第12話
三上さんが亡くなったと聞いたのは、その一週間後のことだった。
最初に聞いたときは、まさか、と最悪のケースが頭をよぎった。だがタケさんの話しぶりから、殺人事件ではないことはすぐ察したのでほっとした。いや、ほっとするのもおかしな話だ。三上さんは肺炎をこじらせたまま病院で亡くなったという。
もう二度と、三上さんとは会えないというのに実感がわかない。だが友枝さんに会って、遺体を前にして、初めてもう、三上さんがこの世にいないのだということを痛感した。
「この度は、その……お悔やみ申し上げます」
おれは三上さんが亡くなった翌日、阿久津と共に三上さんの自宅を訪れていた。一階の畳の部屋に横たわった三上さんは、記憶にある三上さんとは違って見えた。想像より痩せてはいなかったし、見た目という問題においてはそのままだ。だが魂がここにはないというか、三上さんを形作っていた大切なものが、抜け落ちてしまったような、ここにあるのはあくまで「三上さんであったもの」なのだということを突きつけられるみたいだった。
「結局、お礼を言えないままでした」
「気にしないで。本当にありがとうね。こんな年寄りを気にかけてくれて」
友枝さんは弱弱しく微笑んだ。後悔にも似た後ろめたさが、おれの胸を埋め尽くす。一度でも見舞いに行っていれば。変に遠慮しないで、もっと友枝さんと話ができていれば。もっともっと、コミュニケーションをとろうと努力していたら。そんな心中などお見通しなのか、友枝さんは明るい声を作って言った。
「ぽっくり行っちゃったけど……きっと幸せだったと思う。ギリギリまで美味しいご飯を食べられたし、あなたたちみたいな若い人たちと関われて、それに人の役にも立てた。人生八十年、それより長く生きたんだから。いい人生だったと思うわ」
それは友枝さんにしか言えない言葉だったろう。そばにいた息子さんや、その家族にも言えないだろう慰め。勝手な話だが、おれはなんだか肩の荷が下りたような気がした。
「父や母がお世話になっていたようで」
そういってお茶を出してくれたのは、四十代半ばと思われる息子さんだった。博之さんという。きっちりと整髪剤で髪を整えていて、真面目なサラリーマンと言った印象だった。見た目はともかく、その寡黙さは父親譲りという感じだ。
「いえいえ。こちらこそ……三上さんは本当に良くしくれて。お礼を言うのはこちらの方です」
「そう言って下さると、父も浮かばれます。遅れました、妻と娘です」
博之さんの後ろにちょこん、と二人の女性が会釈をした。娘さんの方は制服を着ていた。中学生くらいだろうか、おとなしそうな雰囲気の子だった。少し目が赤くなっている。おれは女性限定の人見知りを発揮しつつ、ぺこぺこと頭を下げた。
葬儀は明後日とその次の日に行われるという。博之さんは申し訳なさそうに眉を下げながら、おれたちにお茶を注ぎ足しながら言った。
「そこで、つかぬお願いなのですが……明後日の通夜で、参列者の受付をお願いできませんでしょうか」
「え、通夜の?」
「ええ。実は親族も年寄りばかりで、また地元が遠方ということもあり、出席できない者もいまして。なかなか折り合いがつかずに……」
おれたちはもちろん了承した。最後の最後で役に立てるなら、それに越したことはないと思ったからだ。
それから三上さんの思い出話に花を咲かせた。昔は割と亭主関白気味だったこと、引っ越す前の地元では町内会の会長を務めていたことを、友枝さんや博之さんが面白おかしく話してくれる。意外だった。話の中にいる三上さんは、おれの知る三上さんより、ずっと活動的で生き生きしているように聞こえた。いや、別に三上さんのことを弱弱しいと思っていたわけではない。ただどこか一歩引いているような、進んで前へは出たがらない姿が、強く印象に残っていたのだ。。
だが一方で想像通り、家族を大切にしていて、遅くに生まれた子供とそのまた孫娘には少し甘すぎるところもある、そんな優しいおじいちゃんのようだった。家族から愛され、でも少しだけ気難しいところもある、そんなよくいるおじいちゃん。なにも変わったところのない、歳を取って丸くなったおじいちゃん。
だからこそ――おれは先日の雨の日を思い出す。あの男の言葉、おれの胸に突き刺さったままの言葉を。おれは頭をもたげた不穏な予感を、無理やり意識の底に押し込める。
「そうだ、相沢くんに阿久津くん。よかったらアルバムでも見る? 二階にあるのよ」
「おいおい母さん。近所のじいさんの半生なんて、見せられても困るだろう」
博之さんが苦笑した。それでもおれたちは了承して、二階に上がった。例の部屋は、前回来た時と同じような状況を留めていた。ちらり、と本棚に目をやる。あの手紙が発掘されるのは時間の問題だろう。いや、気付かずにまとめて捨てられてしまうかもしれない。それならそうでいい。どちらにせよ、もう三上さんはこの世にいない。あの男が、斎藤がこの家に来ることもない。
「これこれ。亭主関白時代の旦那よ。まったく、偉そうな顔してるでしょう」
友枝さんが取りだしたアルバム。そこにはどこかのビーチで――ハワイかグアムあたりだろうか――椅子にふんぞり返っている三上さんが映っていた。ほかにも二人の結婚式のときの写真に、正月なのか、おせち料理を広げて酒宴の真っ只中というような写真。小さな赤ちゃんを抱いた写真。博之さんだろうか。時間は飛んで、孫娘が生まれたときの写真もある。中でも一番目を惹いたのは、家族が全員揃っている写真だ。三上さんが黒いボディの車に乗っていて、笑顔で窓から手をあげている。その前に友枝さんと博之さん、奥さんに娘さん。みながいまより少し若い。娘さんは生まれたばかりだろうか。
そこにある記憶は幸せだけだった。おれは頬が緩むのを感じる。
「いい写真ですね」
「そうねえ」
友枝さんも目を細めている。なあ、と阿久津の方を見る。口下手な阿久津は言葉を探すようにして、「車、いまのと違うっすね」と言った。たしかに。車庫にあったのは軽と白のアウディで、映っているのは黒の国産車だ。友枝さんは予想外の感想に一瞬、間を置いてから答えた。
「そうね、これは廃車にしてしまったの。だから新しくアウディを買ったのよ。使いやすいから、軽も買ったのだけれど」
「そうだったんですか」
友枝さんはアルバムを閉じ、「年寄りの思い出話に付き合わせちゃってごめんなさいね」と言った。おれたちは首を振る。
「それにしても、尚之さんが亭主関白って言うの、意外でした。なんていうか、友枝さんにすべて従います、って感じだったのに」
「……ほんとねえ。歳をとると、もともと頑固だった人は丸くなって、おとなしい人ほど気が強くなったりするのかもしれないわね」
そんな会話をしながら一階に降りると、散歩から戻ったらしいシロが、おれに向かって突進してきた。勢いあまって尻をつくと、ちぎれんばかりにしっぽを振って覆いかぶさって来る。
「うわっ! なんだお前、」
前回はあれほど吠えてきたのに、シロはおれの顔を舐めようとさえしてくる。先日の敵対心はどこへやら、「ねえーーーーーーー!!!一緒に遊ぼーーーーーー!!!」とでも言わんばかりに絡んでくる。
「なんだよ、この前はバチバチだったくせに」
「すげえ変わりようだな」
すると三上さんの娘さんが、こっちにおいで、とシロをかまってやりながら言った。
「もしかして……。お二人とも喫煙者ですか?」
「え⁉……い、いや、いまは……違いますけど、……」
阿久津は首を振り、おれはごにょごにょと途中を誤魔化しつつ答えた。
「そっかあ。じゃあ違うかなあ。シロ、タバコの匂いがすごく苦手なんです」
「タバコ?」
「はい。前に散歩したとき、どうしても喫煙所の前を通りたがらなくて。それどころかすっごく吠え始めて、大変だったんです」
友枝さんが意外そうな声で言う。
「あらそうなの? 知らなかったわ」
「ほら、ドッグラン行った帰りだよ。ちょっと足を延ばしてみたじゃない。タバコを吸ってる人にずっと吠えて止まらないから、もうタバコの近くには近づけないようにしようって言ってたんだよ」
そう言うことか、と腑に落ちる。
「そう言えば前回、伺う前に喫煙可の喫茶店に長時間いました。それで服に匂いがたっぷりついていたのかもしれません」
そこまで言って、阿久津を見る。だが「センパイはもう吸ってないのか?」と余計なことを言い始めたので、おれは脇腹を強めに小突いた。
「それでは、そろそろ失礼します」
最後にもう一度三上さんに手を合わせた。それから通夜の件を軽く打合せして、三上さんの家を後にする。玄関まで追いかけてくるシロを見、もうシロは室内犬に戻ったのだということを、おれはいまさらになって理解したのだった。
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