第9話


「頼む阿久津、いますぐ来てくれ! やばい、マジでやばい。もう無理だ! 頼む! 五分以内に来てくれ!」

 阿久津が電話に出るなり、おれはまくし立てた。「五分以内は無理っす」と冷静に言われたが、「うるせー、遅刻したら罰金一千万!」と言って一方的に電話を切る。

 おれはいま、混乱と興奮の恐怖のさなかにあった。自室の畳の上をウロウロしながら、そういえば理由を話していなかったと思う。しかも場所も言っていない。だが折り返しの返信もないから、伝わっているだろう。まあいい、問題はそんなことじゃない。

 パニックになりかけた頭で、いてもたってもいられなくなったおれは、なぜかシャワーを浴び、着替え、髪を乾かした。少し落ち着いてきたところで、どうしてあの男がうちに来たのかを考えた。昨日の今日でうちにくるなんて、偶然ではないだろう。昨夜、つけられていたのか? 目的はなんだ? ……もしかして、復讐? 

 その可能性に思い当たってぞっとしたおれは、一階に駆け降りる。こいつがうちの店にきた原因がおれなのは間違いない。やつはおれを見てなんの反応も示さなかったが、あんな理解不能の不審者、なにをしでかすか分かったもんじゃない。おれは先程の扉をそっと開け、中をそっと伺った。店内はカラオケのだみ声が響き渡る中、ゆかりの言った通り、そこそこの客入りで賑わっている。

 カウンターにはいない――ということは奥にいるのか。店内は正方形の形をしているため、いまいる扉からは中の様子が見渡せた。この扉の左の壁沿いにカウンターがあり、常に母がそこにいるが、席についているのは常連のじいさんだ。二人連れと三人連れが、中央のテーブル席についている。そこにもいない。そして視線を巡らせ、例の男が角のソファ席に座っているのが見えた。

 向かいの席にはゆかりがついている。おれが飛び出そうとしたところで、自宅の方のインターホンが鳴った。

「遅えよバカ!」

 おれはいったん店の方の扉を閉め、玄関を開けるなり言った。言われた本人は目をぱちくりとさせていたが、おれを頭の上から下まで見たかと思うと、不本意そうにつぶやいた。

「……雨の中、死ぬほど急いできた」

「……」

「……」

「……あ、うん。そうか」

 阿久津の声を聞いたとたん、動揺していた心が不思議と冷静さを取り戻す。それまでどこか浮ついていた心が、すっと地に足ついたような。おれはまじまじと阿久津を見た。走ってきたのか、息が少し乱れている。額には汗を浮かべ、しかもジーンズのひざから下がずっしりと重そうに濡れていた。

 あ、悪いことしたな――それを見て、頭の熱も下がってゆく。同時に、申し訳なさに心がちくちくと痛んだ。だが本人は謝る隙も与えず、声をひそめ、「で、なにがあったんだ」と聞いた。おれははっとして答えた。

「あの男が来たんだ」

「は?」

「うちの店に、昨日の不審者が来たんだよ。いま、角の席でふつうに酒飲んでる」

「……」

 阿久津は状況を理解できないのか、渋面を作ってみせた。おれはちょいちょい、とシャツの裾を掴んで、脇にあるとびらをそうっと開け、店内を見せる。

「ほら、奥にいるやつ。絶対あいつだ。声がそうだった」

「……確かに、背格好は似てるな」

「だめだ、おれ、行ってくる」

 ゆかりや店の連中を危険にさらしてはおけない。おれは「おい」という阿久津の言葉を背に、ばん! と扉を開け、ずんずんと店内へ入って行った。

「ちょっとアキ!」

 母の鋭い声。だがおれは、そのまま男の元まで歩み寄る。なにやら男と話が盛り上がっていたらしいゆかりが、驚いたようにおれと、その後に続いた阿久津を見上げた。

「なに、どうしたのよ」

「おれ目当てで来たんですよね、あなた」

「……残念ながら、金を出して男と飲む趣味はないな」

 男は少しだけ驚いた表情を浮かべたが、すぐにひょうひょうとした調子で、長い足を組んだままロックのウイスキーを飲む。おいおい、ボトルまで入れているではないか。男はすでに笑みすら浮かべている、その余裕な感じがおれを焦らせた。

「ちょっと、なにしてんの!」

 母が慌てておれを追ってきて、腕をむんずと掴む。戸惑っている声音、それは息子の乱心だけでなく、そばに阿久津がいたからだろう。阿久津が空気を読まず、「お久しぶりです」とあいさつした。それを受けて母がつられて「ああ、どうも、阿久津くん……よね?」と返し、それを聞いた男がふふ、と笑ったので、なんともカオスな状況になった。

「いいんだママ。昨日、この子たちと知り合ったんだよ」

 男がにやり、とおれを見ながら言う。

「あら、そうでしたの?」

「そうそう。ずいぶんな夜更けだったんだけど、道を聞いたら教えてくれてね。親切な息子さんで助かったよ」

 どの口が言うか。だがここで反論したら店から放り出されかねない。おれは真意を掴めないまま、男の口車にあえて乗ってやることにして、小さく頷いた。母がおれたちの顔を交互に見ながら、心配そうに男に尋ねた。

「なにか失礼なことしなかったかしら」

「とんでもないさ。ちょうどお礼がしたいと思っていたんだ。どうだ、きみたちも一杯?」

 逃げないよな?――どこかそんな挑発を感じた。おれは頷く。母は納得したのか、「失礼のないように」と視線でおれにくぎを刺してカウンターへ戻って行った。

 男は余裕そうに「なにがいい」と聞く。シャンパンでも頼んでやろうかと思ったが、とりあえずコーラをグラスで二杯頼む。さすがに店でアルコールを飲むわけにはいかない。ゆかりが席を離れ、おれは男の左隣に、阿久津は男を挟むように右隣に座る。これでなにがあっても取り押さえられると思ったからだ。

 そんな意図を読んだのか、男は心底楽しそうに言う。

「隣に座るのは風営法違反じゃなかったか?」

「おれたちはいま、あんたのおごりで来た客だ」

「あらあら、両手に花ね」

 ゆかりさんがグラスとアイスを手に戻ってくる。

「ずいぶんと屈強でたくましい花だ」

 男がくつくつと笑う。背の高い男が三人、ソファにどん、と並んでいるというのは嫌でも目立つ。ちらちらと向けられる他の客からの視線を黙殺し、おれは男に聞いた。

「で、なんの用ですか?」

「なんの用って? 酒と女以外の目的でスナックに来るやつがいるのか」

「よく言うぜ」

「ちょっと、お客様になんて口きくの」

 ゆかりがギロリ、とおれを睨む。く、とおれは口を閉じる。

「かまわないさ、おれは面白いやつが好きなんだ」

 おれは改めて、男を観察した。カジュアルなジャケットに、中は白いTシャツ、ボトムはシンプルなデニムといういで立ち。不思議なことに、年齢の見当がまったくつかない。どこか陰のある、斜に構えた雰囲気が男を年齢不詳に見せていたからだ。

「そういや、目的地にはたどり着いたんですか? あんな深夜に、ずいぶんと重要な約束があったみたいですけど」

「そうだなあ。残念ながら、間に合わなかったかな」

 おれの追及にも動じず、男はグラスを揺らしながら、くつくつと笑う。

「あんな深夜に住宅街をうろついていた若人のおかげでね」

 嫌なところをチクチクとついてくるやつだ。おれはすかさず言い返す。

「……路上喫煙もダメだけどな!」

「たしかに。いまや吸えるときに吸っとけ、だな」

男はそう言って、ジャケットの胸ポケットからタバコとマッチを取りだす。それを見て、ゆかりが目を丸くした。

「あら、ずいぶん懐かしいの持ってるのね」

 男の手にあるタバコの箱は、確かに見慣れないパッケージだった。白地に紺色のライン。だがそのシンプルなデザインは、どこか見覚えがある気がした。おれが記憶の底からそのデザインを掘り返していると、正解を見つける前にゆかりが続ける。

「マイルドセブン。ほら、あんたが高校の時に吸ってたやつの、改名前のやつよ」

「ちょ……っ! それ言うのやめろ!」

「へえ。ずいぶんなやんちゃ坊主だったんだな?」

 吹き出しそうになったコーラを必死に飲み下す。だがゆかりは気にせず続けた。

「いやあ、懐かしいなあ。十年くらい前に変わったんでしたっけ」

「ああ。たまたま家にあったから持ってきた」

「あ、マッチはしまってどうぞ」

 そう笑って身を乗り出し、ゆかりがライターを付けようとした。それを「おれがやりますよ」と言ってライターをひったくる。

「ちょっと」

「ふふ。新鮮な体験だ」

 鼻が高いから気を付けてくれよ、なんて軽口を叩く男に、鼻毛を燃やしてやるつもりで勢いよく火をつける。だがオイルが減っているのか、火は「よっこらせ」とでも言いたげにもったりとしていて、年寄りみたいに細かった。

 だがそのせいで、その火越しに、タバコをくわえて目を伏せたその顔立ちが際立って見えた。無駄のない、研ぎ澄まされたシャープな輪郭。その鋭さににわかに緊張が走る。同時に、身に覚えのある匂いがまた、おれの鼻をついた。

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