第16話

「ばあさんに引き取られる?」

 梅雨明けの陽光が差し込む窓際の特等席。昨日までの湿気を吹き飛ばすほどの洗濯日和だった。

 阿久津がナポリタンをお行儀よく口に運びながら頷く。すっかりこの喫茶店を気に入ったようで、いつの間にやら阿久津との待ち合わせは駅前からここへと変わっていた。

 おれはとりあえずアイスコーヒーでサンドイッチを流し込んでから、続けて聞く。

「宏太が? 一人で? いつ? どこに?」

「夏休みに入ったらすぐ、山梨の方の、母親の実家に。あの母親の親にしてはずいぶんできた人で、あの件に関して娘の愚痴を聞いて、学校に連絡を入れ、姉貴から事情を聞き、そこで事態を把握したらしい」

「そうか」

「うっすらと勘づいてはいたみたいだがな、娘夫婦の子育てに口出しするのを躊躇っていたらしい。本当にいい機会だったと、感謝されたと言っていた」

 アイスコーヒーの氷がとけて、からん、とコップにこすれる音がする。スプーンを使わず、阿久津は器用に最後の一口を器用にフォークに絡めた。

「その……宏太は、元気にしているのか」

 阿久津は少し間を置いて、「たぶんな」と言った。

「姉貴はおれたちには話さなかったが、なんとなく事情は察していたらしい。弟が有名大学付属の小学校に通っていること、親の勤務先からしてそこそこ裕福そうなのに、いつも同じ服を着ていること」

 窓の外に目をやっていたが、阿久津がこちらをちら、と伺うように見るのが分かった。でも、気付かないふりをする。あれほど咲き誇っていたたんぽぽはいつの間にか綿毛となり、黄色は姿を消していた。

「忘れ物が多かったり、親と連絡がほとんど取れなかったり、保護者会やPTAの集まりにも出席しなかったり……衛生的にも、気になる点がいくつもあったり」

「……」

「いまはばあさんがタワマンまで押しかけていて、一緒に暮らしているらしい。もろもろの手続きを夏休みまでに済ませて、そのまま山梨へ連れて行くそうだ。宏太にとっては、いまよりずっといい環境になるだろう」

 その言葉を聞いて初めて、素直に安心した。梅雨の間、しつこい湿気と陰鬱な曇り空とともに、おれの心にのしかかっていた不安にようやく、晴れ間が顔を出した気がする。

「それなら、まあ、よかったよ」

 アイスコーヒーをストローでくるくるとかき混ぜながら、その渦を眺める。

「歯切れが悪いな。あんたらしくない」

「いや、その……おれがやったことって、正しかったのかなってさ」

「……」

「親と離れ離れになるって、いいことだったのかなって。そこが引っかかるんだ。宏太はどうしたかったんだろう。宏太の意志はどこにあるんだろうって」

 阿久津がそんなことか、と言いたげに大げさにため息をつく、おれはむっとして、コーヒーをかき混ぜていた手を止めた。

「なんだよ」

「断言する。毒親とは距離を置くのが一番の正解だ。ばあさんと暮らすことは、宏太にとってきっとプラスになる。だから安心しろ」

「……そうか」

「まだ納得がいってないって顔してるな」

 こういうときの洞察力、他でも生かしてほしいものだと心の内で軽く悪態をつく。

「その……弟の、啓太くん、だっけ。あの子は……大丈夫なんだろうか」

 阿久津が一瞬、呼吸を止めたのを感じた。グラスの縁を親指でなぞるようにして、だが先程と変わらないトーンで会話を再開する。

「ばあさんが定期的にあの家に行って、啓太の様子を見るつもりだとは言っていた。啓太の通っている学校にも連絡して、注視してもらうとも。現状、それくらいしか打てる手はないだろうな。彼らから啓太まで引き離すのは、現実的じゃない」

「……」

「宏太は新たなスタートを切れるが、啓太は、いまだ彼らの執念が絡み付いたまま。だが、おれたちはできるだけのことはした」

 そうだろうか。もっとやりようはあったのではないかと思う。とはいえ、代替案があるわけでもない。おれは目を伏せた。

「すべての人間を救おうなんて、バカなこと考えるなよ」

「え……」

「神様じゃねえんだ。おれたちは」

 一瞬、冷や水を浴びせられたように感じたその言葉の、その裏の葛藤を知っている。あれはいつのことだったか、たしか、高校二年の大会直前のことだ。身内の不幸があってふさぎ込み、メンタルを壊して休みがちになった部員がいた。皆が動揺し、それを本人への同情で隠す中、阿久津は彼抜きでの戦い方をさっさと考えるべきだと宣言した。それを非難するものもいたが、阿久津はそんな陰口をすべて受け止め、一切反論することはなかった。

 阿久津だって本当は、何とかしてやりたいと思っているのだ。だが感情に流されず、理想と現実を天秤にかけることができる。そうせざるを得ないことをわかっているから。ただそれを口に出すのは自分の役目で、他人には同情する余地を残す。決して誰かを悪役にはさせない。阿久津はそういうやつだった。

 力が抜けた。そうだ、そうだな。のど元あたりでつっかえていたものが、すとんと腹に落ちた気がした。おれは返す言葉を探し、以前ははぐらかされてしまったことをもう一度聞くことにした。

「なあ、阿久津」

「なんだ」

「どうしておれに声をかけたんだ?」

「それは……」

 クーラーの真下にある阿久津の髪が、小さくなびく。レモンスカッシュを飲み干し、口を拭いて、阿久津はおれの目を見た。

「ガバガバだから」

「は?」

「ユルユルのガバガバだから」

「……」

 おれはとりあえず黙って、続きを促す。

「もっと言うとな、あんたはいつも素っ裸なんだよ。丸腰もいいところ。武器を持ってないから、相手に危機感を抱かせない。あんただって肩から銃下げた米軍と、虫取りアミ持ってる子どもだったら、前者の方が警戒するだろ」

「はあ……」

「センパイは、へらへら笑いながらチョウチョ追っかけてる子どもと同じ。だから相手は、あんたに心を開くんだ。あんたの心が開きっぱなしだからな。風通し良すぎ。要はユルユルのガバガバなの。センパイのずり落ちそうなパジャマのゴムくらい」

 おぼろげに、何を言いたいかが見えてくる。でもそれを素直に受け取るのがシャクだったので、不満そうな顔を作って見せたら、珍しくこいつが笑った。

「……先輩でも後輩でも怖い部活の顧問でも、高圧的なバイトの面接官相手でも、とてつもなく可愛い女や自分より遥かに背の高いイケメンでも、ジジババでもそこら辺の小学生でも、あんたはまっすぐに、相手と向き合おうとするからな」

 そう言って、阿久津はいつもの真顔に戻った。

「単純そうに見えるけど、そういうことができるやつはなかなかいない。センパイ、だからおれは、あんたに会いに行ったんだよ」

 おまけにぎろ、と視線を強くする。それが照れ隠しだということは分かっていた。そうか、そうだったのか。腑に落ちてから、感じたのは照れ。おれは思う。

 でも、お前だってたいがいまっすぐだよ。おれは割と柔軟だけど、お前はまっすぐすぎて、だからこそ知らんふりできるはずの痛みから目をそらさないんだよな。だから、宏太を助けてやりたいと思ったんだろう? おれも、お前みたいなやつはなかなかいないと思うよ。

 そう言うのはやめた。褒め合うなんて気持ち悪かったから。エアコンがこれでもかと効いているのに汗ばんだ顔を、冷ますように手で扇ぐ。

「センパイ、ありがとう」

 こういうときに直球なのはずるい。「それは姉ちゃんに言えよ」と返したら、それもそうだという顔をしたので、おれは思わず噴き出した。


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