3.Lv.36 -end 頂上からの景色

「あと少し、ですね」


 吐く息は白く、口の隙間から入る空気は凍るように冷たい。見上げれば、白い空を汚すようにちらちらと灰の雪が舞っている。山道は雪と黒い岩、植物の気配は絶えて久しい。


「うさぎ、大丈夫か?」


「舐めないでください。私は大丈夫です。はやてさんこそ大丈夫なんですか?」


「大丈夫じゃないなら最初から依頼は受けてないさ」


「さすがレベル三十の冒険者」


「半分馬鹿にしてるだろ」


 先導する小さな背中が、呆れた顔で振り返る。


「お前たちはまだまだ元気そうだな」


「先生は?」


「今回の主催は私だぞ。大丈夫に決まってる」


「まぁ、まだ帰りもありますからね」


「滑って飛んで行けたらいいのに」


 少女が脇を見る。見れば、よくここまで自分の足で登ってこれたものだと自分ながらに感心する。鬱蒼と茂る緑の海、見渡す限りの樹海、人が支配を捨て去って久しい、魔物たちの異界が広がっている。


「やりたいなら試してみれば? 骨の一つくらいは残ってるかもしれない」


「それ、回復魔法で治りますかね、体」


「下りる途中、死なない程度にも回復魔法を掛け続ければ」


「身一つで滑って降りるのは現実的ではないですね」


 何を真面目な顔して話している……と、先生は苦笑してこぼす。


「見えたぞ」


 先生の声に、見れば、最後の坂だった。見上げれば、斜面が途切れて空が広がる。ここを登れば頂きに着く。先人が残した石碑の影がちらりと見える。坂に這うように、どうにか人が登れるように切り出された黒い岩の道がそこまで続いている。


「はやてさん、やっぱり疲れました。そこまで背負って行ってくれません?」


「もう何かの記念だろそれ。大した距離じゃないんだから最後まで歩け」


「最後までお前たちは口が減らないな」


 足を滑らせないように一歩ずつ、着実に、頂上までの行程を登っていく。俯いて登っていれば、やがて前の背中が止まり、頂上に着いていた事が分かった。


「わぁぁ……」


 頂は少しだけ潰れ平らになっていた。小さな広場の中央に、石を積み上げ建てられた印がある。ここが頂上。

 幾度も振り返り見てきたが、やはり頂上からの景色は格別だった。

 視界、360度全てが見下ろせる。樹海に盛り上がる岩の山、山の途中で緑は剥げて岩となり、上を目指すほど黒く、そして頂上には雪を被る。

 山にぶつかる雲が見える。層を区切るように、ここから上が天上の世界だと教えるように、雲は同じ高さで薄まるように広がっている。


「写真撮りましょうよ、写真!」


 少女ははしゃいだ様子で小型の魔導機を取り出した。


「写真? 何に使う」


「何に使うとかじゃないんですよ、先生」


「いや……今はお洒落してないし、ちょっと」


「それ頂上で撮る気無いじゃないですか。こういうのは記念なんです、ありのままでいいんですよ。ほら集まって」


 少女に無理やり寄せられ、三人は石碑の傍に集まる。


「撮りますよー……はい、ちーず」


 ぱしゃりと音と共に閃光がほとばしる。


「まぶしっ」


「チーズとは何だ?」


「知りません。ほら、撮れましたよ」


 彼女は魔導機を振って見せてくる。


「写真は?」


「現像は帰ってからですね。上手く撮れてるといいんですが」


「もう何回か撮らないか?」


「乗り気なのか何なのか分からない人たちですね……色々撮りましょうか」


 彼女は魔導機を持ってぱしゃぱしゃと何度も撮る。白い空に少女の姿が踊る。


「薬草無いやんけ」


「探すのはここからだ。頂上からだと見つけやすかろう」


「見つけたとして、取りに行ける場所ですか?」


「足を滑らせたら死ぬが、そうだな」


 それは取りに行ける場所かなぁ。


「ここまでの道程を見る限り、取りに行くのは俺かうさぎですね」


「私ですか! ついに私が役立つ時が来ましたね!」


「足を滑らせたら死ぬけど、安心していいぞ。先生が何とかする」


「私か」


「私は足を滑らせないので大丈夫ですよ!」


 まぁ、最悪落ちたら俺が何とかするか。


「薬草の見た目ってどんな感じです?」


「あんな感じだな」


 先生の指さす方向を見れば、僅かに雪が盛り上がり緑が顔を出している。道は無い方だ、少し下れば手が届く。


「あるやんけ」


「私取ってきます!」


 魔物化が進んだ体とはいえ心配だな……。


「うさぎ、俺と命綱結ぶから待ってろ」


「死ぬときは一緒ですね!」


「違うよ、二人とも生きて帰るために結ぶんだよ」


 彼女の細い腰元に太い綱を結んで付ける。


「もういいですか?」


「あぁ。登り降りするときは逐一言葉に出せ」


 先生は申し訳なさそうな顔を見せる。


「二人だけ、すまないな。私は、紐を結んだとして重りの役割を果たせない」


 まぁ、先生は軽いし。


「いやいや、いいですよ。先生は落ちかけた時に俺たちの体を浮かせてくれれば」


「すまないが引力系統の魔法は覚えていない」


「降りますねー」


 彼女は斜面に足を掛け、慎重に下りていく。二人でその様子を見守る。


「着きましたー、どんなふうに取ればいいですかー?」


「必要なのは上部の葉だけだが、根っこ毎取ってもらえると助かる」


「岩ごと取りますー?」


「危ないからやめとけ」


 彼女は手渡された袋を斜面に置き、雪の盛り上がった部分をかき分ける。中からは僅かに生きる緑の草がある。彼女はそれを指で摘み、慎重に抜き去る。ずりずりと根が引き出され、彼女はそれを小袋へと入れる。

 少女は俺たちを見上げ片手でVサインを作る。


「早く帰ってこい」


 やがて、彼女は上まで登ってきた。


「取れました。どうですか?」


 先生が袋からそれを取り出し中身を検める。


「ふむ。なかなか上手く出来てるじゃないか」


「本当ですか? ありがとうございます! いつ足を滑らせるかとひやひやしました!」


「怖いなら言え」


「もうやりたくないです!」


「そう……よく頑張ったな。もう休んでていいぞ」


「次ははやてさんが降りる番ですか? 落ちても止められる自信はないです! 死ぬときは一緒ですね!」


「俺は自分で止められるから大丈夫だよ……命綱も、もう外していい」


「そうですか?」


 彼女は名残惜しそうに、腰元に結ばれた綱を弄る。


「私は保存用の袋を作っておこう」


「そういえば言ってましたね。ここの魔石は足りてます?」


「少ないが、まぁ何とかするさ」


「じゃあ、俺は薬草集めて来ます」


 斜面を見渡し、薬草を見つけて回ると、先生は保存用の袋とやらを作り終わっていた。


「何やったんですか?」


「袋に龍脈を馴染ませた。後は、袋に入れた魔石が内部の龍脈を高濃度に保ってくれる」


 袋を見せてくれるが、やはり魔道具のことはさっぱりだ。彼は、渡した薬草を一つずつ中に入れていく。


「先生、それは何に使う薬草なんですか?」


「極限環境下に適応した植物の、龍脈への適応性を調べる。薬効としては、魔物の治療に秀でて使えるらしい、私はそっちには詳しくないがな」


 少女は理解することを諦めた。


「極限下の植物の魔物化、ですか」


「あぁ。あの”極夜海”の環境を推察する足掛かりになればと思ってな。本当は、現地に行って取って来れればそれが一番なんだが」


 それは……難しい話だろう。異界”極夜海”は、異界深層の奥も奥、異界の中央に広がる極寒の海だ。人界とは真反対にある。


「”極夜海”の中央に、別の世界へと繋がる穴があるって噂、本当なんですかね」


 少女の顔に、二人の目線が集まる。


「一説には、巨大な結晶の山があって、そこを降りていくと別の世界があるって」


 先生と顔を見合わせる。


「ふむ。あの”空の賢者”の弟子である所のはやては、何か知っているか」


 言っているのは、あれのことだろう。


「”結晶蓋”……結晶の蓋と書いて”結晶蓋”ですが、その下には、魔物が生まれる根源があるとか、龍脈の源流があるとか、なんとか」


「……それは、本当の話なのか? 実在する話なのか?」


「騎士王隊が、禍津鬼の根絶を掲げているのはご存じでしょう。その源が、異界の最奥にあるとして、何度も討伐に向かっているのも」


「……悲願が叶ったと、聞いたことは無い」


 確かに。だが禍津鬼の数は減少傾向にあるらしい。その分、一個体の質も上がっているらしいから、騎士王隊の功績かどうかは分からないが。


「何にせよ、人界を出られない我々には遠い話か」


「王都の教授は……まぁ、実際に足を向ける機会は、少なそうですね」


 彼のレベルだって相当なものだが、深層に足を踏み入れるにはまだまだ足りない。


「悔しいが、そうだな。……君はどうなんだ? 冒険者として、深層入りを目指していたりするのか?」


 二人の目が、今度は俺に向く。


「……上層で遊んでいるような冒険者にも、遠い話ですよ」


「そうか」


 冒険者のレベルを上げる一番の理由として、レベルを最高値まで上げた時の深層入りの許可がある。やはり、遠い話だ。


「はやてさん、いつか連れてってくださいよ」


「……どこへだ? ”結晶蓋”にか?」


「深層でいいですよ」


「軽く言うな。まずお前のレベルが足りないだろ」


「部隊のリーダー一人が許可持ってれば、深層には入れるって聞きましたよ」


「それとは別の話だ。ただの人間が歩き回れる場所じゃないぞ、深層は」


 あれは、魔物が支配する魔物の地。人間は、生態系の頂点に君臨していない、もう長い間。


「その時には、はやてさんのレベルは足りてるんですね」


「……まぁ、仮定の話ならな」


「それじゃあ私も、その時までに鍛えておきますから」


 王都で学ぶ一般の学生に求められるレベルの強さではないぞ……まぁ、いいか。仮定の話だ。


「……足りてたらな」


「本当ですか? 言いましたね?」


「仮定の話だからな」


「おいおい、私は誘ってくれないのか?」


 小さな先生は笑みを浮かべて言ってくる。


「先生も行きたいんですか?」


「行けるものならな」


「先生は、頑張れば自分で行けるのでは?」


「私は自分の力の端が見えている。夢を見る年でも無くなった。そこに行けるとしたら、きっと誰かに手を引かれてだ」


 苦笑して、彼は俺を見てくる。


「……じゃあその時は、俺が手を引っ張って行きますよ」


「ほう。言ってくれるじゃないか」


「先生なら軽いですし」


「言ってくれるじゃないか」


 先生は小突いてくる。


「実力の話ですよ」


「違う含みも、聞こえたがな」


 彼はまた笑う。こうして見れば、意外と表情が豊かな人だ。

 深層入り……仮定の話だ。いつか……行けるようになるかなんて、まだまだ分かりはしない。弛まず歩いていけば、いつか辿り着ける、なんて甘い境地でもない。目指す先は遥か遠く、進むにつれて足は鈍くなっていく。そこに到達できるのは、冒険者の中でもほんの一握りなのだから。


「さて。動いていなければ体も冷えてきた。休憩はこの程度にして、そろそろ帰路に取り掛かろう。天気の変化も怖い」


 見下ろせば、これまで積み上げた行程が見える。今度は、これを戻らないといけない。まぁ、ここまで来たのだ、あとは同じ道を繰り返すだけ、帰るだけ。もちろん、行きとは違った危険がまたあるのだが。


「帰りましょうか」


「……ですね」


 振り返ると、少女は立ち止まり、向こうを見ている。視線の先には、頂上の印として置かれた石碑がある。


「うさぎ」


「……あ」


 彼女は、石碑に手を伸ばし、何かを言い掛ける。しかし、次に出てきたのは、きっと違う言葉だったのだろう。


「……帰りましょうか」


「あぁ」


 少女は名残惜しそうに、空に浮かぶその石碑を見つめていた。



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