまで謳われるようになり、そして、堕ちた。


 やはり言い訳をした。

 これはソフィの為だったから仕方がないと。

 


「なあガストン。俺はさソフィをどうしてやれば良かったんだろうな。結局こんなにボロボロになっちまってよ。見ろよ。あの変態野郎、ソフィの爪を剥いでいやがる。悲鳴を聞きながら竿をおったてて捻じ込んだんだ....イカれてるぜ。ところでだ、ガストン。約束の金は準備したんだぜ。借りは借りだお前に渡しておくぜ」


 ゆっくりと生暖かい感触が手をつたい流れてゆく。

 身体を痙攣させたガストンの口からゆっくりと短剣を抜いたギャスパルは、腰袋から割と大きめな皮袋を取り出すと、血が溢れ出る口にそれを押し込んだ。そして丁寧にガストンの後頭部を抱えゆっくりと寝かし「ああ、逝く前に相談すりゃ良かったな。悪かったな」と唾を吐きかけた。


「兄さん...兄さん...」

 どのあたりから、それを見ていたのだろうか。

 シーツに包まり震えたソフィがいつの間にか身体を起こしギャスパルを見つめていたのだ。そして、小さく震えた声で兄の名を呼ぶのだが、大の字に寝転がり血を流したクロンデイルの骸に気が付くと「ヒッ!」と壁際で身体を丸めてしまった。

「ソフィ。大丈夫か俺だ。わかるか?」

 ギャスパルはクロンデイルの骸を力任せに引っ張り、寝台から引きずり落とすとソフィの頬へ手を触れようとした。

 暗がりだからなのか、それともすっかり痣だらけにした顔を触れられるのを拒んだのかソフィは兄の手を打ち払い「来ないで!」と叫んだのだ。身体を大きく震わせたのは傷だらけの裸体を晒したからというわけではなく、混乱しことごとく恐怖に心を支配されたからだ。その手が触れれば再び恐怖が降りかかる。苦痛が舞い降りてくる。そんな風に感じたのだ。


「ソフィ。大丈夫だ。もう大丈夫だ。俺だギャスだ。ここはもうやばい、逃げよう」

 できるだけ。

 知りうる限り優しく。

 ギャスパルは声をかけ手を差し伸べた。血に塗れた手を伸ばし、傷だらけのか細く白い手を取ろうとした。それは滑稽に映っただろう。何も大丈夫ではない。大丈夫な手はきっと血に塗れてはいないのだ。

 ソフィは差し出された血塗れへ打ち震えた茶色の瞳を落とした。そして口を震わせカチカチと歯を鳴らすと「触らないで」と行く先のない壁へ背を押し付けたのだ。


「ソフィ。手を取ってくれ。もう何も起きやしない。二人でどこか遠くへ行こう。やり直すんだ。俺はもう足を洗うぜ。金ならしこたま残してある。だから——」

 ソフィはギャスパルの悲嘆に暮れた言葉で、気を取り直したのか顔をあげ「に、兄さん? ギャスパル兄さん?」と、兄の手を取ろうとゆっくりと手を伸ばしたのだ。五指の爪の半分は剥がされ、やはり血に塗れた手がギャスパルの手に触れようとした。

 確かにその動きは緩慢であった。それは仕方の無いことだ。だが、動きが全く止まってしまう道理はないはずだった。しかしその動きは止まった。ソフィは蝋人形のようにその場に固まったのだ。

 角灯の中で揺らいだ小さな炎も止まった。つい先程まで聞こえた商売女の喘ぎ声も止まった。何もかもが止まったのだ。


 ギャスパルはソフィに向けた優しい眼差しをしまいこみ、静かに鋭く研ぎ澄まされたあの眼光を取り出した。人の心を見透かし裏から静かに突き刺すような眼。それがもたらすものは心を読むといった類の業ではない。何処か客観的で、幾つもの心の型を人に当てはめ捕らえるのだ。ギャスパルはそうやって、まるで預言者のように振る舞い人を堕とす。時には甘い言葉で、時には辛辣な言葉で、時には鼓舞するような力強い言葉で、人が求める言葉を吐き掌握する。


「おい。いつからそこに突っ立ていやがる」

「ギャスパル・ランドウォーカー。宝を運ぶ者よ。良い勘をしているな。して、いつからとな? そうだな。少なくともお前の父が命を落とした日のことは覚えておるよ」

 しゃがれた忌々しい声がギャスパルの声に応えた。

 背筋を撫で上げるような気味の悪い声だ。そしてそれはギャスパルの真後ろから聞こえたのだ。そうそうこの大盗賊が背後を取られることはない。考えられることは一つ。そこに忽然と姿を現したということだ。であれば背後に立つの者は魔を操る者カニングフォークである。魔導師か魔術師のいずれかだ。

「親父のことを知っているってことは、親父の傭兵仲間ってことか?」

「いいや、違うな。違うぞランドウォーカー。儂をそのような瑣末な括りで測っておると痛い目にあうぞ。儂の名はアイザック・バーグ。白銀の主の獣だ」

 気がつけば、しゃがれ声は耳元で囁かれギャスパルは思わず寝台から飛び降りた。見ればそこには純白の外套に身を包んだ男が佇み、目深に被ったフードから怪しげな赤黒い蛇目を覗かせた。狂おしく輝く赤黒は周囲の刻は止まっているようであるのに、爛々と揺らめいた。

 ギャスパルはそれに戦慄し、ゆらりと短剣を逆手に構える。

 戦慄。純白の男からひしひしと伝わる気魄きはくとでも云うのか、気の弱い者であれば、きっとその場へ平伏をしてしまうだろう。そして隙はなく手を出せば、何かしらかの方法で屠られる。アイザックと名乗った男はその様子に満足をしたのか「そう構えるな盗賊」と、カサカサと笑った。

「どうだランドウォーカー。お前は妹へやり直そうと云ったな。本当にやり直せるとでも思っているのか? これだけ最愛の妹へ心の傷を負わせたにも関わらず、あまつさえ綺麗さっぱりと? 本気か?」

 アイザックは両の五指の腹を合わせ忙しなく動かすと楽しげに部屋を歩き回った。転げたガストンの骸を蹴飛ばし、次にはクロンデイルの骸を軽々しく持ち上げると部屋の壁へ投げ飛ばした。そしてカサカサとやはり笑い声をあげた。


「こいつらの命を奪ったところで、お前の妹の記憶は消えないというのにか? それに。お前はお前の存在意義を確かめるため妹をその供物に捧げた。この娘の人生をお前の存在意義のために縛ったのだろ? 妹のために手を汚した? 妹のために人を騙しても良かったのか? 妹のために身を粉にしたのだから傍で微笑んでいろというのか? ——」

 アイザックの言葉が終わると部屋中に鈍い金属音が轟いた。

 すっかり形相を変えたギャスパルは豹の速さで床を蹴りアイザックに襲いかかった。しかしその一刀は、いつの間にかアイザックの手にあった黒鋼の剣にいなされたのだ。右に動いたギャスパルは逆手の短剣ごと身体を捻りこみアイザックの腹を目がけ次の一刀を放つ。だがそれも見事にいなされた。

 そこからは、人の業がここまで昇華されるものであるのかと目を見張る神速の中で二人は刃を撃ち合ったのだ。生まれる火花と鳴り響く斬撃の音だけが部屋を支配した。火花は刃の軌跡を追いかけ斬撃音はその光景の裏拍子を担った。


「人の業でこの高みに至ったか。なんたる傲慢。その神速で神に手を伸ばそうとでも云うのか、この盗賊風情が」

 アイザックの表情は相変わらずであったが、ギャスパルはそろそろ体力の限界、いや四肢の持久力に限界を覚え苦悶した。そしてアイザックの言葉が終わるやいなや、脇腹に強烈な打撃をもらった大盗賊は身体をくの字に折り壁へ激突をしたのだった。

 アイザックは壁にもたれたギャスパルの眼前へゆらりと立つと黒鋼を振り上げ、右太腿へ突き立てた。ギャスパルの苦痛の叫びが挙がる。アイザックはそれに「おうおう。よく鳴く猿だな」と突き立てた黒鋼を捻り「これで少しは音程が変わるのか? どうだ?」と鋭く見下ろした。


 更に苦痛の叫びが響いた。しかしそれを聞き届けるのは一人だけだ。


「ランドウォーカー」

 アイザックは外套の裾を払いしゃがみこむと、苦悶に歪めたギャスパルの顔を骨張った指で持ち上げた。

「その傲慢に免じてお前の命は救ってやろう。これで貸し一つだ。だが儂も傲慢ゆえにその貸しは瑣末なものだと見栄を張りたくもなる。これで儂とお前は友だ。ん? 違うか? そうだろう価値を同じくする友だ。それでだ、友であるお前に一つ有益な情報を与えてやろう。お前の妹の記憶を帳消しにするアーティファクトが存在する。だがな、それは強欲な屍鬼の王レイスキングの手中にあるのだ」

 太腿に走る激痛へ顔を歪めたギャスパルはアイザックが滔々語る言葉のほとんどが頭に入って来てはいなかった。しかしアイザックが口にした「記憶を帳消しにするアーティファクト」が耳に入ると片目をあけ「どうしろって云うんだ」と声を震わせた。

 アイザックの云うことが本当なのであれば、妹の心の傷をなかったことに出来るやもしれない。だがそれが疑わしいことだと云うことも胸中理解をしている。それでもこのまま話を流してしまえば十中八九、ギャスパルは命を奪われるだろう。妹も同じだ。


「嗚呼、友よ。信じてくれるか。ならば儂からの頼みは一つだ。サタナキア砦に向かい、アーティファクトはお前の手中に収め妹を救ってやってくれ。ああ、そうだ。サタナキアに屍鬼の王レイスキングの姿はある。なあに心配する必要はない。お前の他に四名の英雄がサタナキアへ向かう。それに合流するが良い。それで頼みというのはここからだ——」


 アイザックはカサカサと再び笑うとギャスパルの耳元へ顔を寄せ何かを囁いた。

 それにギャスパルは「わかった」と短く答えると「ソフィはどうなる?」とアイザックに訊ねた。眼前の男を丸々と信用をしたわけではない。しかし、いずれにせよソフィの安全は確保しなければならない。ギャスパルは未だ寝台の上で手を伸ばしたままのソフィに目をやった。


「心配するな友よ。儂が安全なところへ匿ってやる」

 アイザックは両の五指を合わせ、またぞろ忙しなく動かすと「心配ならば共にメルクルス教会向かうぞ。そこでお前の妹を匿うゆえにな」と不気味な笑みを浮かべた。



 

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