第3話


「急に押しかけてしまって申し訳ありません」

 三日後、おれたちは三上さんの自宅を訪ねていた。八月十三日というお盆真っ盛りにもかかわらず、奥さん――友枝さんという――は快くおれたちを迎え入れてくれた。

「いえいえ、良いのよ。こんなめんどくさいところまで、来てもらっちゃってごめんなさいね」 

 三上さんの自宅は、商店街からは少し離れた山側にあった。足が悪いから、坂の多い道は老夫婦にはきつかろう。話によればいつもはバスを使って、駅前まで来ているという。

「入院されていたなんて、知りませんでした。ほんとに、」

「しょうがないわよ、年寄りだもの。今年でもう八十六なのよ?」

「全然見えませんでした。その……」

 友枝さんは明るく振舞っていたけれど、その顔はいつもの二倍くらい白く、血色が悪かった。消して病状が明るくないことは、すぐに見て取れる。このテーブルの周辺だけ重力が強くなった気分で、口を開くのすらエネルギーがいる感じがした。

「この時期に肺炎こじらせるなんてね。インフルエンザにもなったことないのに」

「肺炎……」

「年寄りの肺炎は赤信号ね。もう、毎日バタバタで。まさか救急車に乗る日が来るなんて、思ってもみなかったわ」

 友枝さんはこのあとも病院に向かう予定だという。そんな大変な事情があったとは知らなかった。この時間に来るべきではなかったかと後悔する。阿久津が午前中は用事があると言うものだから、この時間になってしまったのだ。なんだか申し訳なくなって、おれは身を乗り出して言う。

「なにかできることがあったら言って下さい。おれ、なんでもしますから」

「ありがとう。それじゃあちょっと、一緒に探し物をしてくれる? 病院に提出する書類がね、ちょっと見当たらないの」

「わかりました。任せてください。それと、その前に」

 おれは向かいに座る友枝さんに、背筋を伸ばして言った。

「尚之さんにも直接お話ししたかったんですが……その、先日はご寄付を頂いて、本当にありがとうございました」

 改めて頭を下げる。おれたちは本来、それを言いに来たのだ。隣の席についた阿久津も、同じようにする。友枝さんはおれたちに紅茶を勧めながら、「いえいえ」と上品に笑った。

「ほんとうに、代表も感謝していました。やっぱりきれいごとだけでは、立ち行かないところもあるらしいので」

 そう、三上さんは先日、おれたちもその活動に参加しているNPO法人『かがやき』に、多額の寄付をしてくれたのだ。きっかけは、『よっちゃん』に来た際に、おれがぽろっと塾の話をしたこと。担当している小学生がとても優秀なこと、すでに連立方程式にまで手を出そうとしていることを伝えたら、深い関心を寄せてくれた。それからすぐに、本部に申し出があったという。

 かつて受けた寄付の中でも最高額だと聞いた。具体的な金額は伏せられたが、多分想像より一桁多いと思うよ、と佐々木さんに言われたので、考えるのをやめた。世の中には立派な人がいるものだ。おれが同じ立場だったら、そんなことがポンとできるだろうかと考えたりした。

「わざわざありがとうねえ。でも、そんなたいそうなことじゃないのよ。この年になると、逆に使い道が無くて困るものなの」

 さらりとした友枝さんの口調には嫌味がない。きっと本当のことだからだろう。お金の使い道がなくて困るとは、いつかは言ってみたいセリフだ。その立ち居振る舞いから余裕のある暮らしぶりは想像できたが、実際に家を見て確信した。昔から歴史ある住宅が立ち並ぶ山の上、その中でも見劣りしない立派な佇まい。庭は広く、車庫にはアウディと軽自動車が並んでいた。おまけにシベリアンハスキーもいて、番犬なのか、敷地に入った途端に吠えられた。

 詳しくはないが、紅茶だってそこらのものよりずっと香り高い気がする。ありがたくそれを飲み干して、おれはいつ例の手紙について触れるべきか逡巡した。

「それじゃあ、お願いしちゃってもいいかしら」

 だが機会を逃した。おれたちは了承して、とりあえず友枝さんに続いて二階に上がる。いくつかある部屋の中で十畳ほどの畳の部屋に通された。大きなタンスや鏡台、本棚などが所狭しと並び、さらに段ボールも数箱摘まれている。まるで物置きだ。押し入れの中にもたくさんの引き出しがあるの、と友枝さんが困り顔で言った。

「それとこの中のどこかにね、限度額認定証? っていうのがあるみたいなのよ。あと前の病院でもらった資料もね、一応持っていこうと思うんだけど、もう、そう言うのぜんぶ自分で管理してたから、どこにあるか分からなくって」

「わかりました。探してみます。高いところは任せてください」

 書類の特徴を教えてもらい、友枝さんには下でゆっくりしてもらうことにして、二人で手分けしてお目当ての書類を探す。三上さんたちがここに越してきて七年ほど経っているはずだが、畳はまだ若いい草の匂いがした。壁にも染み一つ見当たらず、新築のピカピカの空気が抜けていない、そんな気がする。本来ならそろそろ住人の気配に馴染んでくるころなのに。どこかこの部屋は、人に対してよそよそしい感じがした。

 一方で、まるでタイムカプセルを開けたときのような――どこかしっとりと閉ざされたような空気が立ち込めている気もした。ちぐはぐな感覚にタンスを漁る手を止めていたころ、無言で本棚の前に立ち、白のバインダーファイルを漁っていた阿久津がつぶやく。

「ここにあるかもしれない」

「マジか?」

「ここら辺に医療関係のがまとまってる。領収書とか処方箋とか、全部取ってあるぜ。ずいぶん几帳面なじいさんみたいだな」

 おれは手を止めて、阿久津の持っているファイルを覗き込む。それからそのビニールポケットの中にある、それらしき紙を指さした。

「お、これじゃねえか?」

「こんな小せえやつだったのか」

『限度額適用認定証』と書かれているのは、はがきよりひと回り小さな紙だった。目的のものがまず一つ、早々に見つかった。また、以前通っていたと思われる病院の診断書等もわらわらと出てくる。

「へえ。三上さんって長野に住んでたのか」

 おれは資料に書いてある、病院の住所を見て言った。棚から別のファイルを取りだしてぺらぺらとめくっていた阿久津は、それに答えるように追加した。

「診断書ならまだあるぜ。二〇一三年、十年前か」

「三上さん、この時から足が悪かったんだな……」

 阿久津が頷いた。資料を整理したところ、二〇一三年ごろまでは長野の病院で足を診てもらっていたらしい。東京に来てから悪化したのだろうか、二〇一六年ごろからは、東京の整形外科で発行された領収書なども見つかった。

「でも肺炎って言ってたし、これは関係なくね?」

「一応、もってきゃいいだろ」

 返事を待たずに、阿久津が書類をまとめ出す。

「ん、了解……って、うん?」

「どうしたんだ?」

「……これ、なんだろう」

 ファイルの一番下に挟まっている一枚の封筒。それは視界のなかで妙に目立った。

 どこか事務的で画一的に印字された資料の中に唯一、手書きの宛先。それは異質だった――一見なんの変哲もない封筒だが、それは黒髪の集団の中にたった一人いる金髪みたいに、なぜかおれの目を惹いた。

「これは……」

 手に取った封筒には、さらさらと流れるようなボールペンの字跡。住所のほかは三上さんの名前、「三上 尚之さま」と書かれているだけで、裏を見ても差出人はない。

 ふいに訪れた沈黙。なにを思ったのか、阿久津はおれの手からそれをすばやくかすめ取り、棒読みで「手が滑った」と言うと、わざと封筒の口を下に向けて振った。

「お、おい」

 すると中の紙が――おそらく阿久津の狙い通り――重力にしたがってひらひらと落ちた。あわててその一筆箋を拾い上げ、その文字を見たとき。

 心臓がひゅん、と縮むような感覚がした。

「おい、これって……」

 阿久津もおれも、一瞬、動きが止まった。

「『やっと見つけた。今年こそ、忘れ物を取りに伺います』……?」

 腕時計の針の音が聞こえる。おれは小さくパニックになる。

「おいおい、タケさんが言っていた手紙って、これのことか?」

「……いや、消印が去年だ」

 阿久津は冷静につぶやいた。二人しかいない畳の部屋で、こそこそと身をよせて作戦会議する。

 見つけた手紙の消印は、『22・8・10』、つまり去年の八月十日。ということは、タケさんの話が本当なら、同じような手紙が去年も来ていたことになる。少なくとも二年連続で、こんなにも怪しげな手紙が。

「『やっと見つけた』ってことは、それまでは居場所がわからなかったようにも聞こえる」

「確かにな……にしても同じ時期に二年続けて似たような手紙が来るって……」

「ま、穏やかな話ではないだろうな」

 阿久津は手紙を慎重にしまうと、何事もなかったかのようにバインダーファイルに戻した。密やかな話し合いの末、おれたちはさりげなく、この手紙について話を聞いてみることにした。収穫物を手に一階へ降りる。居間では友枝さんが、観葉植物に水をやっていた。

「友枝さん、見つかりました」

「え、本当に!?」

 友枝さんはたいそうよろこんでくれた。「私も最近腰が悪くてねえ」と笑いながら、資料を別のファイルに入れて鞄にしまう。さらに嬉しそうに、「よければお昼、食べていったらいかが?」と提案してくれた。すでにいつもの喫茶店で早めのランチをとっていたというのに、阿久津は食い気味に「食べます」と即答した。

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