第7話
「あら、はじめての朝帰りかと思ったら」
家に帰ると、すでにスタッフは退勤したあとだった。カウンターに座り、帳簿を付けていた母がそうからかい気味に声をかけてきたことでそれを悟る。
スナック「あわゆき」には、現在十五名ほどのスタッフが在籍していた。とはいえ、常勤しているスタッフは三名程度。他は学生であったり、ダブルワークでちょこちょこ入るフリーターや主婦で構成されている。出産を機に会社員を辞めた母親が、借金をして一念発起始めた店だ。それが十五年以上続いているのだから大したもんだと思う。
店内を見回す。神経が過敏になっているのか、営業中の騒がしさの余韻がだいぶ薄れているのを感じ取った。閉店してからだいぶ時間が経っているらしい。人によってはべらべらと話しながら朝まで時間をつぶしていることもあるため、運が良かったと息をつく。時刻は二時過ぎ。駅前に戻り、二十四時間営業のマックで話し合いをしていたらこの時間になった。入口のフロアマットで軽く水滴を払っていると、母親が「ちょっと、汚れるでしょ。外でやんなさいよ」と声をかけてきた。
「あと洗いものお願いね。あんた昨日もサボったでしょ。決めたことくらいやってよね」
「疲れて帰ってきた息子にかける言葉がそれかよ」
「あら、彼女とお楽しみだったんじゃないの」
面倒になって、おれはそれには答えずにそのまま奥の厨房に向かった。水に漬けてある食器を洗いながら、おれはでかいため息をつく。母は何度言っても、食洗機を導入しようとしない。無心で汚れを落としていると、先程のやり取りがぼんやりと思い出された。
「とにかく明日、友枝さんにこの話をすべきだ」
おれはコーヒーを飲み干し、阿久津に言った。だがあいつは、
「あいつはまた、来年の八月十三日にならないと来ないんじゃないか」
と言う。バカな、そんな保証がどこにある――おれは言ったが、内心、こいつの言う通りな気もしていた。現に去年の夏から今年の夏までの一年間は、とくに事件は起きていないのだ。あいつは八月の十三日に固執している。だからわざわざ、予告状まで送って来る。並みの執念ではないからこそ、決めたやり方は守る。ほんの五分やそこら話しただけの男を、そんなふうに判断している自分がおかしいのはわかっていた。
だが最悪のケースを想定した場合、状況を注視するというのは悪手だ。たしかにやつが一風変わった人間であることは確かだけれど、あんな物騒な人間を放っておくわけにもいかないだろう。結局、まずタケさんに報告して、そのあと友枝さんに話し、できれば警察に連絡するよう説得してみるということで話はついた。
「なにか恨みでもあるんだろうか」
帰り際、阿久津がぼそ、とつぶやく。おれはううん、と唸った。けしてそんなふうには見えない。おれはこの一年ちょっとのあいだの、三上さん夫婦との交流を思い出す。
接客をしていると、色々な人間に出会う。小鉢の置き方一つで激昂するような人間がいることを、おれはバイトを通じて知った。だがそんな中、三上さん夫婦はとても良識のある人だったように思う。彼らに会って、一度も嫌な思いをしたことなどない。人の恨みを買うような人ではないと思う。が。
「それは宏太を問題児だと思い込んでいた大人と変わらないのかな」
グラスを乾いたタオルで拭きながら、おれはつぶやく。結局おれはまだ、三上さんの表面しか知らないのかもしれない。たんぽぽの花ばかりに気を取られ、葉っぱにまで意識が行かなかったあの頃と同じように。
グラスに映った自分の顔を見つめていたら、なんだか頭がぐるぐると回るようだった。諦めて食器を所定の位置にしまい、母の小言が始まる予感を察知して逃げるように二階に上がる。
ベッドに倒れ込むと、改めて今日のできごとが走馬灯のように駆け巡った。三上さんは明日も病院だろうか。一度、お見舞いに行きたいと思うが、しつこいと思われるのも嫌だ。あくまで三上さんはバイト先の居酒屋のお客さんなのだ。親戚でも親しい友人でもない。出しゃばりすぎたらいけない。でも放ってもおけない。
深夜の静寂が鬱陶しくなり、テレビをつけた。深夜のバラエティの、ちょうどよいざわめき。だがその画面にはL字型に緊急の天気情報が表示されている。雨雲の連なる線状降水帯が、日本列島の形にそって見事に発生しているようだ。一部地域では警報級の大雨になっているという。明日は関東も非常に激しい雨が降るらしい。小雨の続くいまも、嵐の前の静けさというわけだ。
おれは寝返りを打ち、いつまでも天井を見つめていた。おれにできることはなんだろう。答えのない問い、だからと言ってそれをぽいっと放り出すほど、おれは子供でも、ある意味で大人でもなかったのだ。
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