第10話
商店街のさびれた喫茶店は、すこしタバコの匂いがした。むかし学校をさぼって、この店の前で吸っていたのを思い出す。ここは人が少ないうえ、マスターも我関せず、という感じだから、内緒話をするのにはうってつけなのだ。いまも、おれたち以外に客はいない。まあ、別に色気のある話をするわけじゃないけれど。
「今年二十歳なのに、むかし吸ってたっておかしいだろ」
そんな阿久津を咳払いで制し、おれはブレンドのコーヒーを一口飲んだ。もう一つはコップにすでに水滴が張り付いたアイスコーヒー。コーヒーは良い。とくに換気扇の音が絶え間なく聞こえる空間で摂取するカフェインは最高だ。甘党で、どちらかというと子供舌なのに、おれは中学生のころからコーヒーが好きだった。砂糖なんて入れない、にっがいやつが。
「塾に入りたいって線は消えたな」
「どうして言い切れる?」
「だって、タワマン住民が子供の塾代出せないわけないだろ」
おれは至極まっとうな意見を出してやる。阿久津はストローで一気に半分ほど、バキュームのように黒い液体を吸いこんでから、「そうだな」と続けた。
「まあ大金持ちってこともないだろうが。子どもの教育費に困るような家庭には見えないな」
「じゃあなんで、あいつはあんなふうに塾に迷惑をかけるのかなあ」
窓の外を眺めながら、そうつぶやく。大きな四角窓、でも目に入るのは道端の雑草だけ。見たことのない花と共に、たんぽぽが我が物顔で咲き散らかっている。隣にはビンボウグサが風に揺れていたが、見ているだけで貧乏くさい気持ちになるので、おれは目をそらした。
阿久津がスマホを取りだし、文字を打っている。それをぼんやり見ていると、「姉貴に報告中」と尋ねてもいないのに言われた。
「なあ、お前はどうしておれを連れてきたんだ?」
気になっていたが、それまでなあなあになっていたことを聞いた。すると阿久津はスマホの画面を暗くし、ポケットに突っ込んでから言った。
「変なやつには変なやつをぶつけた方が、上手くいくと思ったんだよ」
おれは心外だ、という顔を作った。
「なんだそれ。お前に言われたくねえよ」
「よく言う……」
阿久津は呆れたように、いつものジトっとした目を向ける。
「あんたがいきなりグレて学校来なくなって、部活も無断欠席してたときのこと、おれは一生覚えてる」
それを言われたら、おれはもう何も言えない。おれはおれの人生の弱みを、この一つ下の後輩に握られているのだ。言い訳したい気持ちを、おれはぐっとこらえる。というのも、こいつが言っていることは何一つ間違っていないからだ。
あのときは、すべてに怒っていた。いろんなことが重なって、勝手に枷みたいなものを感じて、すべてを投げ出したくて、ぷつん、と糸が切れたときがあった。おれはどうしてここにいるんだろうと思った。どうしてうちにはお金がないんだろう。どうして母は水商売をやっているんだろう。どうして、周りから白い目で見られるのだろう。どうしてうちには、父親がいないのだろう。
答えのない問いに、向き合い続けるのは難しかった。だから逃げた。自分は自分と、雑音を切って捨てるなんてこと、十七のおれにはできなかった。日中、学校があるはずの時間に、こいつがこの喫茶店に来るまでは。
「センパイ、あんまサボってると腕がなまるよ」
あのときはまだ、こいつの背はおれと同じくらいだった。背は高い方だったがヒョロヒョロだった。それでもおれの前に立ちふさがった。
「あんた、何が不満なんだ」
そう言うから、おれはぶちまけた。客の視線が痛かったから、外に出て、そこらへんをぶらつきながら。
自分だけがなにも持っていない気がしていたこと。上を見上げるばかりの日々が鬱陶しかったこと。わけもなく空しい気分になること。自分の境遇に対するやるせなさを、後輩のこいつに当たり散らした。妙に暑い春の終わりだった。全国大会の予選に向け、おれ以外が新体制のチームで四苦八苦していたころだ。
「あのとき、あんたはキレまくってた。地球なんて滅亡しろ、みたいな顔してた」
否定はできない。おれはぐっと言葉に詰まる。
「わけわかんないことでキレてた。親とか教師とか学校のやつらとかに一通りキレたあとは、暑いのにホットコーヒーを売ってる自販機にも怒ってた。最終的にはそこらへんに咲いてるたんぽぽにもキレてた」
「……」
後半はまったく記憶がない。おれは首を傾げた。
「そんなこと、あったっけ」
阿久津は文字通り、苦虫を噛みつぶしたような、だが表情筋が死んでいるのでその苦さを正しく表現できていないような顔になった。
「たんぽぽは英語でダンデライオン。フランス語由来の言葉で、たんぽぽのギザギザした葉っぱが、ライオンの歯に似ていることからついた名前だ」
「はあ」
「あんたはそれにキレてた。なんだよそれって。なんで歯なんだよって。ライオンなら普通たてがみだろ、そもそもなんで葉っぱに注目したんだよって言って、落ちてた缶蹴っ飛ばしてた」
「……」
あほらしくて言葉が出ない。そう言えばそんななこともあったかも、とおぼろげに記憶がよみがえる。英語の授業で聞いたトリビアが妙に頭に残っていて、それがなぜか引っかかって、シャクに触ってしょうがなかったのだ。
いまなら思う。ダンデライオンと名前を付けたやつは、目の付け所が違うって。平凡なやつとは一味違う、センスのあるやつだなって。
おれは白旗をあげて、コーヒーをまた一口、飲む。
「へんなやつだと思った。だから、あんたならあの悪ガキの気持ちがわかるかもしれないと思ったんだ」
そう言った阿久津は、背もたれに体を預けるようにした。こいつもたいがいおかしいが、なんにせよ意外だった。こいつがそこまで考えて行動していたことと、そんな風におれを分析していたことに。
「なあ、あんたはどう思う。あのガキを見て」
「そうだな……」
なんでそう思ったのか、自分でもよくわからない。
「何かを、探しているように見える」
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