最終話

 七月二十日。

 その日は新しいバイト先が決まった日。

 そしてハルや宏太の通う小学校の、終業式の日でもある。

「先生、ポスターに落書きした人、見つかって怒られてたよ」

 塾を出て駅へと向かう道すがら、ハルが言った。

「宏太の容疑が晴れて良かったな。で、誰の仕業だったんだ?」

「それは……綾ちゃんたち」

 ハルは少しだけ俯いた。目元に小さなまつげの影が落ちる。

「綾ちゃん? って、まさか加藤さんの? よく三人で一緒に帰っていたよな?」

「うん。でも、よくふたりでも遊んでたから。知らなかったの。今度ひいらぎ団地で夏祭りがあるんだけど、そのポスターに落書きしてるところを、教頭先生に見つかったって言ってた」

 ゼーキンドロボー、育ちがワルイ、ビンボー人がいっぱい来る!、社会のテーヘン。はずかし~。むり。

 ポスターに書かれた言葉を思い出す。小学三年生がそんな言葉を知っているわけがない。おれはこいのぼりまつりでの加藤さんを思い出し、寒気がした。セミがみんみんとうるさい。鳥肌はざらざらと、その手に不快な感触を残した。絶句して、それから「そうか……」と言うのが精いっぱいだった。

「なあハル、宏太はどんなやつだった?」

 もうすぐ駅に着く。おれはそれまで、聞きたくても聞けなかったことを聞いた。

「道宮くんは……変わってる。でも、面白い人だよ」

「うん」

「それで……クラスで一番やさしいよ。わたしね、お父さんがいないんだけど、その話をしたら、一緒に探すって言ってくれたの。お父さんは一年前、迎えに行くって言ったのに、来てくれなかった。塾の入り口で、わたし、ずっと待ってたのに」

「うん」

「だからね、わたしが塾にいるときは、外で見張っててくれたの。来たらすぐわかるように。間違って帰っちゃったりしないように。でもね、人がいるところでは、わたしと話したがらないの。庭の花を摘んだり、睨んだりするから、先生たちも困ってて、言い出せなかったの……。その、先生、わたし、」

「謝らなくていいんだ、ハル」

 おれはハルの言葉を遮った。

「え……」

「ハルはすごいよ。勉強もできるし、字もきれいだし、なにより人を見る目がある。宏太のやつ、わかりづらいけど、ただハルに笑ってほしかったんだろうなあ」

 ハルはまた少し頷いた。さっきよりもその口元がちょっぴり嬉しそうなのを見て、その小さな頭にぽんと手のひらを乗せた。

 駅について、おれたちは南口に向かった。嫌というほど見覚えのある巨人を目印にして、そばにいる推定五十代と思しき女性と、宏太を見つけた。

「スミマセン、暑い中お待たせてしまって」

 駆け寄ると、女性が神妙な顔つきで頭を下げた。まるで体育の先生のような、細く、ハキハキした雰囲気の人だった。想像していたばあさんよりずっとエネルギーがあるというか、力強いかんじだった。そりゃそうか。だってまだ、宏太は八歳だ。ばあさんだって若いはずだ。おれはまず、宏太に向かって言った。

「よお、元気だったか」

「……ふつう」

 クソジジイと言わないのは、となりにばあさんがいるからか、それともハルがいるからか。それをいいことに、おれは宏太の髪をぐしゃぐしゃとかきまぜた。

「はあー!? やめろ!」

「宏太、お世話になった人にそんな口きいたら駄目でしょう!」

 すかさず、宏太のばあさんがびしっと口を挟む。そして改めておれに向かいなおった。

「このたびは娘の家族の件で大変お世話になりました。ほんとうにご迷惑をおかけして……もう、言葉が出ませんわ」

「いえ、お気になさらず! おれはなにもしてませんし」

「そんなことありませんよ。お話を聞きました。あなた方がいなかったら、宏太はただの問題児のレッテルを貼られたままでした。だから……本当にありがとうございます」

 おれは素直に、「はい」と頷いた。宏太はソワソワと、あっちを見たりこっちを見たり。

「宏太、元気でな。たまにはこっちにも遊びに来いよ。なあ、ハル」

「うん」

「……」

「お父さんのこと、探してくれてありがとう」

 宏太が顔を上げ、ハルの顔を見た。

「でもね、もう大丈夫だよ。最初は寂しかったけど、いまはもう大丈夫なの」

「うん」

「わたし、黄色が好きだから、たんぽぽも嬉しかった」

「うん」

「……ウサギ小屋のエサが切れてたなんて、わたし気づかなかった。道宮くんは、すごいね」

「うん」

「また会おうね」

「うん」

 ハルと宏太が交わした会話は、それだけだ。でも、彼らの間に、彼らにしかわからないなにかが確実にあった。宏太の口元が、嬉しそうにむずむずとしていたから。それは阿久津にも、ばあさんにも、ちゃんと伝わっていただろう。

 乗る予定の電車の五分前、旅行かばんを持って、宏太とばあさんは改札の中へ消えて行った。ばあさんは何度も手を振った。宏太は姿が見えなくなるそのときに、一度だけ振り向いた。そして少しだけ、手を振った。

 これからの宏太の人生が、そのやさしさに見合うものであるように。

 そんな思いを込めて、おれも大きく手を振った。


「宏太のすごいところは、どんなに自分が辛くても、だれかれ構わず当たり散らしたりしなかったことだな。おれとは違うよ。高校生のときのおれより、ずっと立派だ」

 靴に当たった小石が跳ねた。いつもの商店街は、駅前に負けず賑わいを見せている。

「たんぽぽに八つ当たりしてただけで、あんたもそんなに変わんないと思うぞ」

「……そうかあ? おれはバレー部からも逃げたし、学校もサボったし、オフクロとも大喧嘩したからなあ。ブチギレられて、その後が大変だったけど」

「変わんねえよ。センパイの方が黒歴史っぽいだけで」

「ああ、そう……どうもすみませんね。黒歴史で」

 いつもの喫茶店に行きたいというから付き合ってやってるのに、おれに対する態度が太平洋よりもデカいのはどういうことか。おれの懺悔をあくびと共に一蹴したこいつは、そんなことより、と続けた。

「センパイ、新しいバイト見つかったのか?」

「いや、実はさ。前のバイト先の居酒屋、息子さんが帰ってきて再開することになって。結局戻ることになった」

「ふうん」

「それがすげえの。オヤジさんの味そっくりでさ。イカとショウガの炒め物とかさ、揚げ出し豆腐も再現度がすげえ。うちの揚げ出しって変わっててさ、カレー風味なの。上にもやしとえのきが乗ってて……」

「行きたい」

 食い気味に阿久津がおれを遮る。

「うん? じゃあ来いよ、再来週には再開すっから」

「再来週のいつ」

「え? いや、別に好きなときに来いよ」

「いつ行けばいい?」

「はあ? じゃあ月曜とか……」

「再来週の月曜だな」

 念を押す阿久津。たぶんおれの返信が遅いから、なんとかして言質を取ろうとしているのだろう。

「なんだお前。必死かよ」

「いいか? 忘れるなよ。約束だからな」

「ああ、わかったって」

 額の汗をぬぐう。今日はアイスコーヒーではなく、コーヒーフロートでも頼んでみようか。今日はなんだか、冷たくて、甘いものが食べたい気分だ。

 道端にはもう、たんぽぽの面影はない。だけど土の中には根が残っていて、来年またスギ花粉が飛んでくるころには、またあの黄色い花と、ギザギザの葉っぱをつけて姿を現わすのだ。役に立つわけでもない、だが害があるわけでもない。ただそこにあって、いつのまにか、傍らに咲いている花。

「暑いな。もう真夏だ」

 エアコンの涼しい風を求めて、阿久津は二十メートル先の喫茶店に向かってダッシュした。先を越されてたまるか。そのデカい背中を追いかけるように、おれは強く地面を蹴った。

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