第15話
みなれたノッポと、その隣の小さな赤T。
こちらを見るなり威嚇し始めたチビのその表情を見て、おれは両手をひざについてはあ、と大きく息をついた。それからずんずんと宏太のところまで歩いて、ぐりぐりといがぐり頭を軽く小突く。
「おーまーえー」
すると「触んな!」とキレられた。だがおれの手を払いのけようとしたその手に、黄色い何かが握られていることに気づく。
「おまえ、それ」
たんぽぽだった。十本はあるだろうか。摘んでから時間が経っているのだろう、花はくったりと下を向き、元気がない。隣ではひとまずの安堵を経て、あかりさんが大きく息を吸い、それから宏太を見下ろして言った。
「どこいってたのよ、宏太くん! 心配したんだから!」
「……」
あかりさんの問いかけに、しかし宏太は口をぎゅっとつむったまま。あかりさんは小さく息をつき、阿久津に尋ねた。
「ご両親はまだ帰ってきてないの?」
「ああ。鍵も持ってないっていうから、この前みたいにここで待ってた」
後半はおれに向かって言う。
「宏太くん、お母さんとお父さんは?」
「……」
「どこかにお出かけしてるのかしら」
「……」
「携帯にも出ないんだけど、宏太くん、お母さんがどこにいるかわかる?」
だが、宏太は答えない。答えることを拒んでいるように見えた。阿久津が冷静に、あかりさんに提案する。
「警察に連絡した方がいいんじゃないか? こんな時間まで子どもを一人にして、それで親とも連絡がつかないっておかしいだろ。もう七時すぎだぞ」
「……たしか弟もいたはずだよな。その子の行方も気になる。親と一緒にいればいいけど」
「……!」
だがその言葉に、宏太はばっと顔を上げた。
「ちがう!」
「ちがう? どういうことだ?」
宏太はちがう、ちがうと繰り返した。いつものような鋭さや威勢はなく、泣きそうな声で。地団太を踏むような動きに合わせて、萎れたたんぽぽが、はらり、と静かに散った。
「宏太くん」
あかりさんが、落ち着かせるように宏太の背中をさする。
「……今日、誕生日だから」
「誕生日? 宏太くんの?」
「ちがう。啓太の……弟の」
つまりながら、宏太は話し始めた。
「今日、啓太の誕生日だから。ご飯、食べに行ってる。三人で。……いつ帰って来るかは、わからない」
宏太の弟の誕生日に、宏太を置いて夜まで家を空けてしまう両親。置いて行かれた宏太に、かける言葉を探した。でも、おれが何を言っても宏太を傷つけてしまう気がしたから、結局、黙っているしかなかった。それはとなりの姉弟も同じだったようで、息を飲む音が聞こえてきただけだった。
「じゃあ、お母さんたちが帰ってくるまで、私も一緒に待ってようかな」
「……」
「先生、宏太くんのお母さんとお父さんに、お話したいことあるから」
「……おれ、ポスターに……落書きなんてしてない」
何を勘違いしたのか、宏太がしぼりだすように言った。
「わかってるよ。宏太くんがそんなことしないって、私、わかってるから。だから教えてほしいの。どうして、塾の花壇から花を抜いたり、教室を水浸しにしたのかしら」
あかりさんには、届けたい言葉がある。そして信念がある。決して曲がることのない、一筋の信念が。それは無色透明で、味も匂いもしない。だからこそ相手も素直に受け取れるのだろう。
「花粉が、出ると思ったから抜いた」
「花粉……?」
宏太は真っ赤になって下を向いた。
それを見てピンときたおれは、もう一つ聞いてみる。
「教室に水をまいたのは、ホコリっぽい教室を使いたくなかったからか?」
「うん」
その言葉は、年相応に幼かった。
「たんぽぽは、誕生日だからか?」
「……ん」
「そうだな、基本的に無害だからな。たんぽぽで花粉症になるやつなんて聞いたことないからな」
「……」
「お前は優しいやつだな、宏太」
図書室で騒いでいた男の子とけんかしたのは、ハルが静かに本を読めないから。帰り道に木の棒を持って女の子たちを追いかけまわしたのは、ハルが意地悪をされて、それが許せなかったから。そうなんだな、宏太。返事をしなくてもわかる。
「でも安心しろよ。花壇に咲いてる花のせいで、花粉症が悪化するなんてこともない」
真っ黄色の小さな花束。彼女が見たら、きっと喜んでくれていただろう。あかりさんが微笑んだ。阿久津も多分、心の中では笑っている。そうしたら、宏太は嫌いな食べ物を目の前に並べられたときみたいな顔になった。おれは宏太の頬をぎゅっと両手で挟み込むようにして言う。
「それにしても、保健室から逃げ出すこともないだろうが」
「今日、帰ってくるかもしれなかったから」
「帰る? だれが?」
宏太はおれの手を解くと、ちょっと歩いて、駅の方を見つめた。
夏の匂いを纏った生ぬるい風が、その横顔をなぜる。何かを求めるときの顔だ。何かを手に入れたくて、どうにかしたくて、手を伸ばして、それでもどうにもならなくて、そんな諦めと覚悟を半分ずつ抱えたときの顔。おれはよく知っている。
「子供の誕生日なら、もしかしたら帰ってくるかもしれないから。塾は休みだから、塾には来ない。駅に行けば、会えるかもしれないと思った。一度だけ……お父さんの写真を見せてくれたから」
電車が止まるたびに改札を見つめ、会ったこともない人を待つ。自分ではない誰かのために。きっと、いまと同じ顔をしていたのだろう。湧き上がってきたのは怒り。同じなのだ、宏太も。最初から、宏太は自分の中の、ただ一筋の信念に従っていただけ。なのにどうして表面だけを見て、この子を排除しようとする大人がいるのだろう。
「宏太? こんなところで何してるの」
そのとき、女の人の声がした。
駅の方から歩いてきた誰かが、ふと、声をかけてきたのだ。その人はフォーマルな格好をした男女二人組のうちの一人。そしてその間に小さな男の子もいる。その人が誰だったかを思いだす前に、あかりさんが声を上げた。
「道宮さん!!」
「あら、真野先生。どうしたんですか」
「これは……一体、どういうおつもりですか」
震える声、でもその目はブレることなく彼らを射抜いている。
「ええ? こいのぼり祭りのことでしたら、急用で行けなくなったと加藤さんにお伝えしたはずですが……」
「そういうことを、言ってるんじゃありません」
あかりさんは燃えていた。見るものを圧倒する赤い炎ではなく、静かに人を惹きつける青い炎だ。おれは唾をのみこむ。
「なぜこんな夜まで、宏太くんを置いて外出しているのかと聞いていてるんです」
母親はすこしむっとしたような顔になった。それから呆れたように、俯いた子どもに声をかける。
「宏太、また鍵を持っていくの忘れたの?」
宏太の顔は見れなかった。あかりさんが絶句したのがわかる。堪忍袋の緒が切れたような、今日の今日まで踏みとどまっていた何か、一気に決壊した音がした。それが言葉となって彼女の口から出てくる前に、それまで様子見をしていたスーツの男がとりなすように間に入る。
「まあまあ、私どもにも事情がありまして。宏太を外に締め出していたわけではありませんよ。ご心配をおかけして申し訳ありません。夜も遅いですし、今日はそろそろこの辺で」
中肉中背、やせたメガネの男だった。全国のサラリーマンを抽象化して、ぎゅうっと固めたらこんな男になるんじゃないかというくらい、どこにでもいそうな男だった。
なのに――おれは鮮明に、その顔を覚えていた。ほんの一か月前ちょっと前、おれはこのトカゲ男にボロクソに言われたではないか。
「あんた、この前の面接官……」
「え?」
トカゲがおれを見て、怪訝な表情をうかべる。上から下までジロジロと見、また最後になめるように顔を凝視し、ようやく「あ!」と叫んだ。
「あのときの学生か。きみが何でこんなところに」
「それはこっちのセリフだ」
世間の狭さに驚いている余裕はなかった。私怨をぶつけている場合でもない。
「え?」
「子供一人ほったらかしにして食べるディナーは、どんな味がしましたか」
男が息をのんだ。
「何を……」
「弟さんは、随分ちゃんとした格好をしているんですね。どんなに肌寒い日でも、色あせたTシャツを着させられてた宏太とは大違いだ」
ばつの悪そうな顔は、言い訳を考えているときの顔でもある。そして、おれみたいなやつに指摘を受けて、言い返せないことへの憤り。だがおれは止まらなかった。
「……おれはマトモです、ちゃんとしてますみたいな顔して、自分の子供はネグレクトか。立派な社会人が聞いてあきれるな」
「な、」
「……宏太は優しい子だよ。バイトの面接を受けに来た学生の家庭をバカにして、自分は子供を兄弟間で差別する、そんなやつが親だとは思えないくらい。なあ、どうして。どうして、そんなことができるんだよ、あんたたち」
なんだなんだ、と周りに人が集まって来たからか、あるいはおれたちの圧に耐えられなくなってきたからか、夫婦は見るからに動揺して、落ち着きなく視線をあちこちに動かす。だがその間にいる宏太の弟――啓太と言ったか――だけは、ぼんやりとしたまま、ここではないどこかを見ているようだった。その目に浮かぶ虚無は、およそこの年の子供が浮かべる色ではない。
「いや、まあ、ご忠告は受け取ります、時間も時間ですし、この件はまたのちほど」
男はその場をいかに早く撤収するかを優先したようだった。常識的な大人の仮面をつけて、「今日はお騒がせしてすみません」と頭を下げつつ、マンションの中に入ろうとする。
おれは宏太を見た。この子供は家族が現れてから、ずっと下を向いている。唇をかんだ。そうだ、ここで引きさがるわけにはいかない。
「かわいそうだな」
そしてそれを許さなかったのは阿久津だった。たった一言で、彼らの動きを止める。阿久津の言葉に引っ張られるように、トカゲ男が振り向いた。
「だから、誤解ですって。今日は彼が祭りに行くというから、三人で食事に行っただけです。別に意図して置いていったわけでは……」
「ちがう。……名前は啓太だったか。その子をよく見て見ろよ」
「はあ?」
母親が眉を顰める。トカゲは困惑したような顔。
「過度な期待と歪んだ愛情を受け続けるとな、子供は壊れるぜ。自分の代わりに、ぞんざいに扱われるきょうだいを見続けて、それが当たり前になって、でも一歩外に出たとき、その常識が通じなくて苦しむんだ」
「……」
「子供はペットじゃない。どんなに親の好きなものを詰め込んだって、思い通りには育たない。勝手に何かを学んで、勝手に育っていくんだ。親からは得られない何かを、その子も見つけられると良い。そうじゃなければ……」
最後はつぶやきだった。だが初夏の風は、それを確実におれの耳に運んでくる。
「きっと、空っぽのままだ」
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