アラン・フォスターは堕ちた




 フォラリシアの土・四節——エドラス村近郊。


「先輩ー! クロエー! 待ってくださいー!」

 キシリア・アズポートは前を走る二人よりも幾分か小さな身体を上下に揺らし、懸命に馬を駆った。昔からそうなのだが、どうにも鈍臭くそれが馬にも伝播するようで、なかなか云うことをきいてくれない。そんな事情もありキシリアは少しばかり、カミーユとクロエよりも遅れて街道を走った。

 この日は随分と晴れ渡り昨晩の雨が嘘のようだ。

 カミーユ・グスタフは、そこはかとなく開放感を覚え、馬上で大きく背伸びをしてみせた。大きく息を吸い込めば昨晩の雨のせいか、むせ返るような草の青さが胸を満たす。嗚呼、春なのだなとカミーユは少しばかり微笑んだ。


「どうしたのです?」

 馬を並べ走るクロエ・ドラシルはたなびく赤茶の髪を押さえカミーユに訊ねた。乱れる髪を気にすることもないカミーユはそれに答えようと口を開くのだが、絹のようなブロンドは悪戯に小さな口に滑り込んで彼女の口を塞いだ。ぺっぺっとカミーユはそれを吐き出すと「いやね、なんか気持ちいいじゃない? 草の匂い、あたし大好きなんだよね。クロエはそんなことない?」と、やはり途中途中にぺっぺっと挟みながら笑って答えた。

「いえ、私も好きですよ。でもね髪を喰うほどじゃないですね」

 クロエはそう皮肉を云ってみせると鞍袋から麻の紐を取り出し「結いたらどうです?」とカミーユへ手渡した。

「あら、クロエちゃん気が利くわね」

 カミーユはそれを乱暴に受け取ると赤い舌を少しばかり出した。


「クロエー! 先輩ー! 前見てください!」

 受け取った麻の紐でブロンドを一本に結いたカミーユは、未だクロエに顔をむけ何かを云っている。それを後方から見たキシリアは東から駆けてくる漆黒の軍馬の姿に気が付いたのだ。尋常ではない速さでぐんぐんと東の街道を駆ける軍馬に跨るのは、深く黒い外套にフードを目深に被った戦士で背には身の丈程の黒く大きな剣を背負っている。

 このまま行けば街道が交わるところで鉢合わせとなってしまう。得体の知れないその戦士に不安を覚えキシリアは声を挙げたのだ。

「カミーユ。あれを」

 クロエはキシリアの声にハッとすると東に目をやり黒い影を目視した。

「何あれ、真っ黒」

「そうじゃなくて、向こうもこちらに気が付いてますね」

 確かに。キシリアの声が届いたとは思えないが、東を走る騎影はどうもこちらを見ているようだった。その証拠に少しばかり速度を落とし始めたようにも見える。カミーユはそれに「そうみたいだね」と小さく漏らすと、鞍に括りつけた剣の柄に手をかけ「ゆっくり」と小さく云った。

 すると、ようやく追いついたキシリアはそれに「あれは?」と誰に訊ねる訳でもなく溢すと、やはり他の二人と同じく黒の騎影に釘付けとなった。


 カミーユ達よりも先に街道の十字路に差し掛かった黒の戦士は、やはりカミーユ達に気が付いているようで、妙に速度を落とした三人に顔を向けると何度か馬を回頭させ様子を伺った。遠くからでもそうだとわかるほど、フードから覗く顔は憔悴しょうすいし切っている。おそらく寝ずで馬を走らせたのだろと推測できた。その証拠に軍馬も幾分か足取りが鈍く、鼻面の先の口角には白い泡が固まっていた。きっと馬の方も体力の限界が近いのだろう。

 カミーユ達もそれを見るや否や馬の脚を止め暫く様子を伺った。

 何度か回頭をする黒馬。騎乗の黒の戦士。黒の大剣。フードから覗いた黒瞳。その全ての黒が不吉に思える。


 風が強く吹いた。

 カミーユは一本に結いたブロンドが揺れるのも気にせず、その黒を見据えた。向こうもそうだ。それはどうだろう、暫くの間だったのか僅かな刻だったのか判らない。クロエとキシリアは突然に訪れた緊迫に固唾を飲んだ。

 しかし緊迫したその空気は気がつけば、黒馬が何度か回頭した後に南に向かい再び走り出すと雪溶けのように消え去ったのだ。


「アラン・フォスター」クロエが何かの名前を呟いた。

「え? クロエ知っているの?」カミーユが目を丸くしクロエに訊ねた。

「はい。あの姿にあの黒鋼の大剣」

「え!? 黒鋼?」驚いたのはキシリアだった。黒鋼と云えばそれだけで幾つもの畑を買うことができる。それをあんなにも大きな剣に鍛えているのだから、その価値は計り知れない。

「そう。黒鋼。あんな代物ぶら下げてるのはアラン・フォスターしかいない。宵闇兵団の団長アラン」

「え? 宵闇兵団って傭兵の? 解散したんじゃないの?」続いて驚きの声を挙げたのはカミーユだった。クロエはそれに「そうです。本国に解体されて半数は国軍に降り、残りは<暁>に流れたのと、在野に下った者が居たと聞いています」と答えた。

「それでアランは?」

「わかりません。でも国軍には流れなかったとは聞いています」



 フェアルキアの水・十五節——貿易都市セントバ目抜き通り。


 アラン・フォスターは昨晩から寝ていなかった。

 相変わらず目眩が酷く足元も覚束ない。昼下がりには目抜き通りに辿り着いたアランは朧げな記憶を頼りに薬師の店へ向かっていたのだ。事情を話し秘薬のこと、娘のこと、これの約束をなんとか取り付けようと思ったのだ。

 そこはかとなく血色の悪い人形のようだったあの薬師へ、この失態を報告するのは、どうも気が進まない。しかし背に腹は変えられない。薬師が腕を望むのならその場で斬り落としたって良い。脚を望むなら秘薬を届けた後、喜んで差し出してやる。アランはそう心に決めていた。


 目抜き通りから一本奥の路地は昼下がりだというのに随分と暗い。

 アランは、薄ら暗い路地をふらふらと歩いた。家屋の壁に手を添えながら覚えのある扉まで必死にだ。確かこの薄ら暗い路地には似合わない真新しい白木の扉だったはずだと、ぐねぐねと視界が歪むなかアランは歩きとうとう、それらしき扉の前に行き当たった。


 バンバンバン!

 何度か扉を荒々しく押しも引きもしたのだが白木の扉はうんともすんとも云わなかった。だからアランは最後にはそれを何度も打ち据えた。幾つか向こう隣の家から「うるせええぞ!」と怒号が飛び、音に寝込みを襲われた野良猫は暗がりに逃げ込んだ。


「くそが....」

 アランは力無く白木の扉を背に座り込んでしまった。

 通り掛かった宿無しが云うには、ここには誰も住んでいないそうなのだ。しかし、アランの記憶はこの扉を鮮明に覚えていた。見紛うはずもない。


 上を見上げれば建物と建物を通した紐にぶら下がった幾つもの衣類や布が春の風に吹かれていた。軽やかに揺れ、その隙間から見え隠れする太陽は随分と硬い光を落としているように思えた。きっとそれはアランが酷く疲れていたから、そう感じたのだ。

「どうなってるんだ。畜生! 畜生!」

 アランは黒髪を掻き乱し、手に取った黒鋼の鱗籠手を向かいの壁に投げつけた。鈍い金属音が反響する。それは酷く虚しく、酷く悲しく、酷く憂いに満ち満ちた音だった。


(だからお前の耳は聴こえんのだな。それであれば心を決めるため、歯車の一つとなるため、家に戻れ)


 アランはあのしゃがれ声を想い出すと目を見開き力の限りに駆け出した。

 転がった鱗籠手を駆け出しざまに拾い、昼下がりの明るさが眩しい目抜き通りへと姿を消したのだ。



 フォラリシアの土・五節 早朝——エドラス村。


 途中に怪しげな女戦士の一行と出会したアランであったが幸いにも向こうはアランを警戒したのか、なにごともなくその場をやり過ごせた。あれが<暁>の戦士であったのならば相手にしなければならなかった。なぜならアランはセントバへ向かう前に一悶着起こしていたからだ。<灯台砦>を急襲すると云った暁の戦士達がエドラスに来ると兵糧の徴収を始めたものだから、それに腹を立てたアランは三人ほどの頸を叩き落としたのだ。

 アランの妻はそれに酷く怒り「もうこんな血生臭いことはやめて」と怒鳴り散らし、そんなことよりも真面目に働いて金を稼げと云った。娘を医者に見せられるだけの金を稼げとそう云ったのだ。

 無論、妻も給仕の勤めに出てはいたが娘の容態もあり、そう長い時間を働けるわけではなかったから稼げる金は雀の涙ほどだ。アランはといえば宵闇兵団が解散となった後は本国からの報奨金を元手に何度か商売を始めてみたものの、とうとう板につかなくセントバの薬師の話を聞くまではゴロツキのような毎日を送っていた。


 早いところ本国で黒鋼の両手剣を売り捌いてしまえば良かったのだ本当は。妻にもそれは望まれていたことだ。しかし、いつの日かこれが必要になる。その時が来て後悔するくらいならば——アランはそんな身勝手な思いで、娘の病が良くなれば後はどうとでもなると、兵団の頃の装備を引っ張り出しセントバに向かったのだ。


 それは甘い考えだった。

 どんな幻に騙されたのか。確かにセントバに薬師は居たし旨い話にも乗れた。しかしそれは、とんだ糞仕事になってしまうとアランの目の前から忽然と姿を消したのだ。そして村に戻ってみれば事態は更に悪くなっていた。


 アランの住まいは村外れの小高い丘の上にあった。

 春にもなれば家の裏には瑠璃唐草ネモフィラが咲き乱れ、元気だった頃の娘はそこを駆けずり回って遊んだものだ。

 日が昇れば朝食の支度をする音に匂いといった平穏な幸せの気配を滲ませたのだ。しかしその気配はもう、そこにはなかった。


 そこにあったのは焼け焦げ崩れ去った廃屋。未だ酸味のある燃え滓の臭いを撒き散らしたそれは一切の命を拒んでいる。


「なんだよこれ——こんなことあってたまるかよ」

 アランはかつての住まいを前に力無く跪いた。

 何度か妻と娘の名前を叫んだが、この様子に返ってくる応えがある筈もなく皺のある声は朝靄の中に消えてなくなったのだった。朝鳥は呑気に煤けた木材で羽を休めチチチと囀ると、蹲ったアランの姿に何度か首を傾げ、そして飛び立った。

 アランは涙を流した。

 嗚咽すら漏らせず胸ぐらを強く握り締め口をだらしなくした。何故こうなったのだ。これも何かの幻想なのか。それであれば自分はいつからその幻想に足を踏み入れた? 妻の反対を押し切り村を飛び出した夜からか? それとも薬師の店をくぐった瞬間からか?


「俺が何をしたって云うんだ....。どこにいっちまったんだ....」

 やっと絞り出した声。それは脳裏をよぎった最悪の事態を掻き消そうとした一言だった。本当は妻も娘も焼け死んでしまったのではないのか。いや、賊に押し入られ命を奪われたのかも知れない。だからせめて連れ去られたのであれば、救いに行くことはできる筈だ。救った後どうであろうともだ。


 ガラガラ....


 焼け落ちた我が家から煤けた何かが遠慮がちにころげ落ちた。

 しかしアランが今顔を上げたのには別の理由があった。

 背後に気配を感じたのだ。いつぞやの夜に感じた薄気味悪い気配。誰も彼にも平伏を要求する傲慢なそれを感じた。


「おい、魔導師。どう云うつもりだ。お前の云った歯車ってのはこのことか?」

「おお。腐っても黒鋼を背負う戦士、儂を取るか」

「今、訊いているのは俺だ。答えろよ魔導師」

「そういきり立つな、アラン・フォスター」

 背後へ立ったのは、追走劇の夜に姿を見せた純白の魔導師だった。

 アランはいけすかない魔導師の顔を肩越しに覗くと、あの赤黒の蛇目に捕らわれた。それ以上は動けない。動いてしまえば——イチコロだ。


「このことを知っていたのか?」

「嗚呼、だから家に戻れと云っただろう。お前が頸を跳ねた暁の戦士の報復だ」

「くそが....。それでウチのはどうなった?」

「お前の妻と娘は儂が救ってやった。今頃は中央のエイゼンだ」

「話が見えないな魔導師。なぜウチのを救った。俺はお前のことなんか知りもしない。なんの義理があって——」


「義理? 世の道理とな? はて、お前がそんな浮世の理を気にするのか。お前はいつだってお前に正直だったろう。違うかの戦士よ。お前のことわりへ家族を巻き込み引っ張り回した。しかしだ。そのことわりは端を閉じなかった。言い換えればお前の夢はついえた。違うか? だからお前は綻んだ先を離さず、もう一度結び直そうとした。その結果がこれだ。それでだ、お前の問いに答えよう。儂はお前に興味がある。その浅ましいまでの夢とやらは儂の主が望んだ歯車の一つに相応しい。だからお前の家族を救ってやった。もっとも、あの様子ではお前の元には戻らんだろうがな。それでどうだ——」


 アランは背中越しに魔導師の言葉を受け止めた。

 自分の言葉で悦に浸る魔導師の様子をみれば、どうやら僅かながらでも身を動かすことはできそうだった。だからアランは折った膝を軸に僅かに気付かれぬよう身体を動かした。

 魔導師はそれを知っていた。赤黒い蛇目でアランの姿を追い、所々で舌舐めずりで乾いた唇を舐めまわした。不敵に笑みを浮かべ、戦士が真正面に立つのを待ったのだ。そして目の前の黒の戦士が両手剣を構え切っ先を自分に向けると、言葉を続けた。

「それでどうだ、アラン・フォスター。お前の夢を叶えるため儂はお前に手を貸そう。もっとも強欲なお前のことだ、他力は不要ということであれば有益な情報を与えてやっても良い」

「俺の夢? 有益な情報? お前が俺の何を知っていると云うんだ」

 アランは目を細め魔導師を睨め付けた。


「嗚呼知っているとも。儂の主の目は全てを見通す故にな。お前は英雄と呼ばれ、羨望の泉に溺れ、酒池肉林のなかあらゆる欲望を満たしたいのだろ? 平然とし万事、興味を持たぬと云わんばかりの顔の下では、そんなことを望んでいる。違うか? 酒に溺れ、毎晩上等な女を抱きそして朝を迎えれば愛する家族がいる。そんな浅ましい望みを抱いている。だが、足枷もあったなアラン。小物ゆえ余計な正義感にかられる。それが英雄としての道を閉ざすのだ」


 純白の魔導師はさも気分よさげと口上を述べ、ゆっくりとゆっくりとアランへ歩みを進めた。そして、両手の五指の腹を合わせ胸の前でカサカサと忙しなく動かした。蛇目は赤黒くやはりアランを捕え離さない。


(しまった動けない....!)

 アランは魔導師へ云い返そうと息を吸い込んだのだが、その先へ進めない。蛇に睨まれた獲物のように身体が硬直してしまったのだ。四肢に力は伝わらず構えた両手剣と同化してしまったのか、まるでそういった彫像といった塩梅にだ。

 すると目と鼻の先にまでやってきた魔導師は、美しく醜い彫像を前に嘲笑し忙しなく動かした両の五指から人差し指を立てるとアランの喉元へ突き立てた。


「ならば」魔導師はしゃがれた忌々しい声でそっと云った。

「我が主、白銀の魔女の歯車となり踊ってくれたまえよ、アラン・フォスター」

 魔導師は目を細めた。

 突き立てられた節くれた人差し指が幾分か強くアランの喉を押すと、ツツツと暖かいもの流れたのがわかった。それでもやはりアランは動けない。

「英雄になれアラン・フォスター。そうすればお前の望みも、お前をも羨望の眼差しでお前を見上げ脚元にすがるだろうよ」


 皺の深い口元が三日月を描いた。

 魔導師は小さく笑い囁きそして最後の言葉を結ぶ。


「サタナキアにもまた英雄への道を閉ざされ悲しみに暮れた者がおる。彼の者は祈る神を間違えたのだろうな。屍鬼の王レイスキングと成り果てた。奴を討て。そして栄光を掴み取れ。己が理想とする居場所を得よ。しかし気をつけろ。屍鬼の王を屠るものはまた等しく王の邪眼に映るものだ。邪眼は人心を惑わす故な囚われぬよう、ゆめゆめ忘れぬことだ」


 最後にほくそ笑んだ魔導師は赤黒の蛇目でアランを覗きこむ。

 アランはそれを横目に受け止めた。

 耳元で魔導師の乾いた息使いがカサカサと音を立て、暫くの空白が刻を止めた。


「おおおおおうい! アラン!」

 その少し後、丘の麓の方から別の男の声がした。

「来るな!」

 その声を張り上げられたことに驚いたのかアランは目を丸くすると、全身から力が抜けへなへなとその場に座り込んでしまった。

 アランは恐る恐る顔を上げたが、魔導師の姿はもうそこにはなかった。



「アラン大変だ! 村に屍喰らいが!」

 麓から駆けてきた男はアランの姿を認めると矢継ぎ早にそう伝え、アランの前でやはりへなへなと座り込んでしまった。


 その刹那。遠くで幾つもの煙があがっているのに気がついた。

 村が燃えている。



 

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