第7話

 半袖のTシャツを着るには、まだ早かったかもしれない。冬の名残と春の訪れが交じり合ったような空気のなか、おれは夏休みの小学生のようないでたちで駅に向かった。遅刻するなと注意されたのがシャクだったので、二十分前には到着するように家を出たはずだった。

 だというのに、それは遠目でも、いやというほどわかった。というか、いやでも目に入る。周りから頭一つ、いや二つ分ぶん、にょきっと伸びたその目印を視界に入れた途端、おれは愕然とした。嘘だろ? こいつ、何分前から待っているんだ。

「珍しいな、あんたが余裕持って行動するなんて」

 先制パンチが飛んでくるやいなや、阿久津が歩き出す。呆然とそれを追うおれ。決しておれは遅刻魔ではない。大体ジャストか、二、三分前にはついていることも多い。

 こいつが厭味ったらしいのは、ただ一度だけ――こいつとの約束に大遅刻してしまったことがあるからだ。それをこいつは、ずうっっっっと根に持っている。あまりにしつこく、ケンカするたびにその話を持ち出すから、その執念に感心してしまったほどだ。

 到着したのは、昨日と同じ場所、例の小学校。阿久津は迷うことなく、校門の脇の小さな門を通った。小学校に入ったのは何年ぶりだろう。子どもの声が一切聞こえない校舎は、具のないおにぎりを食べたときのような物足りなさがあった。

「姉貴に呼ばれてるんだ」

「おれ、完全な部外者だけど、いいのかなあ」

 校門の正面が昇降口となっているようで、奥に下駄箱が並んでいるのが見えた。そのとなりに、小さく来客用の入り口がある。阿久津はそこでインターホンを鳴らし、用務員さんに事情を話した。

「三年一組の担任をしている、真野あかりの弟なんですけど……。今日、姉と約束をしてるんです。多摩市を中心に活動しているNPO法人の、子供の学習支援に携わっているんですが、その件で」

 よどみなく、すらすらと対応する阿久津に目を丸くする。高校の時はもっと、社会生活不適合者みたいなやつだったのに。会わなかったこの一年で、ずいぶんと成長したもんだ。

 とはいえそんなことも知らない用務員さんは、声からだけで礼儀正しさを感じたのか、実に親切に対応してくれた。お姉さんが現れたのはそれから五分後のことだった。

「ごめんごめん、ちょっと仕事が立て込んでて」

 ポニーテールで髪を一つにまとめた、スポーティーな雰囲気の人だった。お姉さんはハキハキとした様子でおれたちを出迎えてくれる。阿久津の家族に会うのは初めてだったので、おれはにわかに緊張した。

「きみが相沢アキくん? いつも弟がお世話になってます。今日は突然呼び出したりしてごめんなさいね」

 女性にしては身長が高いだろう。健康的にすらっとした体型に、意志の強そうな目なんかは弟そっくりだった。阿久津の遺伝子、恐るべし。そんなことに気を取られていたら、「あ、はい、いえ、あの」とどもってしまい、けたけたと笑われてしまった。

「私、真野あかり。結婚してるから苗字は違うけど、正真正銘、丈の姉です」

「あ、こちらこそ。じょ、丈くんにはいつも、お世話になってます。相沢アキです、よ、よろしくお願いします」

 話せば話すほどカチコチになっていくおれを、阿久津が不審そうな目で見ている。だがあかりさんは、そんな二人ごと笑い飛ばして、「こちらへどうぞ」と案内した。モタモタとスリッパをはきながら、姉弟の会話を盗み聞きする。

「丈、一人暮らしには慣れた? 寝坊して遅刻とか、してないでしょうね」

「してねえし……」

 いつもと違い、姉ちゃんの前ではずいぶんおとなしい。阿久津の意外な一面を見た。だが笑ったら機嫌を損ねそうなので、心の中でだけ含み笑いをしておいた。

 それより、かなりの箱入り息子だったこいつが一人暮らしなのが驚きだ。どこに住んでいるのだろう。おれはこいつのことを、知っているようで知らない。こいつは昔から、自分のことを積極的に話す質ではなかった。なんにせよ、親御さんがよくOKを出したな、と頭の隅で思う。

「どうぞ、ソファに座って」

 案内されたのはすぐ近くの用務員室だった。中には先程対応してくれたとおぼしき初老のおじさんがいた。佐藤さんといい、勤続二十年のベテランの用務員らしい。

「それで、話って?」

「道宮宏太くん。うちのクラスの子なんだけど」

 黒革のソファに向かい合わせで座ったあかりさんが、先程よりトーンを落として話し始める。

「その……塾での様子を、直接聞きたくて。あの子、ちょっと、落ち着かないところがあるから、少し心配なの」

 何度注意しても聞き入れない。だれかれ構わず暴言を吐く。宏太の周りはもう、対応するだけでヘトヘトなのだという。

「図書館で二年生の男の子たちをしつこく追いかけまわして泣かせたり、休み明けに学校中で大掃除しよう、っていう取り組みがあるんだけど、そのときもホコリっぽいからって言って、教室中水浸しにしたの」

 いたずらにしては度の過ぎた行為は、枚挙にいとまがないようだ。

「でもね……結局、何が彼をそうさせるのか、私にもわからないの。三年生になって初めて、宏太くんの担任になって……学校の中だけじゃ見えてこない、何かがあるんじゃないかって思って。それで呼んだのよ」

 あかりさんは、ふう、と大きな息をついた。そこにはどうしても隠せない愁いが混じっている。

「まったく、こんな若い先生に問題児を押し付けるなんて、上もどうかしてるよ」

 すかさず佐藤さんが、なにやら机で書類を片付けながら、声だけをよこす。

「ああいう難しい子こそ、ベテランの教師が対応すべきなんだ。なのにこの学校ときたら、誰も責任取りたくないもんだから、あれこれ理由つけて、やる気のある若い先生にまかせっきりなんだよ。しょうもないねえ、まったく」

 あかりさんが苦笑する。白い蛍光灯の下では、うっすらと浮かぶ隈が際立って見えた。そんな彼女に宏太が庭のキンモクセイの花をむしったなんて伝えたら、胃痛を起こしてしまうのではないかと心配になる。

「塾にはよく来る。週に一、二回。遅れてくることもあるが、大体真っ先にやってきて、授業中はそのへんもウロウロしてる。終わったあともしばらく塾の前をうろついて、しばらくしたらいなくなってる」

「そう……」

「塾に行ってる子どもが羨ましいのかもしれないっすね」

 おれが口を挟む。すると佐藤さんが椅子を回転させ、腕を組んでこっちを向いた。

「でもあそこは、生活に困ってる人たちのための施設だからねえ。住民税非課税の世帯とか、それどころか生活保護を受けてる家の子とか」

 そのまま佐藤さんは立ち上がり、窓に歩み寄ると、「暗いねえ」と言ってカーテンを全開にした。ガラガラと音を立てて窓を開けると、肌寒いが、しかし新鮮な風が吹き込んでくる。それは、まさにその通りだろう。それでも揺れる遮光カーテンを見つめながら、おれはぼそっとつぶやく。

「……ギリギリのところでやりくりしていて、そういうセーフティネットに引っかからない人もいるのかなあ、とは思います」

変に口出しをしてしまっただろうか。だが周りから続きを促すような雰囲気を感じ、おれは俯いたまま続ける。

「貧困、とまではいかないし、家も食べ物にもそこまで困らない。だけど、毎日必死で働いて、でも税金はきちんと取られて、それで家計は苦しくて……子供に習い事をさせる余裕がないって人、意外といるのかもしれないですよね」

 母親の顔が思い浮かんだおれは、マザコンかもしれない。おれの意見に対して、他の三人はどうしたものかと答えあぐねているようだった。

「難しいところだよね。もし彼がそういう状況だとして、問題行動を起こすのとは別問題だからねえ。持ってるお金の量が、心の貧富を決定するわけじゃないから」

 ごましおみたいな眉毛を垂らして、佐藤さんが言った。それはそうだ。お金の有無を理由に、人に迷惑をかけていいわけではない。それでもおれは、心臓を針でチクチクと刺されたようなむずがゆさを拭えなかった。

「宏太くんが塾に行きたいなら、私が放課後、勉強を見てあげたいのですけど、その、なかなか仕事が多くて。今日だって休日出勤なんです。来月のこいのぼり祭りの件で、もろもろの仕事が山積みで……」

「こいのぼり祭り?」

「ちょっと早い夏祭りみたいなもんさ。とはいっても、地域の大人たちが主催だから、子供はただのお客さん。校庭でやるんだけど、屋台がいっぱい出て、毎年盛り上がるんだよ」

 小学校の先生もなかなか多忙らしい。それなら、とおれが手を上げた。

 もしよかったら、その、どっか空いてるスペース見つけて、おれが暇なときに勉強見てあげるとか、どうですかね。

 そう言おうとしたが、「もしよかったら」の「も」までしか言えなかった。窓の外を見ていた佐藤さんが、急に大声を上げたからだ。

「ああーー‼‼」

「うあわ、ど、どうしたんですか!?」

 だがその声には応じず、佐藤さんは窓からそのまま、便所サンダルをひっかけて飛び出した。びっくりしたおれたちは、三人で窓を覗く。するとウサギ小屋に向かって、佐藤さんが一目散に駆けて行くのが見えた。

「なんだなんだ、どうしたんだ」

 おれたちは出入口に戻って外へ出、ウサギ小屋がある方へ走った。するとそこでは、佐藤さんが誰かと言い合いをしているようだった。

「佐藤さん! どうしたんですか!」

 あかりさんが駆け寄る。おれたちもそれに続いた。するとそこでは、ウサギの小屋の扉にしがみついている一人の少年を、佐藤さんが必死で引きはがそうとしているところだった。

「ったく何してるんだ、やめなさい!」

「……ってまたお前か!」

 そのガキの顔を見て、おれはすぐに思い出した。この赤いTシャツにも見覚えがある。だがおれがその名を呼ぶ前に、あかりさんが鋭い声で彼の名を呼んだ。

「宏太くん!」

 さすがに大人二人に取り押さえられて、宏太はおとなしくなった。くちびるをぎゅっと噛みしめ、地面を睨みつけている。おれたちは顔を見合わせ、それから佐藤さんがまず、ため息をついた。

「まったく、話をすれば……。なんなんだい。休みの日にまで学校に忍び込んで、ウサギの小屋を開けようとするなんて」

 だが宏太は答えない。

「宏太くん、どうしてこういうことするの? ほら見て、ウサギだってびっくりして怯えちゃったじゃない」

 あかりさんが宏太の肩に両手を置いて、小屋の中に目を向けさせる。中には真っ白なものや茶色いブチ模様があるものなど、二畳ほどの大きさの小屋に、十数羽のウサギがふんふんと鼻を動かしながら、ひょこひょこと動いていた。

「宏太くん、ちゃんと先生の目を見て」

 だが宏太は、身を捩るようにあかりさんの手を振り払う。それを見た佐藤さんが、小さく舌打ちをして、宏太の両頬を掴んで言った。

「お前、人に迷惑かけて楽しいのか? え?」

 佐藤さんが語尾を強くする。宏太がその手をどかそうと両手でもがくようにした。そこではじめておれは、宏太の足もとに、何本かの花が落ちているのに気づいた。阿久津がおもむろに口を開く。

「その花、また塾の花壇から摘んだのか」

 それを聞いて、宏太はおとなしくなった。地面には、赤やピンク、白、紫など、色とりどりの花が力なく横たわっている。名前は知らない。だがそこらへんに野生で咲いているような花ではなく、人間によってお世話されているような、箱入りの方の花であることはよくわかった。

「宏太くん……」

 あかりさんの脱力した声。宏太の肩が、ピクリと震える。佐藤さんが嫌悪感を丸出しにして、顔をおもいっきりゆがませた。

「まったく、親の顔が見てみたいもんだ」

 すると宏太は、いきなり「うるせえー!」と怒鳴った。腹の底から湧き上がるような声だった。こんな小さな体のどこにそんな体力があるのか――佐藤さんも一瞬、後ずさりしたくらいだ。そんなふうにおれたちが一瞬隙を見せた瞬間、宏太は脱兎のごとく走り去った。

 子供は一秒先に何をしでかすか分かったもんじゃない生き物だ。それをすっかり忘れていた。宏太が校門に向かって走っていくその小さな後ろ姿を認識した瞬間、おれの体は勝手に宏太を追っていた。

「ちょ、相沢くん⁉」

「あ、大丈夫っす!」

 何が大丈夫なのか、自分でも理解していない。それでも阿久津がおれを追ってくるのを背中で感じながら、おれは宏太を追いかけた。

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