青い紫陽花の花言葉

浮気以外の花言葉

 雨が降ったって、地が固まらないことはある。むしろその方が多いとさえ思うのは、私のこれまでの生き方のせいだろうか。


 6月1日天気は晴れ。昨日の大雨が嘘のように暑い。泥が跳ねたままのパンプスで、まだ濡れたままの地面を踏むと、ヒールの底がぐにゃりと歪むような感覚がした。倒れないように、鞄の紐をぎゅっと握って前を向く。ビルの反射で目がくらみそうだ。


 昨日、大雨だったのは実際の空模様だけではなくて、私の人生にもどしゃぶりの雨が降っていた。


 なんとか出社したは良いものの、昨日は台風が迫っていた。それは暴風を伴う大雨で、午後には電車が止まる危険性がある為午前中で帰宅命令が出て全社員早々と業務を切り上げて退社することになった。まだ片付いている業務の方が少ないような時間ではあるが、命の安全には変えられない。普段は残業が多めの弊社も、何故か台風や大雨の場合は判断が早い。助かるんだかそうでもないんだか。


 昨日は退社後、付き合って2ヶ月の彼氏、勇太ゆうたと「今年最後の鍋パーティ」と題したなんでもない宅飲みをする予定で、定時の18時頃連絡してそのまま彼の家へ向かう予定だった。しかし帰宅命令が出たのは11時で、それまでまだまだ時間が有り余っている。一旦自宅に帰れはするが、また外に出た時、電車が動いている保証はない。そんなことをうだうだ考えて、じゃあ今日は中止ね、と言ってこの会をなしにするのは寂しい。そう感じるくらいには、この時の私は彼のことがちゃんと好きだった。


「会社早く終わっちゃった」


「今から向かって良い?」


 立て続けにそんなメッセージを送って、返事も待たずに会社を出る。勇太が今日休みなのは先週聞いているけど、もしかしたらまだ寝ているのかもしれない。既に外は大雨で、持ってきた大きめの傘を開いても横殴りの雨粒は体に吹き付けて来た。それでもなんとか両手で持ち手を握りしめて、近くのスーパーへ向かい食材を買い込んだ。


 いつものエコバックを野菜と肉、そして私も彼も大好きなお酒数種類でパンパンにして、アパートの階段を登った。上機嫌の私は、約束の時間より早く彼の部屋へ行くのなんていつものことで、特に何も気にしていなかった。気付かなかった。いつも通り、なんだよ早いな、なんて寝ぼけた顔で笑って迎えてくれるものだと、勘違いしていた。


 エコバックを持っていない方の手で、ゆっくりドアノブを回す。やっぱりまた鍵がかかっていなかった。不用心だから閉めてっていつも言ってるのに、なんて、この時はまだ、できた彼女を装うように笑ってたっけ。その冷たい廊下を渡った先で、大雨より最悪なことに遭遇することも知らずに。



「で、ヤってたんだ?」


「聞き方最悪ですね」


 え~?となんにもおかしくないのにケラケラ笑う本条ほんじょう先輩は、ベンチの濡れていないところを探して数歩歩くと、見つからなかったのか諦めて手すりに寄りかかってサンドイッチをかじった。いつもと同じ、トマトとレタスとハムのやつ。昨日の朝も食べてた。


「だって鍋パしよって家行ったら彼氏が知らない女と裸でベッドにって、最中でしょ」


「いや真っ最中じゃなかったし知らない女じゃなくて私のこと彼に紹介した友人だったんで」


「より最悪じゃん」


 どろどろだあ、とまた1口。たった2口で、コンビニのサンドイッチは先輩の手から消えていった。ネクタイにパンのカスがついているのに気付いているのか気付いていないのか、それを手で払おうとはしない。


 結局勇太は、薄暗い部屋で雨音をBGMに私じゃない女と寝ていた。それはもう満足そうな顔で腕枕なんてしながら。買い物袋をとり落とした音で私に気付いた時の顔、今思い出しても腹が立つ。いつも事が終わったらすぐにシャワーを浴びて服を着て、腕枕なんて一度もしてくれたことはなかった。別に、してほしかったわけじゃない。でも、目の前に展開されるその気持ち悪い幸せな光景に、無性に腹が立った。


 絵に描いたような、やばい、という顔の2人に近づき、エコバックに入っていた豚肉のパックを、ラップをはがして中身の肉だけ女の顔に投げつけた。慌てて布団から出ようとする勇太には、美味しそうだねって2人で話してた鍋つゆを頭からまるごと。豚骨しょうゆのキツめの匂いが部屋に充満して、それはもう滑稽だった。最後に、残った野菜と酒を全部床に放り出して、エコバックをたたみ、雨音に負けないくらいの声量で「死ね」と言って部屋を出る。最低で最低な、人生通算何度目かの恋人の浮気だった。


 部屋を出てすぐに、勇太もバカ女の連絡先も全て消去したのでその後の動向はわからない。私は鍋つゆと豚肉の油で汚れた手を除菌シートでふき取って、傘をさして駅へ向かった。そうして家へ帰って、何も食べずに布団へ倒れこんで眠ったのだった。


 寝落ちした時の睡眠なんて、睡眠のうちに入らない。ましてや浮気された日の夜なんて。屋上から見える広い空の青が痛くて目を細めると、本条先輩が2つ目のサンドイッチに手をかけるのが薄くぼやけて見える。


「男運ないよね。増見ますみって」


「まあ……そうすね」


「浮気別れ何回目?」


「さあ……大体彼氏の浮気で別れてるんでもう忘れました」


「それさ、増見のほうからダメ男選んでない?」


 本条先輩の喉仏のあたりを、ブラックコーヒーが通過した。そうかも、とは思っている。常々思っている。私がクズみたいな男に引っかかりやすいんだって。今回だって、薄っすら感づいていた。あの女が勇太と付き合う為に私を踏み台にしようとしていること。そしてそれに、勇太自身も気付いていること。全部わかって、ヤりたい盛りの大学生サークルみたいなお遊びに自分からハマりにいったのだ。


 先輩への返事の代わりにため息を漏らすと、すぐ真下に、隣のビルの屋上が見える。都心のビル街で花壇なんて作っちゃってまあ。無機質なコンクリートの上をレンガで小さく囲われたその一角には、まだ色はついていないけど、紫陽花のような形をした花が昨日の雨で首をもたげている。紫陽花か。昔、学校の授業で花言葉調べたな。


「先輩、紫陽花の花言葉って知ってます?」


「なに、急に」


「いや、あそこ、紫陽花が見えたんで」


 ほら、と指さすと、どこ、と本条先輩が後ろから覆いかぶさるようにして隣のビルを見下ろす。社内イチのモテ男と噂される先輩からは、以外にもチャラついた香水の香りはしない。シュル、とナイロン生地のスーツが擦れる音が耳元でくすぐったかった。すぐ目の前の手すりを掴む大きな手から目を背けるように、手元のスマホに視線を落とす。


「まだ色ついてないから花言葉わかんないじゃん」


 なんだよ、と大きな影が隣に移動する。私のスマホをいじる様をじっと眺めながら、先輩は不服そうに口を尖らせた。のらりくらりとなんでも笑顔でかわす営業部のエースとしての姿よりは幾分幼いこの顔も、仕事上多くの時間を一緒に過ごすうち、天気の良い昼休みの屋上ではたまに見るようになった。


「紫陽花って色ごとに花言葉違うんですか」


「おいおい増見くん。営業たるもの紫陽花の花言葉は熟知しておきなさい」


「はあ……」


「ノってこいよすべったみたいだろ」


 頭を雑にぐしゃぐしゃと撫でられ、行き場をなくした髪が顔にかかる。うざったくて適当にかきあげると、本条先輩はいつの間にかまた元いた手すりに寄りかかって、片手でスマホを操作していた。


 つかみどころのないこの先輩なりに、私を励まそうとこうして屋上ランチに付き合ってくれている、のだと思う。私はこの人に、信頼……とはまた違う、なんとも言い表せない不思議な感情を抱いている。3つ離れた従兄弟の兄ちゃんとかに接する感じと近いかもしれない。入社当初からもう2年、私の指導係兼営業のパートナーとして一緒に働いていれば、近い関係だと認識することもあるだろう。なんにせよ、この人の隣はなんとなく安心する。


 なんとなく手に持ったまま口をつけていなかったおにぎりを頬張る。今朝、ぼんやりしながら握ったせいか塩が薄い。具も入れていない、ただ海苔を巻いただけのそれを咀嚼していると、本条先輩と目があった。


「紫陽花の花言葉って、浮気だけだと思ってた?」


「違うんですか」


「色ごとに意味あるんだよ。ホントに」


「嘘じゃないんだ」


「失礼な……。お前は白だな。色んな意味で」


 ほら、と顔にぐいっと近づけられた先輩のスマホ画面には、「白い紫陽花の花言葉=寛容」の太字。表示された画像では、都会ではあまり見ない白い小さな花の塊が、遠慮がちに上を向いていた。


「まあ浮気相手に豚肉投げつけたやつは寛容じゃないかもだけど」


 ダメ男のダメダメな部分も飲み込んで付き合ってあげちゃうところがある意味寛容だよ、とスマホが遠ざかる。寛容、ってそんな意味だったっけ……?それがそのまま顔に出ていたようで、先輩が笑った。


「お前、自分を低く見積もりすぎなんだよ。だからダメ男に捕まるんじゃない」


「高く見積もれる程美人でも性格良くもないんで」


「たまには人からの分析にも耳を傾けな。俺とかね」


「先輩の?」


「ちなみに俺は青ね。紫陽花」


「青ってどういう意味なんですか?」


「さあ」


「は?」


「営業たるもの気になる情報は自分で調べな」


 じゃあお先、と本条先輩は屋上の扉へ向かっていく。言い逃げか、と体を扉に向けようとしてたまたま目に入った腕時計は、そろそろ午後13時をまわろうかというところ。やばい、今日は昼休み終わりで会議だった。慌てて食べかけのおにぎりをお茶で流し込み、扉へ走る。


 錆びた扉がゆっくり閉まる前に見た空は、さっきと変わらず痛い青色。


 今日の空と同じ色をした紫陽花の花言葉はどんな意味なのだろう。今は全くわからないけど、なんとなく、隣のビルに咲く紫陽花も同じ色であってほしいと願うくらいには、昨日の最悪な出来事はどこかへ消えていった。

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