会ったばかりの美大生が容赦なく草を抜いてくる。

 目覚めると、見知らぬ天井。壁紙はどの家も似たりよったりなものだと思うが、少なくとも照明には全く見覚えがなかった。

 敷かれた煎餅布団は泥だらけで、洗っても手遅れだろう。洗濯か弁償か。家主に確認しなくては。

 そこで、先ほど腹から出血したことを思い出し、飛び起きる。血は泥とは違った厄介さがあるのだ。慌てて服をめくれば傷口はすっかり塞がっていて、抉れたようなヘソは見る影もない。

 ふと、見知らぬ背中が視界に入る。樹海で会った大学生(仮定)だ。昨日、ヘソ辺りの草を抜かれたことと車に乗せてもらったことを思い出す。

 この人の家の布団なら別に気にしなくてよかったかもしれない。少なくとも焦って飛び起きる必要はなかった。


 男は大きなキャンバスに何かを描いていた。よほど集中しているのか、騒がしいはずのこちらに気付いていないようだ。

 それをぼんやりと後ろから眺めていると、男が何かを取ろうと振り返る。ようやくこちらに気付いた。


「あ、起きたんだね」


 振り向きざまに描いていた物が見える。深い穴の絵だった。


「あ。傷の手当、してなかった」


 すっかり忘れてたよと言って男は立ち上がる。部屋の隅から救急箱を引っ張り出して戻ってきたと思ったら、問答無用で服を捲ってきた。


「あれ」


 間の抜けた声が上がる。そうだ、傷はもうないんだった。


「へぇ、傷口なくなったんだ。痛くはないの」


 傷があった場所をぐりぐりと押される。さほど驚いてはいないらしい。皮膚の下でえげつないことになっていたらどうするつもりなんだろう。


「そんなに」

「ふぅん、それはよかったね」


 返ってきた声は平坦で、他人事みたいだった。


「これさあ、根っこ抜いたら痛いの?」


 男は更に、脇から生えている他の草にも手を出してきた。ぐいぐいと引っ張られるが、引っ張られているなぁくらいの感覚で、痛くはない。そう答えれば、脇の草も断りなく引き抜かれる。躊躇いは一切なかった。

 何かひと言ないのかな。抜くよとか、いくよとか。今日日は大学生も学校帰りの小学生みたいに目についた草を手当たり次第に抜くものなんだろうか。

 再び出血して、血や土くれみたいな肉片が床にぼたぼたと落ちる。


「うわ、何かいっぱい出てきた」


 こういうのは出した人が責任持って片付けて欲しい。草を抜かれたばかりの脇は雑草を抜かれたグラウンドみたいにふかふかになってしまった。時間が経っても戻らなかったらどうしよう。


「ゼラニウムみたいな匂いだね」


 傷口を指差される。草と血の臭いと言えばいいものを。


「何、君アレ? 妖精かなんか?」


 現代日本にそんなものはいない。鉄や人間の悪意、毒と言っても過言ではない化学物質に満ちた環境が生活に適してないのは明らかなことだ。


「人です」

「その体で?」

「今まで生えてなかったので」


 とはいえ、勘違いしても仕方ないかもしれない。彼にとっては最初からこの姿だったから。案の定、向こうも本当? と訊いてくる。

 しっかり根付いてるよねとの言葉と共に、襟足の草をもう一本抜かれた。こぼれてきた肉片からして、これも抉れているんのだろう。何度見てもショッキングな光景だ。できれば花かっぱくらいのレーティングになって欲しい。


「傷口に何か付けたら癒着する? てか、身体冷たいよね。一回死んだりしてる?」

「……」


 無遠慮だった男はようやく配慮を取り戻したようで、気遣わし気な声で聞いてきた。人の心を思い出してくれたことは嬉しいが、自分でも何が起こったのか分からないのだ。訊かれても困る。どう説明したものかと黙っている内に、男は勝手に何かを察したようだった。


「ごめん、ちょっと無神経だったね」


やっと空気を読んだのか、相手の口数が減った。喋る時は喋るのに、一旦黙るとだんまりか。これは非常に気まずい。

 何か声をかけようと思ったところで、この人の名前を知らないことに気付く。勝手にあだ名を付けようかと一瞬考えかけるが、ロクなものが思い浮かばない。怪奇!除草男とか言ったところで、僕の方は怪奇!草人間だ。


「……何と呼べばいいですか」


苦し紛れに訊ねれば、彼は白い歯を零した。


「丸山次郎。適当に呼んでよ」


 差し出された手を反射的に取ると、丸山は笑みを深めた。


「何を描いてたんですか」


キャンバスを覗き込むと、丸山が体を傾けてくれる。


「あー、大学の課題でさ。面白い物見たから、描きたくなって。ありがとうね」

「はあ」

「俺、ファンタジーとか好きなんだよ」


 丸山についてきて正解だったと思う。よくよく考えなくてもこれはとんでもないことだ。きっと化け物扱いされるだろう。学校なんかに行ったら、過剰な水遣りや日照などの攻撃を受けるだろう。痛みがないから負担は減るが、確実に学業どころではない。そもそも、この状態で学校に通えるのか。現実的なことを考えれば考える程、ただでさえ低い体温が下がっていく。


「ほら、これ君だよ」


 丸山は絵の方を見て何か話している。


「……何ですか」

「だから、ほら、この男の子のモデルがシダ君なの」

「微塵の面影もありませんね」


まあ、頂いたのは設定だけだから。悪びれもなく、丸山は言った。


「人目につくからね。似顔絵は不味いでしょ。肖像権以前の問題だ」


君から親和性を奪っちゃうのは酷だしね。そう続ける。

 そんなもの、はなからないのに。


「……思うんだけど。親に相談した方がいいよ」

「何でですか」

「見られるのが嫌で家出したわけじゃないんでしょ」


 素直に頷く。

 反省して家に帰るはずだった。親に迷惑をかけたくなくて、自分を変えるために樹海に行っただけだった。


「だって、もし君がいなくなったら、両親に迷惑かかるよ。せめて、君がどうにかなっても守られるようにしなきゃ」


 これは君だけの問題じゃない。

 丸山は落ち着いた声で言う。滑らかな言葉は耳から流れ込み、脳に浸透していった。


「大事にしたいならね」


 君自身のことは、それからゆっくり考えようね。月並みで、雑な言葉だったけど、穏やかで安心する声色だった。


「居場所がなくなったら、ここにいてもいいよ」


 ちょうど、話し相手が欲しかったんだ。そう言って、丸山は目を細める。

「人里から逃げるにしても、準備は大事だよ」

 丸山に抱えられる。本当に軽いなあ。養分持ってかれてない? 彼は微かに笑う。

「知り合いに、植物の研究をしている奴がいるんだ。きっと大丈夫だよ。ちゃんと調べて世話するから」

「……何かズレてませんか」

 何もかもが杞憂だ。そう思えてきて、笑えた。

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