第10話
「それにしても斎藤さんって、どちらにお住まいなの?」
「遠いところさ。でも出身は東京。下町のあたりだ」
ゆかりの会話術は目を瞠るものがあった。ほんの数ラリーで、男の名前が「斎藤」ということや、現在単身赴任中であることを引き出した。おれがつい警戒心を解いて、二人の会話に頷いてしまうほどに自然な会話だった。人は初対面の人と話すとき、それまで培ってきた「人のあしらい方の上手さ」が浮き彫りになる。そういう点では、男のふるまいはそれなりに人生経験を積んだ社会人のそれに感じられた。
とはいえこの男の言うことがどこまで本当かなどわからない。だがそれはゆかりもこの男も、おそらく阿久津を除く全員が理解していただろう。水商売はせわしない日常とは一線を画し、癒しや夢を求める人のための場所。つまり朝になれば溶けてなくなる幻の空間であり、キャストと客が男と女を演じるだけの場所なのだ。
ゆかりは特に客を立て、流れる水のようにさらさらと場を回すのが抜群にうまかった。男が求めていることを感じ取りながら、会話を止めずに探っている。おれたちが口を挟む間もなく、ゆかりと男のラリーは続いた。
「あら、じゃあ余計に、どうしてこの辺りに来たのかしら」
「……ずいぶんと世話になった知人に会いにきたんだ。残念ながら会えなかったがな」
「そうなの? 遠くからきたのに、骨折り損だったわね」
「まったくだ」
男がわざとらしくおれを見た。おれは負けじと視線を返す。
「地元は下町って言ってたけど、ご実家があるの?」
「ああ。だがもう、おれの知らない町に変わってたな。最寄りは業平橋って駅だったが、とうきょうスカイツリー駅なんて風情もへったくれもない名前になってたし。おじさんは変化についていけねえよ」
「あら、ずいぶん前よ? スカイツリーができたのなんて」
「それもそうだ。もう十年以上前の話だな」
おれたちの入る隙はない。おれは男に空のグラスをアピールした。
「ったく、ワガママな坊ちゃんだ」
ゆかりはおれを睨んだが、男が笑って頷いたので、要望通りコーラを取りに席を立つ。ゆかりが席での会話が聞こえないほどに離れてから、斎藤が口を開いた。
「心配しなくても、腹いせに店に危害を加えようなんて思ってないぞ」
「どうだか。じゃあなんでうちに来たんだよ。おれをつけてきたんだろ」
「はあ……なんでお前みたいなのをつけ回さなきゃなきゃいけないんだよ。たまたまだ、たまたま。帰ろうにも新幹線が止まってるから」
おれは怪訝な表情を隠さず、斎藤を見やる。すると肩をすくめ、男は反対側の阿久津に声をかけた。
「まったく、話が通じないな……こんな調子じゃお前も大変だろう」
阿久津は信じられないことに、ああ、と頷いた。なに言ってんだこいつ。呆気にとられたおれの顔を見て、男が口元をニヤリとゆがませた。
「だってよ」
「お、おい。なに言ってんだよ」
「だってよく勘違いするし、早とちりして、思いっきり失敗するだろ」
「え……? なんでいまそんなこと言うわけ? なんで?」
「いまだってセンパイに呼ばれてきた。切羽詰まった声で早く来いって言うから、自動車学校の授業キャンセルしてきたんだ」
「それは……悪かったって……」
おれはモゴモゴと、知らず知らずのうちに小声になっていく。手持無沙汰にグラスの水滴を拭うが、阿久津は容赦なく続けた。
「事故にでもあったのかと思った」
「ごめんってば」
「駅で二時間待たされたこともあった」
「ええ……お前何回その話持ち出すわけ」
「おいおい、ケンカすんな若人ども」
さすがに少し反論しようとしたおれに、間に挟まれた男が笑う。だが、それから「いいか坊主」といっておれに顔だけ向けた。
「お前、自動車学校の授業ってキャンセルしたら面倒なんだぞ。こっちの坊主にちゃんと感謝しろ」
「うっ……。だからごめんって。てかお前、いつ間にそんなの通ってたんだよ」
「車に乗りたいから、取るしかない」
「最近は免許取らないやつも増えてるみたいだが」
男が自然に口を挟む。
「オートマか?」
「いや、マニュアル」
「そりゃいい。車はミッションに限る」
妙に馬が合った様子の二人を呆然とした思いで見ていたら、ゆかりが戻ってきた。その目つきを見るに、閉店後の説教は確定したようだ。
「斎藤さん、ほんとごめんなさいね。嫌なら言って? ほかにも女の子はいるし、言ってくれれば場所も変えるから」
「このままで構わないさ。女性には人見知りする質でね」
絶対にそんなことはない。というか、さっきと言ってることが違う。酒と女目当てに来たんじゃなかったのかよ。てかそんなやつがスナックなんか来ねえだろ。
「本当だぜ? 若い女の子となんて、なに話したらいいかわかんねえさ」
「あらあら。じゃあ私くらいがちょうどいいかしら」
「ゆかりちゃんも若いだろう」
「やだあ、心こもってないわあ」
そんな二人に白けた目を向ける。阿久津はお通しの筑前煮を平らげていた。ため息が出た。
「話題がねえんだよ。ずいぶんと若い女の子と話してないからな。おれが知ってるのは……そうだな、プリキュアくらいか。黒と白のやつ」
「やだあ~」ゆかりは水割りを作りながら笑った。「どこで止まってるのよ、それ」
「だから無理なんだよ」
「そんな気にしなくていいのよ~。ここの女の子はどんな話でもニコニコして聞いてあげるから」
「そういうもんか」
「そうよお」
結局、男が危険行為に出ることはなかった。それどころか、態度は紳士的で、酒の飲み方にも問題はなかった。カラオケも歌わず、基本的に静かに飲んでいたが、無口で扱いづらいということもない。嫌に常識的なふるまいにとまどう。しかも羽振りは良いし、店からしたら「いいお客さん」以外の何者でもなかった。おれたちはコーラとオレンジジュースを二杯ずつ飲んだし、ボトルに加えつまみも頼んだ(ほとんどは阿久津が食っていたが)。ゆかりもずいぶんと上機嫌だった。
「お会計、こちらになります」
「すばらしい明朗会計だ」
斎藤はそう言って、諭吉を二枚カルトンに置き、「釣りは入らない」と言って立ち上がる。慌てる母とゆかりの声に微笑みで応え、ベルを鳴らしてドアを開けた。おいおい、なんなんだよこいつ。本当に昨日の不審者と同一人物か?
外の世界は変わらず、水のシャッターが下りているかのように人を拒んでいる。せめて新しい傘を貸そうという母の申し出を丁重に断り、男は雨の中へと飛び出した。壊れたというビニール傘を手に、大雨の中、ためらうことなく走っていく。
おれは反射的に――自分でもよくわからない――傘も持たずにそのあとを追った。いま追わなければ、もうチャンスがない気がした。それは三上さんのためだろうか? いや、違う。
この感情がなんなのかわからないまま、おれはただ大雨の中へ駆け出した。
「ちょっと待てよ! 頼むから答えてくれ。あんた、なにしにこの町に来たんだ!」
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