ゆき待つ夏の雨宿り

第1話

 雨の匂いがした。

 ドアを開けた瞬間流れ込んできた風の、その匂いが湿っている。おれはその匂いを肺いっぱいに吸い込んで、それから空を見上げた。

 コンクリート色の雲が、まだ夕方の夏空を覆っている。この空模様じゃあ、帰るころには土砂降りかもしれない。昔からそう言う勘はよく働いた。おれはポケットに手を突っ込んで、気持ち駆け足で家を出る。

 だが家を出るときに雨が降っていなければ、傘を持って行かないというのがおれの信条だった。たとえ水を限界まで吸いこんでビタビタになったスポンジのような、あるいは泣くのを必死で我慢している子供のような、ほんの少しのきっかけで決壊してしまう不安定な空でも、それに耐えているうちは、おれは傘を持たない。おうおう、頑張ってるじゃねえか。じゃあおれも男気見せねえとな。とかなんとか謎の理由を付けて、それで結局濡れネズミになって帰ってくるのだ。そして母親に呆れられ、自分で洗濯しなさいよと怒られるまでがセットだった。

「はざーっす!」

『居酒屋 よっちゃん』ののれんをくぐるなり、おれはデカい声であいさつした。ちょうどカウンターを拭いているタケさんが、おう、と返してくれる。

「アキ、今日は早めに開店するぞ。大雨みたいだから、そこまで人入りは良くないだろうけどなあ」

「やっぱ雨降るっすか」

「なに言ってんだ。昨日からずっと天気予報でやってるじゃねえか」

 タケさんが呆れたようにおれを見る。おれはマジすか、と言いながら、厨房の奥にいるであろう奥さんに声をかける。

「綾さん、おはようございまーす!」

「はいはい、おはよう」

 蛇口を締め、手を拭きながら現れたのはタケさんの奥さんの綾さんだ。夫が実家の居酒屋を継ぐのに二つ返事でついてきた彼女は、いつも化粧っ気のない、運動部のマネージャーのようないでたちでいる。持ち前の明るさと竹を割ったような性格で地元民にすぐに溶け込んだ綾さんは、すでにこの店の新しい看板娘として定着しつつあった。

 先代の奥さんが倒れ、この店も閉店かと思われた矢先。息子夫婦は店の味を消したくないという理由で、この町にやってきた。それからは早かった――先代から味を継承して一か月も経たないうちに店は再開され、あれよあれよという間におれもまた働くことになった。

 彼らに会うのは初めてだったが、昔からずっとそこにいたかのように、おれたちの歯車は噛み合った。彼らのおかげで、おれの雇用も守られたのだ。ありがたいことだ。

「今日もよろしくね」という言葉と共に差し出された手には、色あせたえんじ色のエプロン。おれは礼を言い、いそいそとそれを見につけた。ぎゅうっと腰で紐を縛ると、気合いが入る。仕事モードのスイッチが入る瞬間だ。

 おれは外に出て、『仕度中』の木札をひっくり返した。タケさんのいう通り、すでに小雨がパラついている。客はまだ来そうにない。雨の日はなにもかもが遅いのだ。ランチならまだしも、灰色の夕方は特に。雨は人の足を鈍らせる――手持無沙汰にテーブル席の調味料をチェックしていると、そういえば、と綾さんが話しかけてきた。

「そう言えばこの前来た背の高い子。また来てくれるかしら」

「ああ……」

 おれは苦笑した。

「阿久津ですか?」

「ええ。食べっぷりがこう、気持ちいいのよね。あんな見た目なのに、でも絶対お酒は飲まないし。ほんと、面白い子」

 綾さんは思い出しながら笑う。そう、阿久津は前回の宣言どおり、この店に現れた。呆れるくらいに飯を食い、元運動部の胃袋の性能を大いに発揮して帰っていたのだが、その一回だけでも綾さんの印象には強く残っていたらしい。たしかまた今日来るって言ってましたよ。そう言おうとしたとき、店のドアが開く音がした。

「あら、噂をすれば! いらっしゃい」

「来たなー、腹ペコ坊主」

 無口で何を考えてるかわからないのに、阿久津には人を惹きつけるなにかがある。というより、年上に可愛がられる才能というべきか。また来たのかよ、と言った自分の声が妙に上ずっているのが恥ずかしく、おれは雑におしぼりをカウンターに置いた。

「いつものください」

「お前一回しか来てないだろ」

 こいつはこうやってよくわからないボケをすることがある。なのにおれの突っ込みをスルーして、阿久津は壁のメニューを指して言った。

「デカいから揚げみたいなやつ……」

「山賊焼き?」

「そう。それと揚げ出しとライス、肉じゃが。あとウーロン。とりあえず以上で」

「お前さ、定食屋じゃないんだから……」

 居酒屋に来る客はだいたい二種類に分けられる。一番は仲間と話をしにくる人。二番目はおれたちと話したくて来てくれる人。しかしごくまれに――こいつのようにただ食欲を満たすためにくるやつがいる。居酒屋で酒も飲まずに黙々と飯を食ってるやつなんてそうそう見ない。だがこいつは気にした風もなく、騒がしい店内でぞんぶんに飯を味わって帰っていった。また来たということは、そうとうお気に召したのだろう。一般的な居酒屋からしたらリーズナブルなので、若い客が来やすいというのもある。なんにせよ金を落としてくれるぶん、ありがたいっちゃありがたい。

 それから一時間あまり、一組、二組と客がやってきて、予想は外れていつものにぎやかさを取り戻していた。ポテサラをおかずにおかわりのライスをかきこむこいつを信じられない思いで見ていると、料理の提供がひと段落したのか、タケさんが厨房の中からおれたちに話しかけてきた。

「そうだ、お前たち。ちょっくら話聞いてくれるか?」

「なんすか?」

「三上さんっているだろ。昨日、珍しく奥さんが一人でうちにきたんだけどよ……。あのご夫婦のとこにな、変な手紙が来たらしいんだ」

 タケさんは腕を組んで、眉を寄せて話し始めた。

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