第2話

 バイト先の居酒屋が潰れたのは、ついこの間。

 一年前、大学入学と同時に始めたバイトだった。

 とはいえ有名なチェーン店などではなく、母の知り合いの、老夫婦がやっている小さな店だった。家から近いこともあって、週三から週四くらいで働いていた。居心地は良かった。

 でも、想定外の出来事は前触れなくやって来る。四年に一度の、二月二十九日のことだった。厨房で仕込みをしていたおばさんが突然倒れたのだ。

 幸い重症ではなかった。カステラ片手にお見舞いに行ったとき、おじさんと一緒にけろっとした顔でメロンを食べていたので、拍子抜けしたほどだ。病院も一週間程度で退院した。だから、お店もすぐに再開するものと思っていた。

「アキくんには悪いんだけど、店じまいしようと思ってるんだ」

 店の掃除を手伝っていたとき、おじさんがしょんぼりしながらおれに言った。話を聞くと、もともと体力的に厳しいと感じていて、辞めどきを探っていたのだと言う。大学を卒業するまで働く気満々だったおれはうろたえたけれど、おじさんの申し訳なそうに伏せられた顔を見たら、そりゃしょうがないよな、と思った。

 それからすぐ、おれは新しい働き口を探してまわった。奨学金で大学に通っている以上、ぜいたくな暮らしはできない。だから時給の高い、不動産会社の事務のアルバイトに応募したのもしょうがない。一時の気の迷いだった。

 オフィス的な電話対応も、エクセルを使った実務も経験がない。それでも今までの人生、とりあえず考えるより先にやってみる精神で乗り切ってきたおれだ。なんとかなるだろうと思っていた。でも、なんとかならなかった。ボコボコにやられたボクサーみたいに、おれはとぼとぼと、新宿始発の下り電車に乗り込んだ。

 でも、あんな言い方ないじゃんか。

 ふつふつと湧き上がる憤り。時間が経つと、あのメガネ男のあからさまな悪意が、後になってじわじわと効いてくる。筋肉痛と同じだ。高校時代、部活の引退とともにバレーも引退して二年弱。運動不足の体は、あの男の容赦ない口撃を避けることはできなかった。

 玄関のドアを開けようとして、視界に黄色い何かをとらえる。目線を下げると、足もとにたんぽぽが咲いていた。この時期になると、いつのまにか砂利のすき間からひっそりと咲いている。まったく、こんなふうに図太く、しぶとく生きたいものだと思う。

「ただいま」

 店の中は誰もいなかった。それはそうだ。午後七時の開店までまだ時間がある。母は買い物にでも行っているのだろう。二階の自室に上がり、ふすまを開けて、畳の上にかばんを放り投げた。そのままベッドに(なぜかおれの部屋には、畳の上にシングルベッドがある)ダイブしたい気持ちを抑えて、スーツを脱いでハンガーに掛ける。

「ああ、疲れた……」

 ついでに早めのシャワーを浴びてから、満を持してベッドに寝転ぶ。窓を開ければ、優しく吹き込む春の風が、まだ少し湿っていた髪をさらさらと乾かした。

 明日から大学二年生だ。早く次のバイト先を探さないとな。そんなことを思いながら目を閉じると、急に眠気が押し寄せてくる。

 まあいい、なんとかなるだろう。

 今日の嫌な記憶をくしゃくしゃに丸めて、心のゴミ箱にポイと捨てる。おれは寝返りを打ち、今度は桜の花びらとともにやってきた風を、一息に吸い込んだ。


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