33 氷の温度


 私には、心の揺れ動きが分からない。


 それに気づいたのは幼少の頃からだった。


朱音あかねちゃんって、なんか反応薄いよねー」


 そんな言葉を何度言われただろう。


 冷たい、感情がない、ロボットみたい。


 とにかく、血の通った暖かみを感じなせない。


 氷のように冷たい女だと、よく言われた。


 だが同時に、私も疑問だった。


「みんなの方こそ、どうしてそんな面白くない事に夢中になっているの?」


 今にして思えば、この発言こそ感情を感じさせないものだ。


 それが決定的で、私は他者と一線を引かれるようになる。


 けれど、幼い私には理解できなかった。


 つまらない事で熱中し、面白くない事で笑い、自分には関係のない世界のことで盛り上がる。


 純粋に不思議だった。


 皆が良いと思うものを、私には何一つ共感することが出来なかった。


 一人違う価値観を持つ自分に酔いしれていたわけではない。


 孤独になる自分を特別だと奢っていたわけでもない。


 ただ、価値観を共有することが出来なかった。







「これで好きなの買って食べてちょうだい」


 テーブルの上には、数枚の札束が置かれている。


「うん、わかった」


 私には母がいて、父はいない。


 正確には結婚をする前に私を授かってしまい、父となるはずの男は母の元から去ったらしい。


 だから、父親という存在を私は知らない。


 それを気にした事もない。


「それじゃあ行ってくるから」


「いってらっしゃい」


 母と会うのは数日に一度の夜だけだった。


 着飾ったドレスのような洋服に、派手な化粧、花のような濃い香水。


 それが私にとっての母の姿。


 どんな仕事をしているのかを聞いた事はないけれど、だいたい想像はつく。


 家には滅多に帰らず、帰ってきてもシャワーを浴び、寝て、仕事に行くだけのルーティーン。


 そして家を出る際に、私の食費だけを置いていく。


 けれど、この数日の一度のルーティーンですら、“私”という存在ありきなのも分かっていた。


 きっと私がいなければ、彼女はこの家に帰ってくることすらないのだろう。


 母がそうしたくてしているようには一切見えなかったからだ。


 母から私への関心を感じたことはない。


 消え去ってしまった男の残骸。


 あるいは清算することの出来ない若き日の過ち。


 母にとって、私の姿はそう映っていたのかもしれない。


 いずれにしろ、私が望まれていない命であったことは分かっていた。


 けれど、それにすら悲しいと思ったことはない。


 だって、生まれてきた時からそうなのだから。


 父がいない家も、たまにしか見かけない母の姿も、自分の在り方も、全て最初からそうなのだから。


 そうして育ってきた自分自身に疑いを持つことはなかった。







 けれど、その自己認識は時間を重ねれば重ねるほど歪んでいく。


 当たり前だが、成長して行けば人は幼稚園から学校へと通い、人との触れ合いは増えていく。


 思考は多様化していき、他者との関係性を学んでいく。


 そうして気付くのだ。


 皆が私よりも、感情の色に富んでいることに。


 個性、という言葉で片付けるには私の色はあまりに薄すぎた。


 “氷乃は氷のように冷たい”


 私の名前をもじった言い回しだったが、言い得て妙だと思った。


 氷は冷たく無色透明で色がない、個体なのに液体として蒸発することもある。


 そんな曖昧な存在。


 でも、そう言われる事を私は否定できなかった。


 割としっくりきてしまったからだ。


 だって、周りの人たちには当たり前のように家族がいる。


 そこには温もりも、様々な感情が折り重なっているだろう。


 それが分からない私は、確かに冷たいのかもしれない。







 高校に進学すると、私は一人暮らしになった。


 私が望んでのものではない。


 一人で生活出来る能力を持った私を見て、母が家から出て行ったのだ。


 でも、彼女が親の義務を放棄しているとは思わない。


 教育費も生活費もちゃんと払ってくれている。


 それすらもしてくれない両親が世の中にいる事を思えば、私だって恵まれていると言えるだろう。


 不幸だなんて、とても思わない。


 ただ、愛情と呼ばれるものを感じなかっただけ。


 多くの人は、そういったものを少なからず受け取って育っているように見えた。


 その差が、私との隔たりなのではないかと考えていた。


 人としての根幹である感情、友愛や親愛や恋愛なるもの。


 それら愛情と呼ばれるものを知らずに育った私が、どうして人の感情が理解できるのだろうか。


 私には最初から無かったのだから。







 ある日、私は小説を手に取った。


 理由はなく気まぐれ、いや、魔が差したのかもしれない。


 創作物と呼ばれる物も私の興味の外だったのだが、読んでみた。


 恋愛小説のそれは、およそ現実にはないような綺麗な情景と台詞で、その世界を言葉によって紡がれていた。


 物語とはそういうものだ。


 現実は重く苦しいから、せめて物語は美しく軽やかに。


 人はどこかで夢の中を生きたいのだと思う。


 そうでなければ、こんな有りもしないものを作り、また求める人がいるわけがない。


 求める人がいるから、そこに創作物は誕生する。


「……本当にそうだろうか?」


 けれど、その答えに自分自身が疑問を抱く。


 およそ現実とは程遠い物語。


 だが、私がそう感じてしまうのはそこに恋愛が描かれるからだ。


 無いものを有るもののように描かれても、そこに現実感はない。


「でも、皆は当然のように恋愛感情を持ち合わせているのよね……?」


 それなら、これは現実の延長線上、もしくは美化しただけのもの。


 現実から、そう遠くないものなのかもしれない。


 それを知る術が私にはない。


 それを知るには私は孤独にひたり過ぎた。


 一人でいる私に、その事を共有できる人はいない。


 私は他者の中で擦れて摩耗していく自分自身のいびつさを無視できなくなっていた。


 幼少の頃には無関心でいられた自分自身を、見つめざるを得なくなっていた。


 だから、小説で触れたその感情の輪郭を、自分で書くことで感じたいと思った。


 行動に移すのに、そう時間は掛からなかった。







 そして彼女と出会う。


 朝日詩苑あさひしおんという、孤独の少女。


 私と同じように一人でいる子だったが、彼女と私は異なっていた。


 彼女は感情の色に富み、良くも悪くもその色が他者を遠ざけていた。


 だが、それすらも私にとってはちょうど良いと思った。


 無色透明な私でも、その色に触れれば染まれるような気がしたからだ。


 けれど結果として、私は最後まで彼女の色を理解することは出来なかった。


 少しずつ私との距離を縮めようとしてくる彼女に、私は怯えるようになっていた。


 その好意に触れれば触れるほど、私の心は彼女に透けてしまうような気がしたのだ。


 でも、透けた先にあるのは氷の私。


 無色透明で冷たいだけの曖昧な存在。


 愛に育まれ、その熱を伝えるように近づいてくる彼女に返せるものが、私にはない。


 熱が高ければ高いほどに、冷たく空虚な私は溶けて霧散するしかない。


 そんな何もない自分を、彼女に知られるのが怖かった。


 美人だからと、才女だからと、私をもてはやす彼女。


 でもそれは私が作り上げた虚像、その奥にあるのは空虚だけ。


 それを知られた時、彼女は私に興味を失ってしまうだろう。


 だって、そうでしょう?


 私は母にすら関心を持たれなかったのだから。


 本当の自分を知られたら、彼女の関心を失うことは分かりきっている。


 それが嫌だった。


 だから、私には距離が必要だった。


 小説のモデルという関わり方も、功を奏した。


 そうすることで一定の距離に留めておくことが出来たからだ。


 でも、それすら時間の問題で、彼女は打ち破ってきた。




『矛盾してるんだよ。人を知りたいなら近づくしかないし、距離を縮めるしかない。その分だけ何かぶつかるかもしれないし、傷つくかもしれない。でも、それでいいじゃんっ。その分だけきっとお互いを知ることになるんだよっ』




 その言葉は恐ろしいほどに自分にすとんと落ちた。


 母……いや、誰とでも、私は人と深く向き合ったことがない。


 知らないのは、知ろうとしてないからだ。


 きっと私は初めから恐れていた。


 私から母に話しかけていれば、何かが変わっていたのかもしれない。


 触れ合おうとした先に、拒絶されることを避けていた。


 遠ざければ、拒絶されることすらない。


 だから傷つくことすら私にはなかった。


 そんな勇気すらなかったのだから。


 だから生まれるのは何も無い自分。


 空虚な私を生んだのは、私自身だった。




 でも、それはもうおしまい。




 私は彼女と出会った。


 その色を、熱を、ありのままの自分をぶつけて、その先にあるものが何でも構わないと。


 そう言ってくれる人を私は見つけたから。


 だからもう、恐れるのはやめよう。


 ここから、初めて私は自分を知ることになる。


 等身大の自分をさらけ出して、そこにあるものを見つめようと思う。


 それが今は少しだけ楽しみ。


 かつて恐怖だったそれを、彼女は知りたいと受け入れてくれるから。


 歩き出そう。


 小説なんかじゃない。


 私は、私自身の物語を彼女とつむいでいくのだから。 


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