番外 -しずく

「ひぃぃ濡れた濡れた……」


 鍵を開けると、彼女が先に入っていく。


「おい、せめて体拭いてから上がれ」


「お風呂どこー?」


 聞いちゃいない。黙って奥を指さすと、荷物を脱ぎ捨て奥へパタパタと駆けていく。

 ったく、なんでこいつが家に。そう遠くないんだから自分の宿まで帰れよ。自分も濡れた荷物を玄関に置き、中からタオルを取り出し体を軽く拭いていく。開けっ放しの玄関から灰色に眩しい空が見える。湿った冷たい空気が下から流れ込んでくる。


「ふーくん!」


「あ? なんだよ」


「着替え用意しといて!」


「着替え? ……この中に入ってんのか?」


「今日は日帰りだから持ってきてないよー、ふーくんの貸してってことー!」


 言うだけ言って引っ込んでいった。だから自分の宿に帰れよ。

 頭を拭きながら家に上がり、引き出しの中を漁る。あいつの分のタオルと……服? 適当なのでいいのか? 下着は……知らね。上下の服を引っ掴み、風呂場へと持っていく、と。


 脱衣所へ着いた途端、向こうからドアが開いた。ぎょっとしていると、ひょこりと彼女が顔を出す。


「持ってきたー?」


「……おま、お前」


「え?」


 彼女が慌てて体の下を確認する。


「なんだ、見えてないじゃん。脅かさないでよ」


「いやおま、今はだっ」


「肩から上ならいいでしょ、別に」


 彼女の滑らかな肌が見える、曲線を描く細い肩、今は水に濡れ、玉のような水滴が乗っている。髪は束になって滴がぽつぽつと垂れ―


「いや、じろじろ見んなし」


 そう言って、彼女は目の下までひっこめる。


「これ、置いてくからな、文句言うなよ」


「んー、ありがとー」


「じゃあ―」


「ねーふーくん」


 彼女がそこで言葉を途切れさせたせいで、どこにも行けない。彼女はじっと、こちらを見てくる。


「……なんだ」


「ふーくん、こういうの、全然耐性なさそうだね」


 じぃーと彼女の目線が俺を貫く。


「……うるさい痴女」


「痴女じゃないし。一緒にパーティー組むことも多いんだし、これくらいなら今更でしょ」


「話が別だろ、ここは俺の個人的な閉鎖空間で、今は俺とお前の二人きりで」


 いつもは真っ先に考えるはずの魔物に襲われる危険性もないから、余計な考えも。


「……なぁ、もう行っていいか」


「ねーふーくん」


「なんだよ」


「見たい?」


 ぎしりと体の動きが止まる。ぎぎぎと彼女の方を見ると、半端に隠れた彼女の口が、笑みの形を作るのが見えた。


「いやぁ、ふーくんざこだなー」


「……お前、襲われても知らないからな」


「いいよー? ふーくんに、そんな度胸があるなら」


 ……。


「ほらねー」


「……今日は依頼終わりで疲れてるし」


「はいざこー」


「さっさと上がれ。次がつかえてんだよ」


「そーだね。よわよわなふーくんが風邪引かないよう、さっさと上がってあげよっと」


 ぱたんと扉が閉まる。再び、水の弾ける音が聞こえだす。

 ふと、今扉を開けたらどうなるのかと考えた。彼女の無防備な後ろ姿が見えるのだろうか。そしたら……その後は?

 ……やめとこう。少し魔が差しただけだ。扉から手を外す。

 脱衣所に背を向けると、くしゅんと小さな声が背後から聞こえた。あいつ、俺より先に入っといて風邪引いたんじゃないだろうな。


 部屋に彼女の匂いが混ざっていく。肩にタオルを羽織り、冷えた体を誤魔化しながら、そわそわと彼女が上がるのを待っていた。

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