どんなに遠くても
この世のものとは思えないほど赤く染まった夕暮れの空は、今にもこの河川敷へ落ちてきてしまいそうに映った。父さんの転勤で転校になるかもしれない、と母さんに告げられた次の日。帰り道で彼女にそれを伝えると、思わぬ言葉が返ってきた。
「会いに行くから」
「え?」
「どんなに遠くても。だから、元気出して」
彼女が、屈託なく笑う。不安を抱えていた私は、その笑顔に救われた気がした。
堤防の階段に差し掛かると、秋風に乗ってキンモクセイの匂いが漂ってくる。私は、思いっきりそれを吸い込みながら言った。
「ありがとう! じゃあ、また明日ね」
「うん! また明日」
階段を駆け降り、すぐ側の自宅を目指しながら私は思った。彼女とは、一生の友達だと。
結局、父さんの単身赴任が決まり、転校の話は無くなった。やがて年が明け、春になり、五年生のクラス替えで私達は別々のクラスになった。
そしてある時から、彼女は私と一緒に帰らなくなり、学校で話しかけても素っ気ない態度を取られるようになった。
もっと仲の良い友達ができちゃったのかな。
私はとても寂しい気持ちになり、そんな想像をして彼女から離れていった。
六年生になった私は、卒業を控え、どこか憂鬱な日々を送っていた。大人に近づくのがなんだか嫌だったからだ。
放課後、晴れていた朝に母さんが言った通り、激しい雨が降っていた。秋の天気は本当に変わりやすいんだな、と納得しながら傘を差して校門を出る。
少し歩いて河川敷の階段を登ろうとした時、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
彼女だ。
傘も差さずにずぶ濡れになっている。私は一瞬ためらったが、考えるより先に体が動いた。階段を急いで駆け上がり、堤防を歩く彼女に追いつく。
「ねぇ、大丈夫?」
「……別に、平気」
驚いた様子の彼女だったけど、すぐに冷たい表情を取り戻して歩き出す。
「おうち、まだ遠いじゃない。傘貸すから、うちに寄って」
「いいよ」
「よくないって。風邪ひくよ」
「ほっといて」
聞く耳を持たず歩き出す彼女に、私はとうとう大声で叫んだ。
「ほっとけないよ! 友達なんだもん!」
ピタリ、と彼女の足が止まる。久しぶりに間近で見る彼女は、えらくやつれているように映った。
「お願い。体も拭かなきゃ」
立ち止まる二人に、容赦ない豪雨が降り注ぐ。このままこの雨が、私達の空白の時間ごと、離れた距離を洗い流してくれたらいいのに、と私は思った。
彼女を無理矢理家に上げた私が、バスタオルと替えの服を手にリビングへ戻ると、彼女はゆっくりと室内を見回していた。
「……懐かしい?」
私の問いに、コクリとうなずく。
私がバスタオルを渡すと、彼女はそれを見つめたまま微動だにしない。
「さ、早く」
私が促すと、彼女はようやくためらいがちに洋服を脱ぎ始めた。その時。
「……!」
私は、言葉を失った。彼女の素肌のそこら中に、痛々しく、青く腫れ上がった打ち身があったのだ。
「何も、言わないで」
彼女はそう言いながら髪と体を拭くと、ランドセルから体操服を取り出しそれに着替え始めた。私は早くなる鼓動に呼吸が苦しくなりながら、その様子を眺めていた。
「返さなくて、いいから」
玄関でビニール傘を渡しながら言うと、彼女はうなずいて答えた。
「……ありがとう。それと」ドアを開けながら、彼女が振り返る。「私、引っ越すの。最後に話せてよかった」
私は突然の言葉に驚き、絶句した。
「じゃあ」
ドアが閉まる。訪れた静寂とは裏腹に、消化しきれない様々な感情が激しく胸に渦巻いた。
私の知らぬ間に、彼女に何が起こっていたのか。離れていく彼女の異変の真実に、どうして気付けなかったのか。私にも言えない、とてつもない何かが彼女を苦しめていたんだ。
私はゆっくり深呼吸をしてから、震える手でドアハンドルを握りしめた。
外に出ると、さっきまでの勢いが嘘のように雨はすっかり止んでいた。どうやら通り雨だったらしい。雲の切れ間から、眩しい光がわずかに顔を覗かせている。
私は走って河川敷までやって来ると、勢いよく堤防の階段を駆け上がった。そして、心の底から振り絞るように、遠のく彼女の背中に叫んだ。
「会いにいくから!」
一瞬、足を止めかけたように見えたけれど、彼女はこちらを振り返ることなく、そのまま歩いて行ってしまった。
「どんなに遠くても!」
カラスの鳴き声と、遠くで泣きじゃくる赤ん坊の声が聞こえてくる。下唇を強く噛んで堪えたけど、胸の痛みと、無力さで、溢れ出す涙を止められなかった。
私は、美しく複雑な色をした雨上がりの秋空の下、いつまでも、いつまでも彼女の後ろ姿を見つめ続けた。
それは、ずっと子供のままでいられるような気がしていた自分との、別れの光景でもあるように思えた。
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