そんな大声出すなって

 最初に響いたのは、ゴキン、という鈍い音。

 その後どしゃりと何かが地面に倒れ込む音が聞こえ、代わりに俺の耳を支配していた威圧感のある鼻息が著しく小さくなった。

 俺は乱れた呼吸を少しでも和らげるため、肺のあたりを強く押さえる。

 そして数秒後になんとか顔をあげると、そこには夏まで野球部でクリーンナップを務めた男が立っていた。

 その右手には、へこんだ金属バットを携えて。


「硬ってぇ! 硬すぎだろ、こいつ!」


 ぴくぴくと痙攣し、完全に脳震盪を起こしている山羊頭。それをバットの先でつつきながら愚痴をこぼす猪瀬。

 俺は期待通りに動いてくれた助っ人の登場に、思わず拳を握り締める。

 加勢に行くと言ってくれた猪瀬が、俺が裏道に入って行ったのを見た時点で、遅れて同じ道に入ってくるわけがない。

 山羊頭と対等なのは走力くらいだと猪瀬も知っていたはずだからだ。

 それならおそらく鬼ごっこを選択するであろう俺に追い付ける可能性は、相当に低いからな。

 そうなると普通考えつくのは、俺が行く先。且つ死角での待機。

 逆から追いかけ合流するという手もあるが、二人がかりでも正面からあいつを倒せるかといえば首を縦に振ることは出来ない。

 故に最善となる作戦は、待ち伏せからの一撃必殺。

 場所も暗い裏道から表通りに入るここがベストなのは、地元の俺達からすれば思考が一致して当然だ。

 ただ問題は猪瀬が女性を介抱し、更に大通り側で待機するまでの時間を稼げているのかだった。

 そんなことを計算してペースを緩める余裕など全くない状況だったし、本当に賭けだった。

 おまけに猪瀬はどこから入手してきたのか、武器まで用意してくれているという周到ぶりだ。


「スイカとのデート、マジでとりもってやらなきゃならねぇかもな。助かった、ありがとう」

「いや、お前が危険な役を買って出てくれたおかげだよ。まぁデートはとりもってもらうけどな!」


 プレッシャーから解放された安堵もあり、声を出して笑い合う。


「ほれ、お前の分」


 地面から左手でもう一本バットを拾い上げると、俺に向かってひょいと放り投げた。

 疲弊が大きすぎるのか、投げ渡されたバットはそんなに大きくないのにも関わらずかなりの重量に感じた。

 ただ同時に、侵略者に対する明確な対抗策を一切持っていなかった俺にとってはその重さが心強くもある。

 いくら不意打ちとはいえ、実際にこれで山羊頭を戦闘不能にしたのを見たばかりだしな。


「ところでこんないい得物、どこで手に入れたんだ?」

「あぁ、さっき助けたお姉さんの家がすぐそこで貸してくれた。弟が元野球部なんだと、武器を探す手間が省けて助かったぜ」


 なるほど、そいつは確かに渡りに船だ。おかげでこの結果に繋がったわけだからな。


「じゃあ、とっとと移動しよう」


 完全には回復しきっていないが、ある程度呼吸が整ったので出発を促す。

 休む時間や余裕なんて、今の俺達には一ミリもない。


 俺は立ち上がろうと地面を見つめ、左手をつく。

 しかしその行動だけで肺のあたりに痛みが走り、思わずよろめいてしまう。やはり蓄積された疲労は大きいか。

 そんな俺の視界に、一瞬鈍い紫色の光が走った。

 そして一転、今度は赤色に侵食される。最初は三つ四つだった鮮やかな赤色が、どんどんと視界の端に増えていき、それは水溜まりのようになっていく。

 なんだ、満身創痍でついに目までおかしくなったのか?


「……すまんツクシ、しくったわ」


 カラン、という乾いた音が響き、猪瀬が持っていたバットが地面に落ちる。

 それに続いて、猪瀬自身も前のめりに倒れ込んだ。

 俺は軋む身体を無理矢理動かし、なんとかそれを抱き止める。

 背中側に回している左手には、ぬめりとした嫌な感触。

 恐る恐る目をやると、その手は染まっていた。地面に増えていったそれと全く同じ色に。


「猪瀬! おい、冗談だろ⁉」


 なんだ、何が起きた⁉

 一体どうして猪瀬は、背中から大量の血液を垂れ流している⁉

 その答えは、俺の正面。猪瀬の背面側にあった。

 空中に紫色の魔法陣のようなものが描かれ、そこから山羊頭が顔と手をのぞかせている。

 その手が握る鎌には、鮮血を滴らせて。

 最初に俺が見た紫色の光はこれだ。おそらくこれが魔界からこの世界へ繋がる結界。索敵に優れる神楽夜が山羊頭の感知に手間取っていたのは、こいつらがこんな風に突然現れるからだ。

 とにかくそれから一歩でも距離を離すため、手に入れたばかりの武器を投げ捨て猪瀬を背負う。

 バットはちょうどマンホールの真上に放られたことにより、非常に大きな反響音が耳に残る。

 俺はそれを皮切りに、全速力で駆け出した。思考が絶望的な現実に追いついてしまう前に。

 重い。身体が、心が。

 俺が巻き込んだ。無関係な人間だけでなく、神楽夜を、ライチを、猪瀬を。


「置いて行け、そこまで傷は深くない。自力でなんとか逃げ切るから、お前は予定通り家まで走れ」


 今も滑って落としそうなくらい血を滴らせているのに、出来るわけねぇだろ!

 どうする、とりあえずどこかで救急車……いや、さっきから周囲のサイレンが鳴り止んでいない。こんな状況でまともに機能しているとは考えないほうがいいだろう。

 そうなるととりあえずは、家に運んで応急処置が賢明か。

 幸い家までの距離は近い。問題は後ろにある魔法陣から山羊頭が出現するまで、どのくらい時間がかかるのかだ。

 うまく撒けるまで時間がかかってくれればいいんだが、俺達が魔法陣を認知する前に頭や手が出てきていた。

 おそらくそんな余裕はない。

 俺は少しでも追跡を困難にさせようと、再び裏道に入った。

 その先でさらなる絶望を見せつけられることになるとも知らずに。


 進んだ先には、紫色の魔法陣が計四つ。

 一つから最低でも一体は出てくると仮定すれば、少なくとも五体を振り切らなければならない。

 当然魔法陣がこれ以上増えない保証もないし、それぞれから各一体だという保証もない。

 おいおい、たった今死線を抜けてきたばかりだってのに。あんまりだろ。

 ……完全に、詰みだ。


 俺は大きなため息を吐きながら、思考を整理する。

 この状況ではやはり、それしか方法はないな。

 ただ問題は身を挺してくれた神楽夜とライチに応えられなくなること。そして猪瀬や妹弟が――


 ――いや。

 つまらない言い訳はやめよう。

 現状に対する打開策なんてのは、その現状で考えていくしかない。

 どのみち俺一人なら最初の山羊頭戦でゲームオーバーだった。皆が繋いでくれたからこそ、今選択の余地が生まれているんだ。

 そして誰もが、ゼロより一を選ぶに決まっている。

 だから迷う理由なんてないはずだ。

 ただ俺はこの期に及んで、自分ごと助かる方法を必死で模索しているだけ。

 そんなもの時間の無駄だ。俺以外の全員が助かる可能性をほんの数パーセントでも残すなら、山羊頭側から行動を起こされる前に行動するのが絶対条件。

 繋いでもらった命は、次の命に繋ぐのが礼儀ってもんだろう。


「すまん猪瀬、お前の言う通り置いて行くしかなくなった。近くで誰か助けを呼んでくれそうな人間か、応急処置をしてくれる人間を探してくれ。それと色々世話になったな、もし頼めるならスイカ達をよろしく頼む」


 怪我により呼吸が荒くなっている猪瀬だが、意識はまだちゃんとしているようで俺の言葉に反応する。

 長い付き合いだ、単純な俺の思惑なんてすぐに悟っているだろう。


「は? 馬鹿野郎、お前まさか自分を犠牲にする気じゃねぇだろうな! そうなったらスイカちゃんと俺の結婚式、スピーチ誰がやるんだよ! 許さねぇぞ!」


 強い語気で反論する猪瀬だが、道の端にそっと降ろそうとする俺の肩にしがみつく体力はもう残っていないようだ。


「おい! 待て、ツクシ!」


 ただこれだけ大きな声を出せるなら、おそらくだが出血さえ止まれば命は繋がるだろう。

 あとはお前の体力と運を信じるよ。最後の最後まで他人任せな奴で本当に申し訳ないが。

 よく考えれば、あの大型が現れた時にこうすればよかったのかもしれない。

 いや。それは現状怪我で動けない猪瀬しかいないからこそ成立するだけで、側にお人好しの神楽夜やライチが居たら絶対成立しないか。

 猪瀬だって身動きがとれる状態なら、俺が何を言おうが、ぶん殴って引っ張ってでも一緒に逃げようとしてくれるだろうしな。

 山羊頭共、一応は人語を解しているようだし話し合えば無傷でいけるか?

 ――ないな。

 本能が破壊衝動とかいうぶっ飛んだ奴らだ。可能なら無傷で連れてこいなどという指示を受けているとも思えない。

 まぁ、結果皆が助かるのならもう俺はどうなろうと構わない。

 魔法陣の側に自ら足を進め、両手をあげる。

 するとちょうど全身が召喚された四体の山羊頭と、後ろから追いかけて来ていた山羊頭に囲まれた格好になった。


「降参するぜ、黒山羊さん達。俺をお前らの世界に連れて行ってくれてかまわない」


 山羊頭共は俺の言葉を受け、互いに顔を見合わせよく分からない言語で会話を始めた。

 それからほどなくして五体全てが同時に不気味な笑みを浮かべ、鎌を振りかぶった状態で襲い掛かってくる。

 まぁ、そうなるよな。さしずめ誰が俺の手足を奪えるか競争でもしてるってところだろう。


「ツクシ! 逃げろ!」


 背後で猪瀬の声が響き渡る。ったく、傷に触るからそんな大声出すなって。

 と言っても、俺が逆の立場でも同じ行動をとるだろう。最悪のトラウマを植え付けるようなかたちになっちまって本当にすまん。

 だがもう俺以外誰も傷付けずに解決する方法なんて、これしか思いつかないんだ。

 山羊頭はさっき俺を見つけた時、それまでの標的だった女性やそれを助けに行った猪瀬に目もくれず俺を優先して襲ってきた。

 鑑みるに、目的である俺を手に入れれば僅かながらだがそのまま退いていく可能性はある。元々は奴らにとって侵略する価値すらない世界のはずなんだ。

 まぁ、前述した通り本当に数パーセントにも満たない希望だろうけどな。その後この世界を滅ぼす可能性の方が圧倒的に高い。

 ただどのみちこのまま悪足掻きを続けていたら、俺も猪瀬もリタイアで家に辿り着けない未来。

 それなら例えほんの僅かだろうが、それに賭けるしかない。

 目の前に迫る異形と鎌。

 強がったものの、さすがに目を開けた状態でそれを受け入れることは出来ず俺は瞼を閉じた。

 刃物で斬られたことなんて人生で一度もないけど、やっぱり死ぬほど痛ぇのかな。

 どうせならやり過ぎて、俺が魔界に着いたタイミングくらいで失血死でもしちまえば、こいつら困るんだろうにな。

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