植物に魂を売った男にも草を抜かれる。
僕の見たユートピアは、この体に凝縮されたようだ。
こころなしか青白くなった腹をまじまじと眺める。手をひらひらさせて裏表を見るが、血管の巡りがおかしくなっていた。もしかしたら、葉脈になっているのかもしれないが、その辺はよく分からない。そうしたら、この体から血が流れることもなくなるのかもしれない。きっと、腕を毟り取ったって痛くないし、すぐに生えるのだろう。
「出かけるよ」
丸山がこともなげに言う。
「ハロウィンでもないのに」
「仮装した状態で行くのって賛否あるよね」
もし万が一、僕の体の異変に気付かれることのないよう、念には念に念を入れて顔や肌を限界まで覆った装いに身を包む。
この夏休みの最中、こんな厚着は酔狂だ。この格好の方が不審なのではないか。
そう思いながらも丸山の車に乗り込んだ。
たどり着いたのは、とある大学の研究室だった。車に乗っている間に色々と話を聞いた。詳細は頭に入らなかったが、丸山の知り合いでとにかく植物に詳しい男がいるという。
学生たちにじろじろと見られながらキャンパスを歩く。構内への入り口を無視して進む丸山の後を追う。研究室は地下にあるらしく、外から連絡階段を使って中に入るそうだ。
中は冷房が効いていて涼しく、廊下の片側に窓があるお陰で地下でも太陽の光が届く。快適な空間だ。
長い廊下を過ぎると研究室と書かれた札のかかったドアが目に入った。丸山に続いて中に入る。
大学の研究室は狭いんだと従兄から聞いたことがあるが、ここは通っている高校の理科室と同じくらいの大きさだった。いや、もっと大きいものなのかもしれない。
その広い一室には苔に向かって陽気に話し掛け続ける男がいた。
「角田」
男が顔を上げる。なるほど、こいつが植物の研究をしている角田か。
角田は無愛想にどうしたと言い掛けたが、こちらを見て硬直した。
「その少年、もしかして」
まさか、一目見ただけで分かるのか。自意識過剰なほど周りの視線を気にして帽子やマスクで顔や植物が見えないようにしたというのに。さすが植物に詳しい男。
「このボクの研究に興味があるのかい? 丸山、君って奴はいい仕事をするね。未来ありそうな少年を助手として連れてきてくれるとは。恐れ入った」
……そんなことだろうと思った。杞憂だ。丸山も同じようなことを考えているのか、顔に苦笑を浮かべていた。
「違うんです」
「あ、ちょっと、シダ君っ」
話すよりも見せた方が早い。そう判断し、服を脱ぐ。なぜか丸山が狼狽えた。
「あ、興味があるのはボクに対して? そっち系? ボク植物にしか……」
そこで角田は言葉を切って、こちらに近寄る。そして、へそから生えている草を手に取った。
「これは、見たことがない。まさか君、新種を見付けてくれたのかい!?」
そうじゃねーよ。思わず発した言葉は丸山と綺麗に被った。丸山は溜息を一つ吐くと、へそに生えている草を引き抜いた。ブツリと音を立てて、草は根こそぎ抜けた。傷口からはドプリと血が溢れ出る。
「……君は悪魔、いや、植物に魂を売ったのかい?」
いや知らねーよ。とも言えず、気付いたらこうなっていたと前置いて、大まかな経緯を教えた。
「なるほどね。そんなことが起きるとは、とても面白いね」
面白いと言う角田の声には抑揚がない。
「それはそうと、この草貰っていいかな」
角田は先ほど抜いた草の他に数本、僕の体から抜いて行った。
「角田、さすがにシダ君が可哀想だって。お腹とか穴ぼこだらけじゃん」
さきほど脱ぎ捨てたパーカーを丸山が拾ってきて、血が付かないように肩に掛けてくれた。
「植物が生えてるといえど人の形してるし。それに、痛覚ないんでしょ。可哀想だとは思わないなあ」
角田は引き抜いたばかりの草たちを鉢に植え替えている。案の定こちらには一切視線を向けない。分かりやすい。
「シダ君が植物のカテゴリーに入った時、死ぬほど後悔しろ」
丸山は僕の肩をさすっている。角田の言った通り、痛くも、ついでに言えば寒くても困らないのに。
「今は違うでしょ、今は」
植物になった瞬間からだよ。ボクが労わるのは。と、角田は続けた。
……そのカテゴリーに入る事を前提に話を進めないでくれ。
とりあえず調べると言って、今度は草に話しかけ始めた角田に、丸山は溜息をつく。あんなんでもちゃんと調べてくれるから帰ろうと促され、僕らは研究室を後にした。
彼らは暢気すぎる。しかし、彼らのお陰で自分に起きている現象が他人事に思えるのも事実であった。
「さすがに、君はレアケース過ぎるね。ボクじゃ対応できないや」
数日後の午前、角田から連絡が来たので研究室を訪ねたが、彼は至極あっさりと匙を投げた。
「それに、君はパッと見が人だし。何か気乗りしないんだよね」
やはり難しいのかと思えば、彼自身のやる気の問題もいくぶんか絡んでいるようだ。
「でもまあ、とりあえず、君に生えてた植物についてはちょこちょこ調べさせてもらってるよ」
説明欲しい? と、角田は話したいと言わんばかりの顔をしている。丸山が頼むと彼は喜々として、乳白色のツルツルとしたトレーをデスクの上に置いた。中には僕から引き抜いた植物が鉢に入れられた状態で並べられている。
「細かい事は言っても分からないと思うから、ざっくり話すよ」
そう前置いて、角田は艶のない黒色の机に置かれたトレーの中身を端から指し始めた。
「見て分かると思うけど、この子たちは大体同じような種類ね。シダ植物。胞子で増えるんだよ。で、ちょこちょこツタっぽいのがいる感じかな。教授に知らせたら評価上がるかも。ああ、安心してね。面倒になりそうだから公表はしないよ。君が植物になった時に持ってかれるのは嫌だし。一応、知り合いだしね」
ペラペラと饒舌になった角田は植物の説明に加え、僕の危惧したことをピタリと当てて、おまけに公の場に突き出さないとも言ってくれた。
「ありがとうございます」
「別に、君のためじゃないし」
角田はぶっきらぼうに吐き捨て、折り畳んだ紙を投げ付けてきた。開くと黒いインクでどこかの住所が書かれていた。
「ボクがお世話になってる病院。分からないって言われるのが関の山だけど、行ってみたら?」
話の分かる先生だから、気休めにはなるよ。そう言って角田は手を払う仕草をした。
それを見た丸山に腕を引かれ、僕らは研究室を後にした。保険証はここに来たときから持っていないし、まだ昼前だったから、そのまま病院に向かうことにした。
案の定、角田に紹介された病院でも僕の体のことはよく分からなかった。体の構造が人じゃなくなってると言われたが、あまり現実味がない。
「先生、シダ君はどうなってしまうんでしょうか」
「君はこのままでいたくないのかい」
「支障がないので、このままでもいい気がします」
けど。と、言い掛けて黙る。良くないと言ったって、僕の体は治せない。先生が困るだけだ。
「そうかい、なら、もう少し様子を見ようかね。本当は大きな病院に行くべきなんだけど、君がそれでいいなら」
名前を訊かれたが、答えられなかった。丸山にも訊かれたが、自分の名前が思い出せないのだ。
思い出せないと言えば、母のことも、いじめっ子のことも、酷い先生のことも思い出せない。
何をしたのかは覚えている、何をされたかも覚えている、何を言われたのかも覚えている。しかし、彼らの名前は? 正確な居場所は? 顔は?
ちゃんと覚えていたはずだ。覚えていたから、帰れないと思ったんじゃないか。さっき、お医者様にも「でも、僕のこれからはどうなるのでしょうか」と、訊きかけて止めたじゃないか。
夏休みが終わりそうで、母に心配をかけてしまうと困ったじゃないか。しかし母に連絡しようにも、電話帳の中の誰が母なのかが分からない。
思い出せ、僕には心配してくれる母がいる。でもどんな? 名前は? 顔は? 趣味は? 具体性がない。実体がない。代名詞でしかない。
母じゃくてもいい、いじめっ子はどうだ。どんな虐めに遭った? 恥ずかしい、痛い、悲しい目に遭った。例えば? 分からない。覚えていない。この体には傷も残っていない。
なら先生は? 僕は先生に何を言われた? 自分が情けない、先生に失望した。そんな感情を覚えたじゃないか。例えば? 分からない。そもそも、先生は何の授業の先生だっけ? 担任? 性別は? 性格は?
どうして思い出せないのだろうか。彼らは本当は実在しない人物なんじゃないか? 僕の頭がおかしくなったっていうのか?
丸山と角田、目の前にいる医者。彼らのことはちゃんと具体性を持って記憶している。彼らはきちんと存在している。僕の頭がダメになっているとは思えない。
僕は長い悪夢を見ていたのではないだろうか。だとしても、樹海で目覚める前はどうしていたのだろうか。
あれ、どうしていたっけ? そもそも、どうして僕は樹海に来たんだ? 観光? 自殺? 興味本位? あれ? 悪夢って何だっけ? 僕はどうして家に帰れないんだっけ? ああ、家が分からないからだ。なら、警察に行けばいいじゃないか。いやいや、僕は自分の名前すら分からないんだ。迷子の子猫ちゃんも真っ青だ。
「どうしよう……」
病院から出て頭を抱える。
「どうしたの、シダ君」
何もかも分からなくなってしまったと、そう丸山に話した。なるべく簡潔に、分かりやすく。彼は軽い質問を挟みながら話を聞いてくれた。
「うーん、ああ、そうだね、どうしようか」
彼はうんうん唸っていたが、荷物に生徒手帳などがないかと聞いてきた。僕は学校に通っていたのだろうか。それすら分からないと伝えると、帰れば君の荷物があると言ってくれた。
目を覚ましてからのことはしっかり覚えているのに。
もしかして、体と一緒に脳まで作り変えられているのか。すると、下手したら、僕は意識しない内に色々なことを忘れて、忘れたことにも気が付かなくなって、もしかしたら常識まで分からなくなって、角田が言ったように植物になってしまうのかもしれない。
「シダ君、顔が怖いよ」
丸山に頭を撫でられる。痛覚はないが、触覚はあるし温度も分かる。焦るのはまだ早い。今は僕の身辺整理のことを考えよう。
いるであろう僕の家族に僕のことを伝えて、僕が僕じゃなくなっても社会に混乱が起きないように。
「シダ君。帰りに、何か美味しい物食べようか」
元気づけようとしているのか、丸山が妙に優しい。ここは好意に甘えよう。
「僕、窒素が欲しいです。あと、リン酸とカリも」
冷たい水もたっぷりもらえたらいいなと思いながら答えると、何故か丸山が変な顔をしている。どうしてだろうか。
「……シダ君、園芸とか好きだったの?」
「覚えてません。好きだったのかもしれません」
「そっか。じゃあ、俺のご飯は適当でいいか」
ホームセンターに寄ろうと言われ、嬉しくなって返事をする。土も欲しいな。なんて思いながら、丸山の車に乗り込んだ。
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