第6話
外灯の人工的な光を受けるアスファルト。その上に腰を下ろすと、ジーパン越しにほのかな熱が尻に伝わった。昼間にため込んだ熱を少しずつ放出しているのだろう。しっとりした空気の真夏の夜は、短いとはいえ、次に朝日を拝むまでにはあと七・八時間はかかる。
「あんぱんと牛乳持って張り込みなんて、将来は刑事だな」
「おれは公務員なんてガラじゃねえよ」
「そのへんの警察官よりも正義感あると思うけどな。深夜にそこまで親しくない年寄りの家を見張ってるんだから」
「いやいや、お前が言いだしたんだろうが」
阿久津はすました顔でおれの抗議をやり過ごし、「聞こえるぞ」とおれを冷静にさとす。ついでに「あんたは自分が思ってるより声がでけえんだよ」と付け加えた。自覚はあるので、おれはう、と押し黙る。
おれたちはいま、住宅に囲まれるように存在する小さな公園の前に座っていた。さすがに家の前に男が二人突っ立っていたら、こっちが通報されかねないと思ったのだ。だがここからでも三上さんのうちはよく見えた。灯りはすでに消え、昼間に訪れた家からは静の気配しか感じない。ストーカーじみているというのはわかっていた。でも。
「今日だけ……。今日だけ見張って、なにもなければそれでいいんだ」
迷った挙句、友枝さんには手紙の件は伝えていない。確信のないことでこれ以上気を滅入らせたくはなかったからだ。あんぱんの最後の一口を喉に流し込み、おれはじっと目標を見つめた。この辺りには公園にしか外灯がなく、新月に限りなく近い月は灯りとしてはほとんど機能しない。住宅街は静寂と暗闇に包まれていた。
どれくらい時が過ぎただろう。早くもおれはうとうとし始めた。ポールに腰かけた阿久津が時折、ひざでおれの背中を軽く蹴る。その度はっとして意識を取り戻す。目薬でも持ってくればよかった。しょぼしょぼとする目をこすりながら睡魔と戦っていると、あるとき、視界にその空間にはなかった小さな赤い光を捉えた。
なんだ?
おれはじっとの方向に焦点を合わせる。するとその赤い光がゆらめき――いや、ゆっくりと動いている――その奥にぬらり、と一つの人影が見えた。
だれかいる。
誰かが近づいている。
そう脳が状況を認識した瞬間、脳に血が巡り、次に体が覚醒していくのがわかった。おれは息を殺し、ゆっくりと立ち上がる。
そこそこ上背のある男、わかるのはそれだけだった。男は坂を上がり、三上さんの家の前で立ち止まる。
ビンゴだ。
心臓が早鐘を打つ。マジかよ。覚悟をしていたものの、にわかに男のもとへ向かおうとして、足が震えているのに気づく。
おれは信じられない思いで足元を見た。おいおい、なに怖がってるんだよ。いざというときに情けない。このためにおれはわざわざここで待っていたんじゃないか。
そんなおれの葛藤をものともせず、阿久津がおもむろに歩き出した。それを見て、おれも必死で歩を進める。男までは約二十メートル。臆することなく、この後輩はその男に向かって声をかけた。
「律儀に犯行予告までしてもらって申し訳ないが」
男が、ゆっくりと顔を上げる。
「今日は帰ってもらおうか。かよわい年寄り一人相手に悪さしちゃ、あんたも寝覚めが悪いだろう」
男は無言で、タバコをふかしている。さっきの光はその火種だったのだと、今更になって気づく。それはまるで蛍のように、明るくなっては昏くなるのを繰り返した。
「あと、路上喫煙もな」
阿久津は物怖じせず、とはいえ煽るでもなく、男に問いかけた。おれは阿久津の隣に立つ。どこかなつかしい、クセのないタバコの匂いが生温かな空気に乗ってやってくる。やがて男は、右手でポケット灰皿らしきものを取りだし、そこにタバコを押し付けた。赤い光が完全に途切れ、ふう、と息をつくのが聞こえた。
「……ずいぶんと喫煙者に厳しい時代になったもんだ」
乾いた声だった。そして、なにに例えることもできないような声でもあった。得体のしれないものに触れたときの緊張感。おれは思わず喉を鳴らした。そんなおれの動揺を知ってか知らずか、男は、ふふ、と息だけで笑う。おれは飛び出しそうな心臓を抑えながらも、この状況で笑う男に、恐怖とは違うなにかが湧き上がってくるのを感じた。
「どこへ行っても嫌われものってか」
「……あんたが三上さんに手紙を書いたのか?」
「そうだ」
男はさらりと肯定した。おれは多少暗闇になれた目で、まじまじと男を見る。表情ははっきりとは見えないが、どこか雰囲気を緩んだのを感じた。阿久津が続ける。
「それで宣告通り空き巣に来たってか」
「空き巣ぅ?」
男がすっとんきょうな声を返す。それからふうん、となにかを言いたげに笑った。
「へえ、そういう話になってるのか」
「……どういうことだ」
だが男はなにも言わずに、暗がりの先にいるおれたちと、逃げることなく対峙する。おれは小さく、それでも力をこめて声をかけた。
「あんた何者だ。目的はなんだ」
「それはこっちのセリフさ」
「どういうことだよ」
「おれからしたら、夜道でいきなり話しかけてくるやつの方が不審者だぜ」
屁理屈に付き合っている場合ではない。こちらの緊張や焦りとは裏腹に、男はのんびりとした仕草で手首を天に掲げる。あるはずのない月明かりを頼りに腕時計の文字盤を見ているようだ。
「今年もまた失敗か」
「今年も? 失敗? やっぱり去年の手紙もあんたのしわざか」
「この状況で、おれ以外に誰がいるよ」
開き直る男の態度に、呆れるほどには余裕が出てきた。おれは一歩、男に近づく。
「あんた、ずいぶん三上さんに執着してるらしいな」
「さあね」
「失敗ってどういうことだ」
「言葉通りさ。また来年に持ち越しだ」
「来年の八月十三日、またここに来るってか? 律儀に脅迫状を送って」
男が頷く。表情は見えないが、伝わる空気には男の笑みが滲んでいるようだった。
「てことで、おれは退散させてもらう」
「待て。いまから警察に連絡させてもらうぞ」
「おかしいな。去年は通報されなかったのに」
どこか他人事のように話す男にじれる。男のペースに乗せられつつあることにおれは気づいていたが、受け入れるのはシャクだった。
「……」
「ま、通報されるのはおれも困る。これでも妻子持ちなんでね。おれが捕まれば仕事もクビになって、家族が路頭に迷っちまう」
「だったらこんなことしきゃいいだろ」
「そうはいかない」
男の声から、軽妙さが消えた。
「おれはこの家のジジイに大事な用があるんだ」
その言葉は、宵闇に硬く響いた。その言葉の意味を測りかねている間に、男は背を向け、坂を下り、やがてうす闇に飲まれて消えた。追いかけようとして、しかし阿久津がおれの腕を掴んで引き止める。
「おい……」
「雨だ」
言われて、天を見上げる。頬に一滴の雫の感触。降りそうだとは思っていたが、ずいぶん突発的だ。にわか雨だろうが、水滴は頭に、腕に、首に、次々とその冷たさを伝えてくる。
「傘、持ってねえんだよな」
突然の雨に、あの男へ繋がる道を遮断された感じがした。いまから追いかけて問い詰めても、伸ばした手を躱されるだけ。まるで蜃気楼を掴もうとあがいて、結局は徒労に終わるような、そんな予感に気圧された。男は自分たちの手に負えるような存在ではないと、体が理解しているようだった。おれは負けおしみのようにつぶやく。
「なんだったんだよ、あの野郎」
「少なくとも、空き巣ではなかったようだな」
阿久津は変わらず感情の読めない温度で、さらりと返す。
「じゃあ、なんだよ。やっぱり愉快犯か」
「いや、今日中に――八月十三日中に、じいさんに会うことが目的だったんだろ」
夏の虫の声が、やけにうるさく聞こえる。おれは負けじと続けた。
「だから、なんのために?」
「手紙には忘れ物とあった。じいさんが持っている何かを、取り返しに来たんじゃないか」
「忘れ物って……なんだよ」
答えを持たないとわかっていて聞いた。だが忖度や遠慮というものからは程遠いこいつは、おれの脳裏によぎったのとまったく同じ答えをはっきりと口にした。
「最悪、命とか」
息を止めた。そして男が消えた先に目をやる。でもそこにはなんの余韻もなかった。アスファルトに染みた水の匂いのほかに、この場所にはなにも残っていない。そして、おれたち以外のすべてが眠っている。男など最初からいなかったかのように、空も雨も沈黙していた。
「……」
ただひとつ――かすかなタバコの残り香だけが、男が確かにここに存在したことを証明しているようだった。
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