第3話 大英雄、邂逅する

 遥か古の時代。未だ神と英雄と怪物が跳梁跋扈する神話の時代に、かつて栄華を極めた一つの都市、そこに起こった文明が存在した。

 その都市に住まう者達は皆笑顔で、一人の完全と尊ばれる王による統治により繁栄を我が物としていた…だが、その都市は現代に於いては既に無かった。

 栄華を極めた都市を、文明を滅ぼしたもの……それは風だった。

 広大なる大地より海岸に吹き降ろす暴風は多くの死を運んできた。

 吹き荒れる熱は多くの水を奪い去り、肥沃な大地を砂漠と化させた。無尽の砂はそこに住まう多くの民達に無数の病と災厄を齎し、多くを殺した。

 ある者は光を失い、ある者は呼吸を奪われ、ある者は熱に苛まれ、ある者は飢えに飢えて地に倒れていく。

 その風は静かに、だが確実に砂塵を巻き上げ、熱気を束ねていった。人々は神に祈り、王を頼り、救いを求めた。だが哀れ、ただの自然現象に祈りは通じない。神は既に地平の彼方に消え去り、神威は微塵も残っていない。完全なる王が生きていればまだ対策は出来ていただろうが、既にその王は死に果て冥府の底に向かっていたのだ。


 その風は文字通り一つの文明を滅ぼし、多くの命を砂の底に沈めたのだ。

 だが、命が消え去るその前に人々は恐れ、自らに襲い掛かる悍ましい厄災に名を付けたのだ。

 そして、人々は風に祈った。邪悪なる風を崇拝していたのだ。

 悪意に支配された、熱と病の風。それに付けられた名前は────






「これは、一体…何なのだ…」

 人目を集める巨体をポロシャツとジーンズという簡素な服装に身を包んでいるヘラクレスは、周囲の人だかりに困惑していた。何故ならば…

「やはりこのストーリーは素晴らしい…」「古の先人達に感謝ですね…」「むむ、この本…解釈不一致です二冊…いえ三冊くださいっ!!」「えっと、大理石ぬらぬら先生のブースは…」

 と、多くの人々が本やらグッズやらを売り買いし、そして論争を繰り広げていたからである。

 置かれている無数の本の表紙を見れば、かつて共に冒険を繰り広げた戦友や加護を与えてくれた多くの神々、そして…の名前が記載されていることに、激しい頭痛が止まらない。そして何よりも先程から、こめかみを軽く押さえているヘラクレスに対して

「よう!そこの兄ちゃん、アンタ凄え身体してんな…実は向こうでパンクラチオン教室を開いてるんだがぜひ寄っていってくれ、そしてパンクラチオン大会に参加してくれ!!アンタならきっと優勝出来る!!」「いや待て、先ずは円盤投げ選手権からだ!!」「いいや、最初は槍投げ!これ世界の常識だ!!」

 と、声のかかることかかること。この場所についてから多くの人─全員がヘラクレス程ではないにせよ、鍛え込まれた見事な身体を持っている─に勧誘されているのだ。

「ええと、私は知人の付き添いで来ているだけですので……」

 興味が無い訳ではないのだが、もし参加しようものなら確実にマズイことになるのは必然、だからこそ断っているのだが…。

「「「そこを何とか!!!」」」

「ぬぅ…一体どうすれば…!」

 何としてでも連れて行きたい人達と、参加出来ないヘラクレスの押し問答が続くかと思われたところに、女神が降臨する。

「すみません平良さ〜ん、お待たせっ…しましたぁ……!!」

 大量のバッグと、そこに入りきらないほどの量の本を全身を用いて運ぶ結衣─ヘラクレスの日本で働いている職場の同僚であり、この場にヘラクレスを連れてきた張本人─が息も絶え絶えになりつつやって来たのだった。そんな状態の結衣を見てヘラクレスはすかさず荷物を全て持ち上げて、死にそうな結衣を救うのだが

「「「…お〜〜」」」

「た、助かりました〜…ふひぃ…」

 何の苦もなく大量の荷物を持つヘラクレスに周囲から感心の声が上がり、結衣は結衣で周囲の視線を気にすることなく地べたに倒れてしまう。

 それを見て、ヘラクレスは

「取り敢えず、ここは人が多い。離れますよ結衣さん」

「歩けないですぅ……疲れましたぁ……おぶってくださぃぃ…」

「……」

 情け無い声を上げる結衣を見兼ね、彼女も抱き抱えてその場を後にする。大量の荷物に加え女性一人を抱き抱えて移動をするヘラクレスに対し、周囲から拍手が巻き起こるのだが、彼はそんなことを気にもせずにその場─同人誌即売会の会場を後にしていくのだった。



 暫くして、会場の近くにあった公園で休むヘラクレスと結衣の姿があった。木陰の下に吹き込む風が汗ばむ二人の身体を優しく慰撫していた。

「本当に申し訳ありませんでした、平良さん。でもお陰様で沢山買えましたよっ」

「いえいえ、いつもお世話になっていますから。これくらい何てことないですよ。それにしても沢山買いましたね……普段からこの量を?」

 カバンの数はおよそ10を超えており、その全てに大量の本がぎっちりと収まっている。一人の女性が買うにしては中々の量だと思い、そう問いかけたのだが

「えーと、普段は大学の同じサークルの先輩方と買いにいくんですよ。でも今日に限って、外せない用事があるからと…」

 話を聞くに、通っている大学で参加しているサークル─神話学同好会に二人の先輩がいて、普段は三人で買い回っているそうだが、何やら用事が入ってしまって今日は彼女一人で買いに来たそうなのだ。

「私一人ですと買える量も少なくなってしまうので、それで平良さんを誘ったんです。平良さんも神話好きなら、楽しめるかなーと思いまして……迷惑でした?」

 申し訳なさそうにする結衣を見て、ヘラクレスはクスッと笑ってしまう。やれ武器の通じぬ獅子の皮を持って来いや、やれ三十年掃除していない牛小屋を一日で掃除せよといった無茶振り、もとい難題を踏破してきたヘラクレスからしたら、彼女のお願いなぞまだ可愛い方だ。

「いえいえ、中々興味深い本も沢山ありました。ああいうところに行くのは初めてだったので、とても楽しかったですよ。また機会があれば是非行ってみたいです」

「是非!」

 嬉しそうに笑みを浮かべる結衣を見て、また同じように笑みを浮かべるヘラクレス。

 そして、結衣はえへへと笑いながら今日の即売会の成果をお互い見ようとカバンを開けようとする。ヘラクレスも自身の活躍が後世にどのように伝わっているのか、そしてどのように描かれているのか気になって覗き込む。

 そして2人で読み耽り、語り合い、帰路につく。そしてまた明日仕事に行く…筈だった。

 その異変は、突然起きた。

「…え?ぁ……な、に…これ……」

「っ!?結衣さんっ、どうしました!大丈夫ですか!?」

 突如として結衣の目から、鼻から、口から赤い血が溢れて来たのだ。呼吸器にも影響を与えているのか、ゴホゴホと咳き込み鮮血を開けている途中だったカバンや本に撒き散らしていく。

 自らの服が汚れることも厭わずにヘラクレスは結衣の身体を支え、周囲に助けを求めようとするものの……そこに広がっていたのは地獄であった。

 老若男女、それどころか鳥や犬に至るまでその全てが吐血し地に伏せていた。かつて同じ賢者の下で育てられた、かの医神のような技術は無いにせよ死に関する経験値はこの場にいる何者よりも高い。少なくとも、直ぐには生命に影響を及ぼすものでは無いと判断する。尋常ならざる状況、だがヘラクレスは至って冷静に思考を張り巡らせていた。そして一つの結論に至る、これは自然の事象では無いと。

 これ程の惨劇を引き起こせるものは彼の知り得る限り、神か──魔性の存在かのどちらかだ。

 だからこそ──

「あっれぇ、可笑しいねぇ……何でお前無事なの?どんなトリックか俺に教えてくれないかなぁ?」

 ──風と共に現れた男を見据え、苦しそうに呼吸をする結衣をゆっくりと寝かせる。

 その男の第一印象は砂漠であった。数百年単位で雨が降らず、何もかもが乾き風が吹き荒れている砂漠を思わせるような砂色の髪をたなびかせ、獰猛な笑みを浮かべている。視界に収めている、ただそれだけで眼球が乾くかのような違和感を与えるこの男が何処にでもいる一般人とは見做さなかった。そして何より無事な者は、己と眼前の男のみ。ならばこの男が原因である、という判断は今は下さない。先ずは確認するのが先決だ。

「貴様は何者だ、この惨事を引き起こした者か」

 目線を逸らさず、ゆっくりと立ち上がりながら問い掛ける。だが男は

「ノンノンノン、先ずは俺が質問してるんだ。先ずはテメェが─」

 答えるのが先だろう、と言い切る前にメキャ、という音が公園に響き渡る。

 音の正体は単純明快、ヘラクレスが万力のように握り締めた拳で男の顔面を殴り抜けたのだ。

 殴られた男は当たり前のように勢いの余り吹き飛び、地面をゴロゴロと砂煙を巻き上げながら転がって行く。だからこそ、ヘラクレスは臨戦態勢に入る。人間であるならば、それどころか鍛え抜かれた軍人でさえヘラクレスの拳が直撃すれば確実に脳天はこの世から跡形もなく消え去り、肉体はダンプカーに衝突された時のように粉微塵になっていることだろう。

 殴った方の拳を、何度か振るいながらヘラクレスは殺意を込めて最終勧告を放つ。

「悪いとは言わん、少なくとも貴様が直接乃至間接的な原因であることには違いあるまい。今ならまだ間に合うぞ、直ぐにこの場にいる全員を治癒し、速やかにこの街から出るならば生命は取らん」

「……ってー、痛いなぁ。質問している間にぶん殴るって、アンタ相当イカれてるんだろ?」

 だが、やはりと言うべきか。鼻から血が流れる程度で済んでいる男の姿を見て、やはりと見る。

「こんなことをしでかす奴に言われたくは無い、それで……退くつもりは無いのか」

「ねえよ間抜けが、それ以上言うつもりなら… …殺すしかねえか」

 目の前にいる者は敵である、その判断を下したヘラクレスは自らの意識を平時のそれ─日常を生きる者のそれから臨戦のそれ─英雄として、護るべき者を護り戦うためのそれに切り替える。

 次瞬、ヘラクレスから殺意と闘気の奔流が溢れ出る。ヘラクレスの周囲の地面が鳴動し、ひび割れて行く。並の人間が居れば卒倒してもおかしくない気迫を叩き付けられるが、男はクククと手のひらで顔を隠しながら笑う。同時に彼から迸る殺意と悪意の濁流、総じて負の気迫がヘラクレスを襲う。

 尤も、その程度で揺らぐヘラクレスでは無い。敵もまた臨戦態勢に入ったことを認識し目を閉じ息を吸う、そして吐く。そして右脚を軽く後ろに下げ半身を取る。左腕を高く上げまるで盾のように構える姿は正に重装歩兵を連想させるもので。

 そして小さく、だが天地に重く響き渡るように告げる。

「承器呼号──『挑みしは十二の試練ドキマシア・ミソロギア』」

 それは伝説の具現、神話の再現。かつて掴んだ栄光が物理的な概念として世界に現出する。


 此処に、新たなる神話の戦いが幕開ける。

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