第11話
「おい! 濡れるぞ!」
背後で、焦ったような阿久津の声を捉えた。だが斎藤はみるみるうちに遠くなるので、阿久津を待っているひまはなかった。おれはやつを追った。数十メートル進んだだけで、服がぐっしょりと濡れてしまう。濡れた服が皮膚にはりついて息苦しい。でも、それを気にしている余裕すらなかった。
「おい!」
おれは声をかけた。だが男は止まらない。おれは必死に続けた。
「あんた……あんたは、一体なにに執着しているんだ!」
その言葉に始めて、斎藤が足を止めた。十時近い商店街は閑散として、声が妙に反響する。一歩、二歩。男が逃げないという確信をもって、おれは近づいた。
「あの男が、憎い」
はっきりと、斎藤はそう言った。雨を真っ直ぐ貫通するように届いた声は、いやに落ち着いていた。天に向かって伸びる若竹のように、そこには一片のゆがみも乱れもない。おれはなぜか驚かなかった。
だがそれは、やはり三上さんを憎んでいたのか、という納得ではない。彼の絶対にブレない芯のある声に、自分の男に対する印象が間違っていなかったことが証明された、そんな気がしたからだ。
「そりゃそうだろうよ。その理由を聞いてるんだ」
「風邪ひくぜ」
「それは……あんたもだろう」
男がびっしょりと濡れた髪をかき上げ、おれの方を振り向いた。その瞳は鉛のように昏い。それを見て、おれは焦った。なにか、なにか声を掛けなければならない。さもないと、男は永遠におれの手をすり抜けて行ってしまう――重大ななにかを、おめおめと見過ごしたまま。そんな予感がした。
「質問に答えろよ。頼むから」
おれの声は懇願にも近い響きを持っていた。どうしておれは、ここまでこの男に執着しているのだろう。答えの出ないまま、男が答えた。
「……許せないから」
「え?」
「返ってこないことくらいわかってるさ。でもこのままじゃ、おれは……顔向けができない」
男は天を仰ぐ。
「だから、殺す。あの日、おれはそう決めたんだ」
そんな告白に、おれは返す言葉を探した。でも、当たり前だが見つからない。理由はわかっている――それは、この男が望む言葉なんてないからだ。男が発したのは返答ではなく、ただの独白だ。そこにおれという存在は必要ないのだということを、ひしひしと感じる。
呆然としていると、後ろから「センパイ」と阿久津が駆けてきた。差してきた傘を半分、おれの頭上に差し出す。礼を言うのも忘れ、おれは阿久津を見上げた。
「お前……もう一本、傘持ってくればよかっただろうに」
「……急いでたから忘れた」
そんなやり取りを、男がじっと見ている。だがおれと目が合った瞬間、背を向け、駅の方に向かって歩いて行った。
「おい……」
「酒はうまかったよ。いい店だ」
「……」
「でも……行くんじゃなかったな」
壊れたというビニール傘は、確かに少し曲がっているように見えるが、その気になれば雨をしのぐことくらいできそうなものだ。だがそれは頑なに閉じたままで、本来の役目を果たすことなく下を向いている。
あのときと同じ。おれはその場から動けないまま、男がゆっくりと消えて行くのを見つめていた。どうして、その背中を追えないんだろう。まるで下半身が脳の指令系統から切り離されたみたいに、前に進もうとしても動かない。
「風邪ひくぞ」
阿久津が言った。同じことを言うなよ。心の中で、小さくそうつぶやいた。
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