第9話

「もう二度と、花壇の花を勝手に摘んだらだめだ」

 小さな背中に掛けた言葉は、しかしトラックの大きな走行音にかき消された。

 根は悪いやつじゃない。先程目をじっと見つめたときに感じた感覚が、おれの中で確信に変わる。悪いやつが、ウサギにエサをやろうとするわけがない。だが宏太はそれについて、弁解も言い訳もしなかった。ついでに返事もしない。

 ぼさぼさ頭に、色あせたスニーカー。きょろきょろとせわしなく動くその両目に、おれたちは映っていない。おれは阿久津を見、やれやれと首を振った。そうこうしているうちに駅が近い。家までついていくか迷ったが、この子の親に会って話したいと、おれはふと思った。

「おい、なにしてるんだ?」

 宏太はなぜか、うろうろと駅前を無意味に歩いていた。北口と南口、それぞれの改札を二回ずつ周ってから、また別の方向に向かって歩き出す。「捲こうとしてるんじゃねえか」と阿久津があくびをしながら言った。

 駅前は多くの商業施設が立ち並び、平日だろうが休日だろうが、常に多くの人が行き交う。いつの間にか始まっていた再開発により、おれがこいつと同じ年齢だったころとはずいぶん様変わりした。駅には特急が止まるようになり、それに伴って活気も増えた。きちんと整備されたロータリーにはあらゆる行き先のバスが待機している。再開発の一環で建てられたタワーマンションも、すでに築十年は経っているだろうか。

 駅前のタワマン計画の話を聞いた時は驚いた。こんな東京の郊外で、タワマンなんて買う人がいるのかねえ。大人はそう言っていたが、都心よりも地価が安いため、一定の需要はあるようだった。大理石の壁、おしゃれな筆記体でマンション名が金字で掘られているが、何語なのかすらわからない。

 宏太は足を止めることなく、そのタワマンの方に向かって歩いた。そこでおや、と一つの疑問が生じる。

「おい、この先に住んでるなら学校の区域が変わるんじゃねえか? おれ、この先の商店街に住んでるけどよ、別の小学校だったぜ」

 その言葉に、宏太はぴたりと足を止めた。ん? と宏太を見る。

 もしやこいつ、おれたちに家を知られたくないのか。そう思ったところで、ふと、自分が今している行為を冷静に振り返る。地元の小学生を付け回し、家まで押しかけようとしているやばいやつ。え、それやばくね? こいつの言う通り、マジの不審者じゃねえか。

 子どもからしたら、いきなり追っかけてきていきなり叱ってきて、さらに家までついて来ようとするオジサンなんて、恐怖以外の何物でもないだろう。おれは勝手にそう結論付けて、あわてて宏太に声をかけようとした。

「わりい宏太。べつにそういうわけじゃなくて――って、うん?」

 宏太はおれのことを振り向きもせず、タワマンのエントランスに向かって歩いて行く。そのまま宏太は、自動ドアの中へ消えて行った。

「え?」

 おれは呆然と突っ立っていた。だがしばらくして、ふたたび宏太が自動ドアから出てくる。それからドアの脇にちょこん、と体育座りする。

「お、おい」

「……」

「どうしたんだ、」

「うちにだれもいない」

「……お前んち、ここ?」

「そう」

「……そうか」

 がく、となぜか力が抜けた。なんだ、そうか。少し呆気にとられたような気分のまま、それからしばらく、おれたちは宏太のそばにいた。まあ心配することもないだろうけど、子供が一人、家に入れず座っているのに、それを放置することはできなかったからだ。

 マンションはその戸数の多さから、ほんの数分そこにいるだけでも、何人かの住人がそばを通り過ぎて行った。子連れもいた。おれたちを不審そうな目で見、遠くに行っても振り返って見てきたので、取り繕うように宏太に話かける。

「なあ、お母さんとお父さんは?」

「……父さんはゴルフ。母さんはたぶん、買い物」

 買い物ならすぐに帰ってくるだろう。駅前には二件のスーパーがある。そんな読みは当たり、二十分が経ったころ、小さな子供の手を引いた女性が、おれたちを見、それから宏太を見てはっとした表情になった。

「宏太!」

 彼女がそう呼んだので、この人が宏太の母親なのだと確信した。

「なにしてるのよ、こんなところで」

 かき上げた髪は長く、きちんと手入れをされているのがわかる。ストライプのシャツにシンプルなスキニー。そんないで立ちでもおしゃれに見えるような女性だった。同じアイテムを持っていたとして、それを着こなせる人間とそうでない人間がいる。この母親は前者だろう。

「その、宏太くん、鍵を忘れてしまったみたいで……」

「はあ」

 手を引いているのは宏太の弟だろうか。母親と手を繋ぎながら、母親の足に隠れるようにしている。パーカーの袖に手のひらが隠れてしまっていた。母親はおれたちを順に見て、半歩後ろに下がった。やばい、明らかに警戒されている。

「あ、あの、おれたち、無料の塾でボランティアしてる大学生なんですが、それでちょっと、宏太くんと会いまして。いろいろあって、お家までお送りした次第です、ハイ」

「塾?」

「あ、その、ひいらぎ団地の近くにある、『かがやき塾』ってところなんですが」

「ひいらぎ団地……ああ、あそこの」

「ええ、なんか、押しかける形になってスミマセン」

「ああ、いえ……」

 ようやく、母親が微笑んだ。おれはほっと息をついて、座り込んだままの宏太を「ほら」と言って立ち上がらせる。

「それじゃあ、失礼します」

 母親は特におれたちに何か尋ねることもなく、エントランスへ入ろうとした。その背中に、おれは慌てて声をかける。

「あ、あの」

「何ですか?」

「その……宏太くんは、塾とかなにか、習い事とかされてるんですかね?」

「?……いえ、何もしてないですけど」

「そ、そうですか」

 宏太くん、塾に行きたいみたいなんです。だから習わせてやったらどうですか?

 そんなお節介を初対面の女性に、それも年上の人にできるほど、おれは礼儀知らずでも怖いもの知らずでもない。だから「そうなんですね、へへへ」と適当にごまかして、ぺこぺこと頭を下げた。

 母親は会釈を返し、弟の手を握ったまま中へと入っていく。宏太はその後に続いた。

 自動ドアが完全に閉まり、オートロックも完全に施錠されたあたりで、おれはそれまで我慢していたことを解放した。

「いやいや、ふつうに金持ちじゃねーか!」

 そんなおれの小さな叫びを、阿久津はすん、とした顔で受け止めていた。

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