第8話
嵐がやってきた。
八月の太陽はここしばらく鳴りを潜め、たまたま目に入った昨日の天気予報の通りの雨一色。特に今日は土砂降りと言っても過言ではない。交通機関にも影響があったようで、この町の交通の要である私鉄にも、かなりの遅延が生じていた。
「商売上がったりだな……」
カウンターに座り込みながら、タケさんがつぶやく。だらしなく開いた口から魂がするっと抜けていくのが見えるようで、申し訳ないが笑ってしまった。
「数年に一度の大雨って、テレビで言ってましたね」
「こんな時に外で飯食おうなんて思わねえよな、普通……」
金曜だっていうのによ、と大きなため息をつくタケさん。それを尻目に早くも帰り支度をしていると、綾さんが申し訳なさそうに厨房から声をよこした。
「ごめんねアキ。お客さんが来なそうだから帰ってくれだなんて」
「いえいえ、全然! 気にしないで下さい」
「いやね、もう雨ばっかりで」綾さんは厨房から出てきて、エアコンの温度を一度下げた。「こんな大雨、三上さんは大丈夫かしら。今日もまた、病院に行くと言っていたけど。……そうだ、ありがとね。昨日のこと教えてくれて」
おれは首を振った。結局、昨日の件はすべてタケさん夫婦に任せてしまう形となった。朝起きてすぐ、おれは店に電話をして、昨日の出来事をかいつまんで話した。去年の手紙を見つけたこと、家の前で不審な男を見つけたこと。どうやら空き巣目的ではなさそうなこと。電話越しにも、タケさんの顔が険しくなったのを感じる。
「おまえ、それやべえじゃねえか!」
「スイマセン。ただ、友枝さんがあまり警察に連絡することに乗り気じゃなさそうな感じで……」
「じゃあ、おれから友枝さんには連絡しとくから。あと警察にはおれが言う。捕まりはしないだろうが、気休めにはなるだろう」
「お願いします……」
「いいよいいよ。じゃあ、今日もバイト頼むな」
タケさんに甘えてしまった自覚はある。だがこれ以上、おれや阿久津が勝手に動くわけにもいかなかったのも事実。
「今日はお手数おかけして、すんませんっした」
「いいんだ。ま、おまわりはパトロールを強化するって言ってたけど、どれだけ効き目があることやら」
「友枝さんは、なんて?」
「お前の言ったとおり、あまりことを荒立てたくない感じだったなあ……。もうこれ以上、深入りしねえほうがいいかもな」
タケさんが頬杖をつく。話によれば、友枝さんはたいそう驚いたそうだったけれど、やはり、いまはそれどころじゃないらしかった。なんでも、三上さん――尚之さんの方だ――の体調は悪く、人工呼吸器までつけるような段階になっているのだという。もちろん病院は面会謝絶。ショックだった。ここまでとは思っていなかった。
「息子さんも、有休をとって帰って来るらしい。なんなら同居も考えているそうだから、不審者のことはいったん気にしないでおきます、だそうだ」
「でもねえ。夜中にへんな男がやってくるなんて、ほっといていい問題じゃないと思うけど」
「本人がいいって言ってるんじゃしょうがねえよ。なんだかなあ、拒絶とは言わねえけどよ、ちょっと距離置かれた感じがしたんだよな」
タケさんはとしては、お客さんに干渉しすぎた後悔もあるのかもしれない。申し訳なくなってもう一度謝ると、「いいからお前は早く帰んな。傘は持ってきてるよな?」笑ってくれた。
「はい。今日は大丈夫っす」
「ま、お前ももう気にすんなよ。三上さんのことは、またうちに来てくれるのを待つしかないから」
「はい!」
おれは「お先に失礼します」と言って店を出た。まだ午後の七時前。もはや傘など意味のない横殴りの雨のなか、素直に帰路につく。
昨日のアドレナリンが残っていて、なにか行動に移さないといられなかった。でも、多分余計なことだった。『よっちゃん』は大事なお客さんを失ったのかもしれない。
家に着くころには濡れネズミだった。玄関のドアを開けようとして、わたわたとかばんを探る。だが鍵が見つからない。そう言えば今日、母と入れ違いに家を出てきたんだった。たぶん、そのまま鍵を持っていくのを忘れたんだろう。まったく、今日はだめな日だ。スマホで時間を確認する。午後七時半、店はもう開店している時間だった。
スナック『あわゆき』と書かれたスカイブルーの立て看板が、煌々と光を放っている。今日一日で溜まった体中の淀みを吐き出すみたいに、思いっきりため息をつく。それから、憂鬱な思いですぐ隣にある店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ……って、あんた。なにしてんのよ」
水色の着物をばっちり着こなした戦闘モードの母が、カウンター越しに声をかけてきた。おれは「鍵を忘れた」と一言。あとでまたうるせえぞ、と思いながら、下を向いて左側にあるとびらに手をかけた。その向こうは、入るはずだった自宅の玄関に繋がっている。だから鍵を忘れたときはいつもここを通っていた。さっさとずらかろうとしたが、残念ながらそう上手くことは運ばない。
「ああー! アキじゃん! 久しぶり!」
聞き覚えのある声と共に、背後からぬっと白い腕が伸びてきた。ああ、見事にめんどくさいのに捕まってしまった。
「ねえねえみんな、見て!」
「ちょ……」
おれの襟を掴んで店内へ引きずり戻したのは、大崎ゆかりだ。子どもが一人いるシングルマザーで、歳は三十そこそこだが、一番の古株でうちの主力。母からの信頼も厚い、だからこそ頭が上がらないスタッフの一人だった。
「うわー、しばらく見ないうちにでかくなったなー」
「背え伸びた?」
「いま何年だっけ」
「バイト終わり?」
「あんた彼女できたってマジ?」
客がまだいないからと言って、一斉に話しかけてくるスタッフたち。なにが久しぶりだ、一、二か月会ってないだけだろ。とは言えず、おれは「はい、はい」と適当にあしらう。
「あんたもたまには手伝いなさいよ。ママも忙しいんだからさ」
「なにを手伝うんだよ。酒でも作ればいいのか?」
「生意気ね。あたしたちが一生懸命働いてるときに、上でグースカ寝てるくせに」
「こんな天気じゃ客なんか来ねえだろ」
だがこの空間にいると、憎まれ口をたたきたくなる。するとゆかりがぺしん、とおれの頭を叩いた。
「いてえ!」
「バカね。天気の悪い時の方が、意外と雨宿りに来るもんなのよ。あたしの勘じゃ、そろそろふらっとやってくるころね」
んなわけあるか。そう言おうとしたとき、からん、とドアベルが鳴った。まじか。
「いらっしゃいませ!」
ゆかりの言う通り、本当に一人の客が現れた。男は傘を手間取った様子で畳んで、外の傘立てに差しながら、中を伺うようにした。チャンス。この隙に家に入ろうとして、だがそれは叶わなかった。
「傘が壊れてしまって。一見さんでも大丈夫ですか?」
「もちろん。男も女もその中間も、人でなし以外は歓迎よ」
その声を背中で聞いて、おれは冗談抜きに、心臓が止まりかけた。
低いテノールに、少し掠れた息が混じるしゃべり方。
「あんた……」
振り返った先にいたのは、記憶に新しいシルエットを持った、背の高い男だった。
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